シュッタブラタ・セングプタ インタビュー(3)


Things that Happen When Falling in Love (2010), 18 colored and clear acrylic figures with printed mirrored letters, wire cables and fixings, seven video screens, 13 photographs, installation view at BALTIC Centre for Contemporary Art, Gateshead, 2010. All images: Courtesy Raqs Media Collective.

 

私のうちにあって緯度は拡がり
インタビュー / アンドリュー・マークル
I. II.

 

III.

 

ART iT あなたは、愛は革命の原動力だとおっしゃいました。今日、異なる社会のなかで、幅広く複雑な愛の意味について考えるとき、従来、ロマンチック・ラブは一対一の関係性だという前提があるとはいえ、最初は排他的だったその愛情が、子どもだったり、新しい恋人だったり、もうひとりの人物のための場所、また、二人以上のための場所を開くことも多いという矛盾がある。愛とは本質的にポリアモリーなものなのではないでしょうか。

シュッタブラタ・セングプタ(以下、SS) まず最初に思うのは、愛は未来を要求するということ。なぜなら、誰かを愛するとき、その愛は時間的に動的なリアリティを持つ。この人を1時間だけ愛するとは言えない。つまり、時間を限定することなどできず、たとえばそれが1時間半になってしまうこともあるわけです。「まだ見ぬ」この30分に、そこに意識の拡張と愛の予測不可能性の開かれがあるのではないかと想像する。大抵の場合、私たちはよくわからない結果に対して保険を掛けようとしますが、愛の場合に限り、まず第一に愛する人あるいは愛する人々が変わっていくこと、大人になったり、年老いたりするという事実を受け入れ、たとえ彼らが変わっても自分の愛情や欲望は変わらないと言う。相手への愛情を維持するために、変わっていく相手とともに自分も変わっていくという約束。これこそ私にとっての未来を自分たちの現在に迎え入れる方法です。愛をテーマに制作した作品に、アクリルシートの複数の人形に動詞を刻み込んだ「The Things That Happen When Falling in Love」(2010)があります。刻まれている動詞はすべて、考えている、感じている、している、走っている、歩いているのように、動作を表す単語で、すべての行為が現在進行形の形をとっています。それは常に現在と未来をつないでいます。

 

ART iT では、知識の場合はどうでしょうか。知識を生み出すために知識が必要で、それは権力を持つものに特権を与えることになる一方で、たとえば、19世紀イギリスの労働者による自己教育活動を思い浮かべれば、ほんの少しの知識が変革を助けうることもある。現在、インターネットが知識への圧倒的なアクセスをもたらしたにもかかわらず、利用可能な膨大な情報量のなかのあらゆるオンライン詐欺やフェイクニュースも含め、知識のバランスにどのような影響が及ぶことになるのか必ずしも明らかではない。検索するものを知らなければ、一生見つけられないかもしれない。

SS 19世紀ヨーロッパの労働者の読書活動(読書施設やブック・クラブなど)や自己教育活動を引き合いに出したのは面白いですね。事実、そのような精神への回帰を感じています。新しい類の自主的な学びの形式が、とりわけ労働者の間で広く拡散している。自分たちで学びあい、しかし、それが自分たちだけにとどまらず、しばしばそれを小さなサークルで教えあい、DIYカルチャーだったり、フィットネスやヨガなどを通じた自己探求だったりと、ごく普通の仕方で行なっている。他者との関係のなかで自分を継続的に成長させていく必要性を感じている人がたくさんいるのは明らかですね。

