椹木野衣 美術と時評108:潮汲み3年、塩撒き10年 ―「奥能登国際芸術祭/運動」をめぐって

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金沢美術工芸大学 アートプロジェクトチーム[スズプロ]「奥能登曼荼羅」2017年、旧八木家、石川県珠洲市 撮影:岡村喜知郎 写真提供:奥能登国際芸術祭(以降全て)
飯田エリアの街中にさりげなく佇む明治期に由来する古民家の中に入ると、目の前の視界いっぱいに奥能登=世界が広がる。大学の混成チームが珠洲と大陸の文化交流や動植物の生態系の分布を一面に描いた曼荼羅壁画は、奥能登が思いもよらぬ陸と海のダイナミズムを備えていることを開陳している。設置は第1回の「奥能登国際芸術祭2017」。

 

新年を迎えたばかりの2024年1月1日元旦、夕刻の16時10分、石川県能登半島、いわゆる奥能登を震源とし、マグニチュード7.6を観測する大きな地震が突如として起きた。気象庁は直後から大津波警報を発し、テレビは急遽、津波から直ちに避難するよう視聴者へと懸命に呼びかけた。そんななか、わたしの頭に即座に浮かんだのは珠洲市のことだった。2017年から始まった「奥能登国際芸術祭」の第2回、コロナ禍のため1年の延期を経て2021年に開催された、正式名称としては「奥能登国際芸術祭 珠洲 スズ 2020+」(そう、この芸術祭はほかでもない「珠洲=スズ」と呼ばれるのだ)に参加し、たいへん充実な時間を過ごすことができたからだ。頭では今でも作品の思い出を引き金に、「スズ」で巡った道筋や街並み、海を臨む景観、やりとりした人々、和やかな一夜を過ごした旅館や、充実した食事の数々を鮮やかに思い浮かべることができる。それらの多くが傷つき、失われてしまったとは、いまだに信じられない。

これまでもわたしは、日本列島を大きな災害が襲うたびに、それについて美術の立場から批評的に考察してきた。その集大成が2017年に刊行した『震美術論』(美術出版社)であったわけだが、同時にそれはそのなかで繰り返し記したとおり、ほかでもない「事前」の一冊——日本列島では震災に純粋な意味での事後はない、ひとつの震災は常にいつか起こるもうひとつの震災の事前にある——でもあった。けれども、奥能登地震はすでに事前ではない。だから、わたしはそれについてなにか書かなければならない。だが、今はまだ正直に言って筆が動かない。だから今回は、現在まだ進行中と言うしかないこの震災の事前に、わたし自身が「スズ」についてなにを感じ、どんなことを考えたかについて、公式カタログに寄せた総論を、ここに再録することにした。いま、わたしにできることがあるとしたら、それくらいだ。

椹木野衣
2024年2月5日

*以下のテキストは『奥能登国際芸術祭2020+』図録に収録された筆者の論考「潮汲み3年、塩撒き10年 ―『奥能登国際芸術祭/運動』をめぐって」の再掲です。転載をご承諾いただいた北川フラム総合ディレクターと、ご協力いただいた関係者の皆さまに御礼申し上げます。

 

「奥能登国際芸術祭」を通じて珠洲という名を初めて知った美術関係者も多いのではないか——こういう前振りをすると、かくいう私も、と続くのが通例だが、そうではない。私が珠洲という名を知ったのは、実は行きつけの居酒屋でのことだった。

私はもとより飲食に大きな関心があり、若い頃からいろいろと食べ歩いたものだが、齢を重ねるにつれ通う店が絞られ、数年前からはほんの数えるほどになった。そういうわけなので、自分なりに時を経て、おのずと自分の好みで凝縮されていったのだが、そのなかの一軒が出す焼き魚が、どう考えても頭抜けているのである。

こうした段階になると、素材の厳選や旬の見極めは当然のことなので、そのことで大きな差がつくことはほとんどない。あるとき、大将にそれとなく聞いてみた。「うーん、もしかしたらスズの塩を使っているからじゃないですかね」——それが答えだった。「塩についてはいろいろ試してみたんですけどね、最終的にこれに行きついて、それからはスズの塩しか使ってないんです」。「スズ?」と私は漏らした。まったく聞き慣れない響きだった。しかしそれが私と珠洲との最初の出会いだった。

