45:騙し絵の彼方 — 加納俊輔の温故知新

東京都写真美術館「日本写真の1968」展に触発されて、去年の後半は1970年代写真と牛腸茂雄にやや回数を使いすぎたようである。日本の1970年代美術および写真は、目下、海外からの熱い注目を集めており、それに促されるかのように、当時の作家たちの再評価・再検討が、遅ればせながら各地の美術館企画に上がってきているのは周知であろう。日本の作家はとにかく長生きすべきだということですね。私は、「昔の巨匠」の再評価や日本現代美術史の充実に異を唱える者ではないが、あえて言えば、そうした企画は基本的にアカデミックな補充作業に過ぎないのであり、作家もキュレーターも観客もとりあえず満足、どこからも文句が出ない予定調和は土曜日の学校のように退屈で、とりわけ高度経済成長期への漠たるノスタルジーの、現在の日本にひたと寄り添うさまが反動的でもある。「こういう作家がいたんです」「当時としては新しいですね」「いま見ても新鮮でしょう」「欧米でも評価が高まっています」……こんなスモールトークの影で、新人グループ展や中堅作家の個展の機会が減っていることの方が問題なのだ。

「日本現代美術観測」と題した本コラムは、これまで国吉康雄(絵画)、東松照明(写真)、牛腸茂雄(写真、以上故人)、中平卓馬(写真;1938-)、森山大道(写真;1938-)、杉本博司(写真;1948−)、中村康平(陶芸;1948-)、古屋誠一(写真;1950-)、青木淳(建築;1956-)、松江泰治(写真;1963-)、大島成己(美術;1963-)、法貴信也(絵画;1966-)、木村友紀(美術;1971-)、城戸保(写真;1974-)、金氏徹平(美術;1978-)、半田真規(美術;1979-)、志賀理江子(演出;1980-)、松村有輝(彫刻;1981-)、関口正浩(絵画;1984-)、白子勝之(漆芸;1984-)、松田啓佑(絵画;1984-)、宮永亮(映像;1985-)を取り上げてきた。これら作家たちに対する読者諸賢の変わらぬ注視をお願いするとともに、去年の反省から、本年は新人〜中堅に重点を置きたい。

加納俊輔(1983-)は、ポスト00年代世代の作家のなかから頭角を現し、2011年に「写真新世紀」の佳作受賞、同世代の作家たちと活発にコラボレートしながら京都(eN arts、Social Kitchen, Gallery PARC)と東京(island MEDIUM、NADiff window gallery、JIKKA)で作品発表を続け、去年(2013年)1月にMaki Fine Artsで個展を開く一方、「shiseido art egg」に選抜され、本年1月から資生堂ギャラリーで個展「ジェンガと噴水」を開催している。その作品の魅力は、飛躍(断絶、不連続)と連結(類似、コラージュ)を同時に遂行する点にあるだろう。イメージを見ること、物を認識することへのユーモラスで批評的なアプローチと、身近なイメージ群のなかに思いもよらない近接性(affinity)を見つけるセンスが持ち味である。2次元・3次元にとらわれず、ピクセルデータからオブジェまでカバーするその作品は、我々の認識を躓かせる、多彩な騙し絵・騙しオブジェになっており、しかも騙しのネタが分かったあとでもその魅力を失わない。

現在の作風に到る数年前の加納作品を見てみよう。まず日常スナップ写真に擬態した一群のシリーズがある。ごく普通の風景、見るともなく目に映っている、無意識的な背景のなかに、自然にはありえない人工的なモチーフが紛れ込んでいる。それに気がつくやいなや、「自然」なスナップは、あからさまに作り込まれたフィクションへと転じる。以下、タイトルを読む前に、無心に画像を眺めて頂きたい。








上から順に、加納俊輔「Snoopy」 (2007)、「P.C.books」 (2008)(浮かびあがる真円)、「A.C.mansion」 (2008)(BSアンテナの配置に注目)、「Three Flags」 (2009) (全く同型になびく3枚の旗)

これは例えばミシェル・ゴンドリーによるChemical Brothers「Star Guitar」(2002)のPVと同じ文法である。車窓を流れていく風景、乗客にとって見るともなく眺めているだけの背景は、実はビートや音色と完全に同期したフィクションである。同様に加納は、スナップ写真という、日常生活の背景となっている無意識的なリアリティを記録するための形式のなかに、その背景自体が徹底的に操作されたフィクションであるというネタを仕込んでおくのである。

