48:日本の肖像 Japanese Portraits — 石川竜一、内倉真一郎、原田要介

かつてのコンポラ写真 — ストレートなスナップショットであると同時に、それが写真である事をさらけ出している写真 — の隔世遺伝的な発現として、安村崇(1972-)から前回の武田陽介(1982-)あたりまでの世代の作家たちの傾向をネオコンポラと呼んだことがある。ネオコンポラの一つの共通点は、人物をほとんど撮らないことである。ネオコンポラに限らず、現在の日本には、殊更にポートレートを撮る作家が少ない。いや、いるにはいるのだが、コマーシャルな計算ずくのもの(キモ可愛い子供のポートレート=実写の奈良美智!など)か、ジャンルもののポートレート(親しい友人・恋人・有名人・身障者・ホームレスなど)ばかりで、最初から型にはまっていて面白くない。凡百の作家にとってポートレートとはアイデンティティの露出(Aさんのその人らしさが良く出ている)であり、発見であり(Aさんにこんな側面もあった)、あるいは人間性そのものの同定(Aさんを通じて人間の尊厳を知る)に他ならない。型にはまるとはそういうことである。被写体のアイデンティティ(その人らしさ/意外な側面/人間の尊厳)が最初から定まっており、写真はそれをアイデンティファイするだけなので、結局、そのアイデンティフィケーションがいかに遂行されるか、という技法だけが写真の中味となる。どのみち使い古された技法の順列組み合わせに終始するこのようなポートレートが、面白いはずもなかろう。

対照的に、数少ない優れたポートレート作家は、同一性(identity)ではなく同等性(sameness)によって写真を撮る。同一性(アイデンティティ)の「同じ」が主語に関わる(「私」は「私」であって「あなた」ではない!)とすれば、同等性(セイムネス)の「同じ」は、述語に関わっている。裸になれば「同じ」、病気になれば「同じ」、死ぬときには「同じ」、欲情する、排便する、男である、女である……点で、あなたは私と「同じ」だ、と。同等性(セイムネス)は、個体のアイデンティティの輪郭を崩して連続させる事であり、暴力的で越境的でスキャンダラスである。

同一性の写真=ID写真は、個人のアイデンティティを確定し、尊重し、学び知らせる。それは友情とオネスティの写真であり、輪郭=全体像を保全する写真である。同等性の写真は、相手のアイデンティティにお構いなく、述語や動詞が「同じ」である事を通じて、相手を自分と同等の存在として見つめる。それは愛とユーモアの写真であり、表層の細部に反応する写真である。当然、アイデンティティに囚われた意識にとっては、不快で(おまえと一緒にするな!)、タブー侵犯的(娘を女として見る、天皇を一人の男として見る)でもあるわけだが、ポートレートの魅力はまさにそこにあるのだ。それは、愛とユーモアによって感知した任意の他者を、別の他者へと差し出す行為である。

さて、「日本人である」「日本で暮らしている」という述語によっても、我々は「同じ」だと言われるだろう。しかし311以降、この「同じ」であることに対して、我々は意識的になり、ときに不快感を覚え、シビアにその条件を問うようになっている。顕著に反動化した目下の日本社会において、「日本人である」「日本で暮らしている」ことの同等性が、「日本人」「日本」というアイデンティティ・ポリティクスに飲み込まれつつあるからだ。「日本人」のアイデンティティではなく、いまの時代に「日本人である」「日本に暮らしている」ことの同等性を写し出すポートレートとはどのようなものか。

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私が企画した、来る6月の写真展では、以上のような問題意識から、石川竜一、内倉真一郎、原田要介という3人の写真作家を選び、「日本の肖像」というテーマで展示をしてもらう。

石川竜一(1984-)は2012年度キヤノン写真新世紀佳作(清水穣選)。「海の邦」として多重的な歴史をはらんだ場所、沖縄に生きる人々を真正面から見据えた『Okinawan Portraits』で注目された。暴力、グロテスク、貧しさ、愚かさ、自堕落、ヤクザ、生真面目、絶望的、楽観的……矛盾しあう様々な特性が、それぞれの肖像のなかでぶつかりあっている。構図も被写体も選び抜かれていて、一人一人どの人物も、沖縄の光と空気のなかで、愛すべき滑稽さを漲らせ、宝石のように輝いてセクシーである。


石川竜一「Okinawan Portraits」より

内倉真一郎(1981-)は2010年度(清水穣選)、11年度(大森克己選)、13年度(椹木野衣選)キヤノン写真新世紀佳作。選び抜いた被写体のアイデンティティの上に、徹底的に自分の美意識(妄想と言っても良い)を上書きして演出した大判の肖像写真群は、逆説的に途方もなくストレートである。完璧な演出写真は、どこかB級の、ちょっとヤクザな典型たちを作り出している(内倉組若頭、誕生日に仮装したお嬢、組長、内倉金融外回り営業、お嬢の入学式;元過激派の高校美術教師、中国人成金の子供、演歌歌手、私これで会社辞めました、ママに女装させられた小学一年のボク……等々)。セクシーでもあり滑稽でもある典型の毒によって、アイデンティティという毒を制するのだ。毒が毒を解毒することで、逆説的にも、ただの素人たちが残る。どこにでもいる他者たちが、アイデンティティをきれいに取り除かれて、裸の同等性において立ち現れるのである。


内倉真一郎「肖像」全5点(2010)

原田要介(1982-)は2012年度キヤノン写真新世紀グランプリ。作風的にはネオコンポラに列なる作家ながら、例外的に優れたポートレートを持続的に撮っている。それは、沖縄のような多重的な歴史もなく、内倉の肖像シリーズのような強烈な演出もない、凡庸な日常生活の中で出会う人々を淡々と見つめたポートレートである。特別親しくもないが他人でもないような距離感の他者、むしろその不在(死、病気、転居、別離……)によって気がつかれるような他者の、存在感なき存在の密度を、触れそうで触れない(触れたい!)独特の間合いと余白で定着する。


原田要介の写真作品より

清水穣企画展「showcase #3 日本の肖像 石川竜一+内倉真一郎+原田要介」
2014年6月6日〜29日 *金土日開廊
eN arts(京都円山公園内)
http://www.en-arts.com/


石川竜一「Okinawan Portraits」より

筆者関連情報

写真分離派展「日本」
2014年5月23日〜6月13日
京都造形大学ギャルリ・オーブ
鈴木理策、鷹野隆大、松江泰治、春日昌昭(特別出品)
倉石信乃(企画)、清水穣
*初日18時から倉石、松江、清水による鼎談あり
http://aube.kyoto-art.ac.jp/archives/1344

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