そんなことがあったので、今回、「奥能登国際芸術祭2020+」をきっかけに初めて珠洲を訪ねることになっても、私の頭のなかにはいつもスズの塩のことがあった。東京の居酒屋のカウンターで心地よい酔いに身をまかせながら、「スズっていうのは、いったいどんなところなんだろう。どうしてあんなうまい味を引き出す塩ができるのか。なにか秘密でもあるのだろうか。もし機会があれば見てみたいものだ」と、その店に足を運ぶたびに考えたので、行ったこともないのに、実は珠洲についてはそれなりに年季が入っていたのだ。

 


山本基「記憶への回廊」2021年、旧小泊保育所、石川県珠洲市 撮影:岡村喜知郎
三崎エリアの岬に立つ平家の旧保育所に入ると、青く塗られた廊下、壁、天井に白く描かれた「ドローイングのトンネル」が目の前に続く。その先の遊戯室に広がるのが「塩の庭」である。その中央には塩で築かれた階段が位置する。本文でも触れたように塩は私たち人類の命の誕生や維持に特別な意味を持つ。と同時に塩は清めや浄化、失われたものとの絆を繋ぐための媒介でもある。珠洲の塩はその象徴と言えるだろう。

 

だから、いざ東京から見て「最涯(さいはて)」の地、珠洲に降り立ち、「最先端」のアートを見てまわっていても、どこかであのスズの塩といつもつながっている気がして仕方がなかった。東京とさいはては真逆のようでいて、私の好む大都会の居酒屋が、東京という「最先端」にありながら、雑居ビルの一角で、見つけにくい入り口から細長く奥に伸びるカウンターだけの店ばかりだったからかもしれない。そう、それは半島のようだった。もしかしたら、そんな場所でスズの塩しか使わない大将の店は、別の意味で東京の最先端に位置し、あえていえば奥能登のような場所だった気がする。

さて、こうして私が「東京のなかの奥能登」に惹かれるのには、ほかにも理由があった。壁で隔てられた向こうから魔術のように立派な品が運び出されてくる立派なレストランと違い、カウンター一枚向こうですべての料理を作る一部始終を目の当たりにできる半島のような店は、その工程を目の当たりにするのが、食の楽しみのうちかなり多くを占めている。料理というのは、目で見るのも味のうちとよく言われるけれども、それなら料理を作る過程を見るのも、同じくらい大きな魅力のはずなのだ。

 


クレア・ヒーリー&ショーン・コーデイロ『ごめんね素直じゃなくて』2021年、旧喫茶アンアン、石川県珠洲市 撮影:岡村喜知郎
海沿いの正院エリアに、かつて昼は喫茶店として、夜はカラオケやライヴも楽しめるスナックとして多くの人に親しまれた「喫茶アンアン」がある。古来より漁師が月の満ち欠けを手引きに潮の干満を見ていたのに着想を得て作られた巨大な月の模型は、見る者をいきなり天空の異次元へと引っ張り込む。タイトルはアニメ『セーラームーン』の主題歌から。

 

延々と美術と無縁の話を続けているようだが、そろそろ種明かしをしなければならない。なにが言いたいのかというと、このものづくりの工程が見える、というのが、実は芸術祭と呼ばれる催しのうち、もっとも大きな魅力のひとつなのではないか、と考えていたからだ。

仕事がら、展覧会が開く前の準備の段階から会場を訪ねることがしばしばある。そういうことが積み重なると、目の前でいろいろな分業や試行錯誤を経てものづくりが進んでいくのを知る身としては、きれいに片付けが済んでお膳立てができ、「せーの」の掛け声で一斉に開幕する展覧会の会場に入ると、どこか物足りない。無理なこととは知りつつ、あの工程を皆と共有できたら、どんなに多くの発見があるだろうか、といつも感じていた。だから展覧会でも芸術祭でも、隔離された厨房より、いっそむき出しのカウンターを、と期待してしまうのだ。

もっとも、その期待に応えるのは、いわゆる公開制作とか、会期中も刻々と変容を続ける複合的なインスタレーションのようなものとも違っている。別の見方をすると、もともとむき出しのカウンターに近いはずの地域ごとの芸術祭でも、工程と展示が切り離されて、結果的に「料理」だけに注目が集まるものも少なくなかったのではないだろうか。

初めて訪ねた珠洲での芸術祭は、その点で言うと、まさしく半島さながらにむき出しのカウンター感があった。それは、コロナで会期が延期となり、一年を経てようやく開催されても様々な試行錯誤を余儀なくされ、まさしく工程がむき出しになるような部分があったからかもしれない。しかし、私にはそれは決して消極的な要素とは感じられなかった。むしろ過酷な塩作りのように、その工程が心のうちに偲ばれるほど、土地と作品との繋がりが、切っても切れないもののように浮かび上がってくる気がしたからだ。

 


