椹木野衣 美術と時評 74:再説・「爆心地」の芸術(37)帰還困難区域の変容と「Don’t Follow the Wind」

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2016年に完成した、廃炉作業に従事する社員のための東京電力単身寮
(福島県 居住制限区域、2018年2月)
撮影:筆者(以降、特に記載がないものはすべて)

東日本大震災からちょうど4年の2015年3月15日に福島県の帰還困難区域内でスタートした(けれどもオープンはしていない)「見に行くことのできない展覧会」=Don’t Follow the Wind展も、「あの日」から7年にあたる今年の3月11日で丸3年を迎えることになった。たしかにオープンはしていないけれども、展覧会は昼夜を問わずたった今、この時も開催中である。また、展覧会実行委員会は公式ウェブサイトの開設や公式カタログの発行、さらには2015年秋の東京、ワタリウム美術館を皮切りに、「シドニー・ビエンナーレ2016」や、記憶に新しいところでは昨年の「ヨコハマトリエンナーレ2017」など、世界各地で現地を訪ねることができない鑑賞者のための「ノン・ビジター・センター」を開設してきた。間接的にこのプロジェクトについて触れる機会を持った人も少なくはないのではと思う。

もっとも、言うまでもなくノン・ビジター・センターはビジター・センターではない。したがって、そこで触れることができる展示や映像は、「見に行くことができない展覧会」を知るための懇切丁寧なガイドではない。Don’t Follow the Wind 展で立ち入りが制限され、国土における被ばく放射線量や居住の自由をはじめ、法が法として機能していない帰還困難区域の中に設置された作品の場所は、今なお非公開である。だから、ノン・ビジター・センターで公開されている展示や映像は、出品作から展示位置がわかる情報を省いた、いわば名無しの幻影のようなものになっている。そこでは、放射線防護服を着用した実行委員や参加作家たちが、マスクやゴーグルで顔を隠し、まったく無言のまま、あの3月11日から時間が止まったような「どこか」で、作品とともに呆然と立ち尽くしている。その様子を360度の視界を見渡すことができるヘッドセット映像で疑似体験するというのが、現時点でのノン・ビジター・センターの基本仕様となっている。


Don’t Follw the Wind《ウォーク・イン・フクシマ》2016-2017
ヨコハマトリエンナーレ2017展示風景 撮影:ERIC 写真提供:横浜トリエンナーレ組織委員会

だが一方、帰還困難区域をめぐる状況は急速に変化しつつある。したがってDon’t Follow the Wind展をめぐる喫緊の課題も、そうした帰還困難区域をめぐる大規模な変容を、具体的にはどのように受け止めていくかにある。見に行くことができない場所が、見に行くことができないまま変わりつつあるのであれば、それを間接的に届けるノン・ビジター・センターも現状を反映して変化しなければならない。この展覧会は、当初から一部で指摘されたような、高い放射能汚染で「死の街」と化した一帯を、経年に耐えるためタイム・カプセルのように地中深く封印するものではない。帰還困難区域の中にいったん作品を設置しさえすれば、あとはその封印が解かれるまで、どんなに長い時の経過を必要としても、ただ待てばよいというものでもない。それどころか、帰還困難区域が刻々と変化するのであれば、プロジェクトもそれに反応して有効な方法を模索し、次の一手を続けなければならない。そういうわけで、やらなければならないことは、展覧会のスタート当初と比べても、むしろ増えているのである。

去る2月20日、私は今年になって初めての帰還困難区域入りをした。今回は私自身もメンバーの一人であるグランギニョル未来による作品「デミオ福島501」への作品追加とメンテナンス、そして記録のためである。ご存知の方もおられるかと思うが、これは一時廃車措置をとった自家用車を活用した作品で、その車内に4人のメンバーが様々なものを持ち寄り搭載し、いずれ公開されるであろう時のために備え続けている。ちなみに、この車はかつて軽微ではあったが人身事故を起こしており、その事故をきっかけに手放されることになったものが作品として再利用された。その同じ車体で帰還困難区域まで乗り付け、しかるべき停車位置でナンバープレートを外し、ガソリンとオイルを抜き、そのあと行政上の一時廃車手続きをとった。一時廃車なので、放射能スクリーニングをし、必要なら除染を施し、車両整備をし、車検などを通して廃車措置を解くことができれば、ふたたび公道を走れる余地を残している。

むろん、程度の差は比較にならないものの、起こされた車両事故の履歴は東京電力による福島第一原子力発電所事故に、一時廃車措置はいつか放射線量が低減し、バリケードによる封鎖が解け、この一帯にもう一度人が帰れるようになるまでの凍結された時間に対応している。それまでの間、この作品は通常の乗員の代わりに、その内部にいつか公開されるための様々な物品を座席やトランクに積み、一箇所で静止し続けている。その中には、故・三上晴子がかつてみずからの意思で作品であることを放棄した廃棄物や、映画作家の大林宣彦による『いつか見た映画館』に書きつけられた「時をかけるメッセージ」も含まれている (*1)