次に、かけ離れたもののあいだにアフィニティを発見するシリーズがある。漫画の集中線や効果線が日常のオブジェと連結される。このシリーズの可笑しさは、AとBのあいだに発生する類似は外からハプニング的にもたらされるもので、もともとのAにもBにも内在しない点である。




上から順に「B&B02 」(2008) 、「B&B03」 (2008)

2007年の「kasabuta」シリーズはまた加納の別の側面を見せてくれる。



標的は石内都の「scars」、あるいは一時写真界で流行した私小説的写真(リストカット等)であろうか。痛々しい「かさぶた」のある身体の一部が、黒い背景から浮かびあがる写真が続いていく。しかしある時点で、かさぶたの形が「北海道」に似ていると気がついたとたん、それまでのかさぶたもすべて都道府県の形をなぞっていたことに思い当たり、つまりはすべて嘘だったと知って、観客は憮然とするわけである。


上左:「kasabuta#07(Fukushima)」、上右:「kasabuta#26(Kyoto)」
中左:「kasabuta#13(Tokyo)」、中右「kasabuta#47(Okinawa)」
下「kasabuta#01(Hokkaido)」

アフィニティを見つけてくる加納のセンスは鋭いものであり、また無意識や傷痕といった、写真というメディアの泣きどころを正確に衝いて笑い飛ばすユーモアも優れている。しかしこれらのシリーズには、飛躍と連結のダイナミズム=「ネタ」が、優れていればいるほど、作品が一発芸で終わってしまうという弱点があった。ネタが割れてもなお、観客が繰りかえし作品の前へ立ち帰るようにするにはどうすればよいか。レイヤーのコラージュはそのために導入された。

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「レイヤー」すなわち、画像が不可視で非物質的な基底面の上に載っているという感覚は、古くは17世紀の騙し絵(ヘイスブレヒツのカンヴァスの裏)にまで遡れようし、モネの水面〜カラーフィールド・ペインティング〜ゲルハルト・リヒターにまでいたる現代絵画の基礎概念とも見なせようし、デジタル画像加工ソフトの基礎となる概念として相変わらず我々の視覚を支配している制度でもある。不可視のレイヤーを「見せる」には、画像がフラットな面上にある事を意識させれば良い。そのための加納の方法は、落書き、シール、拭き消し、ブレ、暈け、テープ、光沢、ピント合わせ、パースのずらし、アングルの選定・・等々、実に変化に富んでいる。それに応じてレイヤーが1枚浮かびあがると、当然、我々は基底となったレイヤー(A)とその上の像(B)を区別する。しかし「コラージュ」とはこの新秩序(下から順にA、B)を転覆することである。我々はCを追加することによって(AB)を1枚のレイヤーに圧縮し、Dを追加する時にABCの階層を無視し、最終的にはABCD・・の順序のみならず、各層のアイデンティティをも曖昧にするからである。コラージュとは、レイヤーを出現させると同時に、出現したレイヤーの階層性を次々に壊し、更新するプロセスなのだ。コラージュを見る面白さとは、曖昧に浮遊するレイヤーの重なり合いに溺れながら、そのプロセスを何度も繰りかえしてみることである。だが優れたレイヤー・コラージュにおいて、最初の階層性が再現され謎が完全に解ける(文字通りの透明性の復元)ことはない。むしろ、矛盾し合うレイヤーの相互陥入こそが、謎であるとともに作品の魅力となって、観客は何度でも加納作品の前に帰ってくるのである。

……しかしすでに見てきたような加納俊輔の出発点を知れば、この知的な作家がこうしたレイヤー・コラージュの温故知新に留まりはしないこともまた、明らかである。


「Untitled layer 01」 (2013);眼に見えるレイヤーと実際の板のレイヤーの食い違い。

「temporary repair 01」(2013):画面中央に最後の断片。セザンヌのリンゴ。

Paul Cézanne「Pommes et oranges」(1899)

「specious notion 09 」(2013):ガラスはどの位置にあり、何がどう映り込んで、それをどう写真に撮るとこうなるのか。

Pablo Picasso「Open Window」(1919):透明面の重なり合い。窓ガラスはどこにあるのか、画家は室内から窓外のバルコニーの柵とビルを見ているのか、室外のバルコニーに立ってガラス越しに室内を見ており、ガラスに背後のビルやバルコニーの柵が映り込んでいるのか。

第8回shiseido art egg 加納俊輔展「ジェンガと噴水」は、資生堂ギャラリーにて2014年1月10日(金)~2月2日(日)開催。

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