さわひらき「幻想考」2021年、旧日置公民館、石川県珠洲市 撮影:岡村喜知郎
珠洲の最北端に位置する日置エリアに位置する本作は、もとは公民館として利用されていた施設だ。地域の住民が集まり様々な活動のために利用するこの「いえ」を、作者は今回「アートの公民館」として生まれ変わらせた。血縁に基づく家も共同体が寄り添う家も、もとは制度的なものであり一種の「幻想」にほかならない。公民のためのやしろとしてのアートがこの幻想を顕在化する。

 


デイヴィッド・スプリグス「第一波」2021年、旧漁具倉庫、石川県珠洲市 撮影:岡村喜知郎
蛸島漁港から陸へ入ったところに位置する巨大な倉庫(かつて魚網を修繕するために作られた)を使った本展示は、文字通り真っ赤な津波を扱う。その意味で不穏にも今回の能登半島地震によって発生した津波を暗示することになったが、波は同時にコロナ・パンデミックの襲来にも喩えられ、私たち誰もがいま置かれている危機の時代を暗示している。

 

実際、塩作りは古来より過酷極まりない作業の連鎖を経て、ようやく得られたものだという。ただでさえ過酷な自然環境のなかで営まれた塩作りなら、なおさらのことだろう。というよりも、過酷な自然環境だからこそ、生業が塩作りへとおのずと絞り込まれたと言ったほうがいい。なぜなら、そのことと珠洲の塩の味わいの深さとには、切っても切れない関係があるからだ。

珠洲市制50周年を記念して刊行された『珠洲のれきし』(珠洲のれきし編さん委員会=編、北國新聞社=制作、珠洲市役所=発行、2004年)によると、「塩田は能登海辺一帯で行われていたが、特に珠洲で多かったのは、次の6点の理由からではないだろうか」(245頁)としたうえで、以下の要素を箇条書きで上げている。

 

1 加賀藩が珠洲の塩生産に力をいれたこと
2 燃料を手にいれやすかったこと
3 内海の海岸は砂浜が多く塩田をつくりやすかったこと
4 外浦の海岸は、いそ浜で塩田をつくるには苦労が多かったが、日照時間が長い利点があったこと
5 大きな川がなく海水の塩分が濃いこと(『珠洲郡史』150頁に異論あり)
6 水田が少ないため米の生産が十分でないが、米にかわる他の生産がなかったこと

 

これらはいずれも、珠洲の自然環境がいかに過酷であったかの裏返しでもある。しかしそれは、米作りを価値の原理とするかつての中央集権制から一方的に推し量るからそう見えるのであって、燃料を手にいれやすいのは山が海に迫っていたからだろうし、米が穫れなかったから別のものづくりが発達し、その特産性ゆえに藩から保護されることにもなった。つまり、「さいはて」だからこそ「先端的」なものづくりが発達し、他に比すことのできない塩の味わいも生まれたことになる。

これは、どこか辺境の地をむしろ魅力へと転化してきた日本における芸術祭でのものづくりに似ていないだろうか。奥能登に話を戻せば、珠洲においてアートは塩のようなものかもしれない。としたら、その工程は進んで公開され、共有されて、ほかの芸術祭とは異なるかたちで伝えられてよい。その意味では、今回訪ねたうちでもっとも印象に残っているスズ・シアター・ミュージアムにおける「劇場型民俗博物館」の試み、「珠洲の大蔵ざらえ〜光の方舟〜」(*1)はその典型であったように思う。

 


南条嘉毅「余光の海」2021年、スズ・シアター・ミュージアム「光の方舟」、石川県珠洲市 撮影:木奥恵三
日本海に直に接する峻厳な地形の大谷エリアの高台に位置するズズ・シアター・ミュージアム「光の方舟」。その中央部分に位置する本作では、古い地層から掘り出された土や砂によって人造の砂浜が作られた。作者はそこに撒かれた貝殻、木造船、ピアノ、魚網らからひとつの箱庭を形成し、場を依代(よりしろ)に古い帳面に詠まれた今は亡き人たちが残す和歌や俳句を蘇らせる。

 

それは「アーティストの作品と行き来するような」プログラムとしてのアーカイヴなのだ。としたら記録も同様だろう。この一文が掲載されるカタログも、きっと「従来の定性的な記述だけではなく、作家が地域にどのように対峙し、芸術を通して地域のなにに光があたり、場がどのように変容していったかという動的な記述を試みたい」(本稿への依頼文より)という、その生きた器に収められているに違いない。