今回、私はこの車内に昨年、仙台の自宅に糸井貫二(ダダカン)を訪ねた際、次の入域のためにその場で作ってもらったハサミによる切り紙=ペーパーペニスと直筆の書を収めた。関東大震災、第二次世界大戦、東京オリンピック、大阪万博と、20世紀をめぐる破壊と復興のサイクルをそれこそ身をもって目の当たりにしてきたダダカンが、いま21世紀となり、もう一度、東日本大震災、東京オリンピック(ダダカンは2020年に100歳を迎える)、そしてもしかしたら新たな大阪万博や戦争をも「追体験」しようとしている。そうした一連の時の奇妙な反復と循環が、東京オリンピックを2年後に控え、震災から7年となり「風化」(思えばこの語はもともと地学の用語ではなかったか)や忘却が進む今年初めの入域にとって、大きな意味を持つように思えたからだ。

予想通りと言うべきか、かの地へと向かう途中、私たちは帰還困難区域をめぐる大きな変貌を目の当たりにした。今回は公益事業としての認可のもとでの入域であったが、毎回待ち合わせに使っていた居住制限区域の集合場所が、まったく見違えるほどの更地になっている。それどころか、そのごく近くには東京電力の廃炉作業に従事する人たちのための社員寮が建ち、カフェ風の食堂までオープンしていた。食堂は昼、一般に公開されているので、私たちはまるで学生食堂かなにかのように本日のメニューを物色し、券売機で食券を購入してランチを食したが、私はいま自分がカレーうどんを食べている場所が、高い放射線量で避難指示が出ている居住制限区域であることがにわかには信じられず、時と場所をめぐる座標軸を完全に見失ってしまいそうな不安に駆られた。


避難区域で急速に進む土地の利用(居住制限区域)


新たに開設された食堂(居住制限区域)

こうした変容は、帰還困難区域を含む避難区域をめぐる政策が、当初の第一次復興計画から、すでに第二次復興計画にシフトしていることを如実に反映している。メディアを通じて私たちに伝えられる帰還困難区域をめぐる一般的なイメージは、いまなお「死の街」や「時が止まった街」という言葉に象徴される、第一次復興計画時に典型な紋切り型が目につく。だが、それらが広大な帰還困難区域のすべてにわたっているわけではない。ひところはいたるところに山積みになっていた汚染土を収めるフレコンバックでできた古墳やピラミッドを思わせる塚は、すでに別の場所に移されて飛躍的に減っている。かつては田畑だった耕作放棄地に伸び放題であったセイタカアワダチソウをはじめとする雑草も広範囲にわたって伐採され、一見してはのどかな田舎の風景とさして変わりがない。


JR富岡駅


JR富岡駅の歩道橋より海を望む

もちろん、中間貯蔵施設の建造はまだ始まったばかりだし、封鎖中の常磐線の主要駅のまわりに広がる住宅や商店が依然、あの日のまま放置され続けていることに変わりはない。実際、Don’t Follow the Wind 展がノン・ビジター・センターで見せているのも、現時点ではそうした風景であり続けている。だが、もはやそれだけではないのだ。私たちは、いまいっそう急激に推進される第二次復興計画の性質を早急に見定め、それに対応してプロジェクトの方向性そのものを練り直していく必要がある。2020年に東京がオリンピックを迎える前後には、封印されたはずの帰還困難区域にさらなる変化の波が寄せてくるのは、もはや避けられそうにない。


「第二回 尾道映画祭2018」 車座シンポジウム「映画を使って 僕たちには何ができるのか」
左から、安藤紘平(早稲田大学名誉教授・映像作家)、筆者、大林宣彦監督 写真提供:尾道映画祭実行委員会

帰還困難区域から戻った同じ2月25日、私は先に触れた大林宣彦監督のお誘いを受け、大林映画を三日間にわたって特集上映した「第二回 尾道映画祭2018」の幕引きにあたるシンポジウム「映画を使って 僕たちには何ができるのか」に登壇した。大林監督がステージ4の末期ガンで闘病中であることについてはこの連載でも触れたし、その後、大林監督自身の口で公表されたから、いまでは広く知られたことである。だが連日、上映後に壇上で多彩なゲストたちと精力的にトークショーに臨む監督の姿は、驚くべき体力、というよりも意思の力のなせるわざと受け取るほかない。

シンポジウムの直前に上映された大林監督による幻のヒロシマ作品「恋人よわれに帰れ」(1983年)を受け、話はおのずと次回作でヒロシマを真正面から扱うという大林監督にとっての東日本大震災以後の映画や、グランギニョル未来のために寄せてくれた「いつか見に行くことができるメッセージ」の話になっていった。会場である尾道の古きよき時代の香りを残した尾道商業会議所記念館に集まった観客たちは、映画を超えてそのはるか先まで、時をかけて声を届けようとする大林監督の姿に、果たしてなにを感じただろうか。いや、私にとってはそれこそが、大林監督が仕掛けた「映画を使って 僕たちには何ができるのか」という問いへの現時点での応答であった(*2)


1. 本連載第64-66回「終わらない国際展 − Don’t Follow the Wind近況」参照。
2. 映画祭を幕引くこの車座シンポジウムに飛び入りで参加してくれたのが、大林監督の最新作、映画『花筐』で鵜飼役を務めた男優、満島真之介であった。驚いたことに満島は、やはり映画監督で大林宣彦の熱烈な支持者である、園子温の助監督をかつてしていたのだという。園はDon’t Follow the Windそのものの発案者であるChim↑Pomとひときわ交流が深く、ワタリウム美術館でのノン・ビジター・センター展にも出品してくれた人である(参考:本連載第56回「園子温と『ひそひそ星』」

筆者近況:平成29年度(第68回)芸術選奨にて、文部科学大臣賞(評論等)を受賞。授賞対象は著書『震美術論』の成果。

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