ラックス・メディア・コレクティブでは知識について、最近は無限との関係のなかで思考しています。おっしゃる通り、知識の不平等があることは事実です。たとえば、17世紀ヨーロッパのアタナシウス・キルヒャーという「すべてを知る最後の男」と呼ばれた人物がいます。近代のアタナシウスとあなたや私の間には大きな違いがあるかもしれないけど、にもかかわらず、私たちはみな、誰も知らない物事が無限にあるというなかで存在している。ですから、知識という点では不平等かもしれませんが、無知という点では平等です。非常に解放的な考え方ですよね。スティーヴン・ホーキングのような博識家も新聞を読めない人もどちらも等しく無知である。そのような前提に立てば、私たちみなが知ることができること、あるいは知りたいと望むものについて、公平な条件が与えられることになる。無知を豊かなものとして扱うこと。未知なるものの豊かさ。それがより大きな冒険の扉を開けてくれます。20世紀の終わり、どんな新しい世界が待っているのだろう、残された知るべきものとはどんなものだろうと人々が考える時期があったと思いますが、今ではそういう時期も過ぎてしまったのではないでしょうか。私たちは知りたいという欲求や好奇心に立ち戻っています。

 


The Necessity of Infinity (2017), performance for the 13th Sharjah Biennial, carpet, embroidery, mise-en-scene based on the 10th-century correspondence between Al Biruni and Ibn Sina, “The Necessity of Eternity.”

 

ART iT 自分たちの作品には教条的な要素があると思いますか。

SS 独学的な要素はあると思う。私たちが作品制作を通じて学んでいます。作品がほかの人々に何かを教えることができるかどうかわかりませんが、制作してきた各作品から、確実に自分の意識や好奇心が拡がりました。ほかの人々はただその私の喜びに触れるだけかもしれないし、私たちがふざけているのを見て楽しんでいるのかもしれません。

 

ART iT 私自身そこまで好きな言葉ではないのですが、いわゆる「レクチャー・パフォーマンス」のようなものをいつのまにか身につけているのではないでしょうか。

SS ある期間内にいろいろなことができて、効率的なんですよね。たとえば、ここ数ヶ月、私たちはシャルジャ・ビエンナーレで発表する「The Necessity of Infinity」(2017)を制作していました。ある種のレクチャー・パフォーマンス作品です。しかし、私たちのパフォーマンスは教条的なものではなく、より物語的、演劇的なものなので、レクチャー形式のものからは離れつつあると思います。

 

ART iT おそらく東京藝術大学でグローバルアートプラクティスの学生との話し合いで話題に上がったかもしれませんが、ここ30年以上にわたる日本のアートの原動力のひとつに、そして、それはさらにその伝統を遡りさえするものですが、知性やロゴスを体制順応的、還元主義的、本物ではないとして見なし、主観的あるいは偽りのない個性的な体験を特権的に扱う傾向があります。もちろんこれは単に「文化的な」現象のみならず、極度な競争教育や発展した社会システムに対する反応ということもあるかもしれません。感性と知性、身体と言語の対立について、あなたの意見を聞かせてください。

SS おっしゃりたいことはわかります。ただ、私は3人で共同制作しているので、ほかのふたりに私のアイディアを伝えるという方法しかありません。誰もが未知なるものを膨大に保管しているので、仲間のふたりを目の前に直感という贅沢を挟み込む余裕はありません。もし私がひとりで活動するアーティストだったらできるかもしれませんが、どうなるかわかりません。まず第一に、私は「思考なき身ぶり」のようなものを疑っています。そのような概念は、自分たちは一般の人々とは違う営みをしているのだという知識人の思い込みの産物で、そうしたものが逆に一般の人々に自分は知識がないと思わせてしまうことに反映しています。私の経験、そして、ラックス・メディア・コレクティブのひとりとしての私の経験では、ひらめきとは筋肉やホルモンといった肉体的な作用、本能的な作用です。それは食欲や性欲と同じように身体的な欲求だから、思考や観念が身体から離れているなどとは考えられません。私たちが話している神経による作用はまさに身体的なものです。