このようなことを複合的に組み合わせて考えてみたとき、スズでの芸術祭は、もしかしたらすでに「芸術祭」とは異なる道を歩み始めているのかもしれない―そんなふうに思うのは、第1回となる『奥能登国際芸術祭2017』のカタログに寄せられたあいさつ文のなかで、泉谷満寿裕市長がこのようなことを述べているからだ。

 

私は、「奥能登国際芸術祭」は単なるイベントではなく、「運動」であると考えています。自己実現と地域貢献が渾然一体となった珠洲市で暮らすことの幸せを、多くの方に解っていただきたい。「奥能登国際芸術祭」は、さいはての地から、人の流れ、時代の流れを変えていく運動であると考えています。

 

これはまさに、工程としての芸術祭、ということではないだろうか。その点でも珠洲での芸術祭は塩作りに通じている。そうならば、「奥能登国際芸術祭」は今ある芸術祭のオルターナティヴとしての、もしかしたら「奥能登国際芸術運動」でもある、ということになるのではないか。

だが、それは簡単なことではない。同じく『奥能登国際芸術祭2017』のカタログに寄せられた総合ディレクター、北川フラムによる一文「芸術祭はどうつくられていったか」にもあるとおり、「地域内外の縁が化学反応を起こしていくには最低でも10年(3回)の継続が必要」(11頁)とあるとおり、芸術祭には建前上、限られた会期こそあれども、実際にはそれはあまり決定的な意味を持たない。ましてや運動なのであればなおさらのことだ。

 


チームKAMIKURO 旧上黒丸小中学校での様子、2021年、石川県珠洲市 撮影:岡村喜知郎 中央は中瀬康志「上黒丸 座円 循環 曼荼羅 壱」2021年
海から内陸に入り棚田も広がる山間部に位置する若山エリア。会場となる旧小中学校の建物は珠洲市と金沢美術工芸大学の提携で2012年から様々な分野の専門家により地域リサーチが行われ、それを「アートスフィア」へと落とし込むプロジェクトが積み重ねられてきた。2021年には10年にわたるその成果をひとつの空間へと結実させた。

 

ところで、北川氏がここで「最低10年、3年ごとに3回」という基準を示しているのは、珠洲と塩作りの縁を考えるうえで、とても興味深い。というのも、珠洲での塩作りにも「潮汲み3年、塩撒き10年」という言葉があるからだ。北川氏がそれを承知でいったかはわからない。だがいずれにしても、珠洲というさいはての地でのアートづくりは、そのままこの地での塩作りに真っ直ぐに通じている。うまい塩が生まれる場所と、味わい深いアートが紡がれる土地というのは、決して偶然につながったわけではないのだ。

先に引いた『珠洲のれきし』に収められた塩作りについての解説は、さらに大きな塩と人とのつながりを示唆している。そこには、「私たちが住むこの地球が誕生したのは約46億年前。やがて海ができ、その海の中の塩素とナトリウムが結びついて「塩」が生まれた。そして、海から地球の最初の生物が誕生した」(244頁)とある。塩は全地球の命の源であり、それは海からやってきて地上へと這い出し、やがて人類を生み出した。私たちの血中の塩分がその名残と呼ばれるのは、よく知られたことだろう。よい塩作りがされる場所は、きっとよき人の命が育まれ、伝えられる場所でもあるに違いない。そこから、「奥能登国際芸術祭」ならではのアートが、いままさに作り出されつつあるのだ。


 

付記:転載にあたって新たに添えた写真については、いずれも筆者が実際に「奥能登国際芸術祭2020+」を回り印象に残ったものから選んだ。

初出:『奥能登国際芸術祭2020+』図録、奥能登国際芸術祭実行委員会、2022年、164〜165頁

「奥能登国際芸術祭2020+」は2021年9月4日(土)から11月5日(金)まで、石川県珠洲市全域で開催された。

 


1. (ART iT編集部註)「珠洲の大蔵ざらえ」は、かつて海運の結節点として交易の盛んな「最先端の地」だったこの地が、高齢化等が進み空き家なども生じてきたなかで、家々に代々残る民具や地域の財産を、思い出や記憶とともに市内一円から集めて整理するプロジェクト。地域住民、サポーターらの協働で集められた道具たちは、専門家が調査し、アーティストが作品へと「活用」することになり、劇場型民俗ミュージアム「スズ・シアター・ミュージアム『光の方舟』」の誕生へとつながった。
詳細:https://www.oku-noto.jp/ja/okurazarae.html

 


筆者近況:寄稿「マイクロプラスチックの海——海洋地獄画の系譜」、『ラッセンとは何だったのか?[増補改訂版〕』原田裕規編、フィルムアート社、2024年

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