2009年8月1日(土)〜9月5日(土)
TARO NASU (東京)
http://www.taronasugallery.com
文:保坂健二朗(東京国立近代美術館研究員)
この夏、都内の6つのアートギャラリーが、『Architect Tokyo』の共通タイトルのもと、それぞれ建築展を企画した。たとえば小山登美夫ギャラリーが紹介したのは、菊竹清訓、伊東豊雄、妹島和世、西沢立衛という、師弟関係でつながる建築家たち。ドローイング、様々な用途の模型、映像、写真などが展示されたが、売られているものもあればそうでないものもあった。
気になったことがある。同時多発に開催されたためか、ほとんどの企画を通して祝祭性が際だっていたのだ。どこか広告代理店的なノリの中で、なにか大事なことが忘却されていた。
「例外」はあった。青木淳の『夏休みの植物群』である。会場のTARO NASUは青木自身の「作品」(内装を担当)でもあるが、青木は、既存の作品の特徴であるなんの変哲もない(ように見えるべくデザインされた)照明を消して、かわりに、ナンセンス極まりない、照明として機能するオブジェをつくり、それらを「作品」として置いた。引いて、足して、質を変えたのである。
見逃してはならないのは、「ギャラリー」の中の「展覧会」という構図が、この場合、「作品」の中の「作品」と読みかえられる点だ。シェイクスピアの『夏の夜の夢』が、劇中劇の構造を巧みに使って真実と虚構を差異化することの無意味を暴いていたように、青木もここで、きっとなにかを暴こうとしたのだ。だから彼は、建築設計のプロセスで自然発生的に生まれるものは展示しなかった。そうしてしまっては、建築設計という営みを変質させてしまう可能性があるし、なによりもコンテクストに対して批判的でない。建築的でない。
彼が暴こうとしたのは、おそらく、アートギャラリーの魔術性だろう。魔術(呪術)からの解放を資本主義の契機としたのはウェーバーだが、アート(ギャラリー)が面白いのは、どこまでも資本主義的でありながら、魔術的思考を否定しないどころか、その存在原理としている点にある。そんな場所で、青木はナンセンスなオブジェクトに、植物の形態を与えた。あるいはまた、自分の家族の名前を与えた。増殖して人を養っていくことになる植物と、共同体の原型としての家族。どちらにも、資本主義の暴走を緩めることができるかもしれない「贈与」という概念が潜んでいる。そこから私は、青木淳の中で、新しい資本論への関心が胚胎していると想像してしまう。
青木淳 『夏休みの植物群』(2009年、TARO NASU、東京)展示風景
© 青木淳建築計画事務所 写真提供:TARO NASU 撮影:木奥恵三
ART iT関連記事
フォトリポート:青木淳 『夏休みの植物群』TARO NASU