実際、グローバルアートプラクティスの講義では、「第六感がなくても、少なくとも5つの感覚が連携しているのだから、みなさんひとりひとりがコレクティブな実践です」と伝えました。聴覚、触覚、視覚、味覚、嗅覚、これらすべてがある共通言語を必要としていて、その言語こそ、私たちが普段行なっている「自分について思考すること」で、もう一方では、実際には、ただ私たちの内部にいる他者の要求に応答しているのかもしれない、それぞれの感覚のあいだで共有された言語。事実、人間の身体はそれ自体、さまざまな生命体の結合体で、人間はそのたったひとつに過ぎず、それらすべての生命体が私たちの内部でしゃべっているのです。

 


Utsushimi (Double Image / Token / Emanation) (2017), materialized architectural drawing in illuminated wireframe, site-specific installation for the Oku-Noto Triennale 2017.

 

ART iT あなたは禅のリサーチに時間を費やしてきましたが、日本社会に浸透している禅と西洋社会の前衛の間で尊重されているZENとでは、かなりの違いがあります。禅について調べているとき、そこにどんなことを期待しているのでしょうか。

SS 私が探しているのはメタファーですね。長時間かかるかもしれないプロセスを短縮することについて調べています。決して軽んじているわけではありませんが、禅は魂の探求におけるインスタントフードのようなものではないでしょうか。従来、仏教哲学や仏教思想のさまざまな宗派による遺産には、膨大な思考や議論が必要とされていました。たとえば、インド仏教の慣習では、論理の範疇において、主体と客体を分けることに一生を費やす。これはおそらく禅とはまた別の知性に訴える高度な思考プロセスの極端な例だと思います。禅はそうしたプロセスの大半を省略し、一生かかるであろうことに3秒で到達できると言うのです。こう言ってよければ、仏教における未来派宣言ですね。ただし、これは氷山の一角に過ぎず、海面下には少なくとも2000年という莫大な思索の年月がある。ある瞬間、禅が生まれた。それは歴史性を持つ。そして、今、それは新たな歴史性を持つ。経典を燃やすことができると口にした禅師たちは、そもそも燃やすための経典を必要とした。これはある種の禅問答です。忘れるために読むのだという。

 

ART iT では、あなたを問い続けさせるものは何なのでしょうか。

SS 私たちの無知というものの無限性でしょうか。そして、それは喜ばしいものですね。

 

シュッタブラタ・セングプタ インタビュー(エピローグ)

 


 

シュッタブラタ・セングプタ|Shuddhabrata Sengupta

1968年ニューデリー生まれ。92年にジャミア・ミリア・イスラミア大学マスコミュニケーション研究所を卒業。同年、モニカ・ナルーラ、ジベーシュ・バグチとともにRaqs Media Collective(ラックス・メディア・コレクティブ)を結成し、作品制作のみならず、書籍の編集や展覧会企画など、さまざまな活動を展開している。また、2001年には、理論家、研究者、アーティストなどとともに、南アジアの同時代の都市空間や文化を考察するためのプラットフォーム「Sarai」をデリーに共同設立した。Raqs Media Collectiveとして、マニフェスタ7(2008)や上海ビエンナーレ2016などのキュレーションを手がけ、ドクメンタ11(2002)をはじめ、3度のヴェネツィア・ビエンナーレ(2003、2005、2015)、マニフェスタ9(2012)、台北、リバプール、シドニー、イスタンブール、上海、サンパウロ、ベルリン、ミラノ、シンガポール、コチ・ムジリスなどの都市の国際展に参加。2014年にはデリーの国立近代美術ギャラリーで大規模個展『Untimely Calendar』を開催した。日本国内では、岐阜おおがきビエンナーレ2006や『チャロー!インディア:インド美術の新時代』に出品。2017年には、奥能登国際芸術祭に参加したほか、セングプタは東京藝術大学大学院 美術研究科グローバルアートプラクティス専攻の招聘で、公開講義「三角法:Raqs Media Collectiveの活動と思想」を行なった。
http://www.raqsmediacollective.net/

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