54:「沖縄」と「肖像」 — 石川竜一の『Okinawan Portraits 2010-2012』


石川竜一『Okinawan Portraits 2010-2012』より

石川竜一(1984-)のポートレートについては、すでにこのコラムでも言及したことがある(第48回「日本の肖像」)。肖像作家の才能とは、同一性(identity)ではなく同等性(sameness)によって写真を撮ることである。同一性(アイデンティティ)の「同じ」が主語に関わる(「私」は「私」であって「あなた」ではない!)とすれば、同等性(セイムネス)の「同じ」は、述語に関わる。裸になれば「同じ」、病気になれば「同じ」、死ぬときには「同じ」、あなたは私と「同じ」だ、と。同一性の写真は、個人のアイデンティティを確定し、尊重する友情とオネスティの写真であり、輪郭=全体像を保全する写真である。同等性の写真は、アイデンティティにお構いなく述語や動詞が「同じ」である事を通じて、相手を自分と「同じ」存在として見つめる。それは正体ではなく、正面に反応する、愛とユーモアの写真である。当然、アイデンティティに囚われた意識にとっては、不快で、タブー侵犯的でもあるが、「肖像」の魅力はそこに由来する。

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さて、日本の戦後写真史のなかで、とりわけ60年代後半から70年代にかけて、「沖縄」は特権的な被写体であった(*1)。東松照明、中平卓馬といった有名な写真家たちが次々と沖縄を訪れ、そこに集中的に露顕している(と彼らが見なした)「リアルなもの」—純粋な自然、手つかずの伝統、あるいはまた、苛烈な戦争の傷跡と米軍基地の現実— を追いかけてシャッターを切ったからである。その同じ時期は、「リアルなもの」の曝露を目指し、それを倫理的アイデンティティと見なしてきた写真というものが、社会全体の情報メディア化、すなわち「リアルなもの」それ自体が最も売れ筋の商品である社会の到来とともに、失効していく時期でもある。そのとき、写真のアイデンティティをあくまでも「リアルなもの」の曝露に求める思考を捨てきれなかった写真家たちは、それを情報メディア社会=都市圏の外部に求めた。それが、沖縄写真のブームに他ならない。生の本来的な輝きを求めて、日本社会の矛盾が剥き出しになっている場所を求めて、一言で言えば、失われたリアルを求めて沖縄を目指す。それは本人たちの意識がどうであろうと、沖縄に対する植民地主義の審美的バージョンであった。

良かれ悪しかれこのブームによって注目されるようになった沖縄の写真家たち(*2)は、「本土」の写真家が沖縄を特権的な被写体とし、一方的に沖縄を表象することに対して、つねに抵抗してきた。それは正当であり当然である。本土の写真家は「失われたリアル」という自分の夢を、「外部」たる「沖縄」に投影していたに過ぎない。そんな勝手な夢を現実の沖縄に重ねられてはたまらない、と。

だが他方で沖縄の写真家たちもまた、このとき「リアルな沖縄」に囚われたと言えるだろう。そして、本土の写真家が「外部」への希求を沖縄に投影したように、沖縄の写真家は、自分たちにしか撮れないリアルな沖縄、沖縄という土地を生きる者にしかわからない沖縄の本質 —アイデンティティ— を夢見てしまったのではないか。しかし彼らの夢を担う被写体もまた、本土から見た「外部」が投影された被写体と重ならざるをえなかったし、とうに琉球でもなく、アメリカでも日本でもない現在の沖縄に対して、本質主義的なアイデンティティを探しても強弁にしかならない。彼らの苛立ちは、そこに由来したのではないだろうか。

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アイデンティティ・ポリティクスの宿業を背負った「沖縄」と、同等性によって撮られた「肖像」。石川竜一の『Okinawan Portraits 2010-2012』は、言わば、相容れないものを接合している。それは、おそらく彼の世代にしてようやく、ポートレートの同等性の力によって、アイデンティティ・ポリティクスの磁場から、等身大の、すなわちアイデンティティ・フリーの、沖縄を解放しようとする試みである。「海の邦」として多重的な歴史をはらんだ沖縄の様々な特性が、それぞれの肖像のなかで重なり合い、沖縄の光と空気の中でどの人物も宝石のように輝いている。読者の目をまず引くのは、同等性に反応する石川の「肖像」写真家としての才能であろう。「被写体の正体ではなく、正面に反応する」とは、被写体をなんらかの(沖縄的、南島的、原アジア的……等々)本質のうちに片付ける(=アイデンティファイする)代わりに、被写体と正面から向き合い、その人がそこに自分と等しく存在し、生きているという事実の強烈な輝きを正面から浴びることである。アイデンティティは人を画定し、分離し、閉ざす。同等性は混同し、連続させ、開くのだ。これは沖縄人の「アイデンティティ」を写し出す写真集ではない。むしろその主題は、沖縄という土地の、ハイブリッドという言葉すら偽善的に響くほどの、アイデンティティ・フリーの状態そのものだと言うべきである。その自由を呼吸して生きる人々を生きた典型として収集し、選び抜いて構成した写真集なのである。

事実、この本の被写体も撮影スタイルも、何ら独自の「アイデンティティ」に向けられてはいない。ヤンキー、ヤクザはどこにでもおり、どこのヤンキーもヤクザも滑稽なほど同じである。基地や歓楽街周辺のフリーク的人物の、そのフリーク的特徴も写真史のなかではむしろ定型に属するだろう。フリーク的被写体+正方形構図+フラッシュ使用といえばダイアン・アーバス以来、数多の写真家が反復してきたスタイルではないか。また、作者は構図をかなり作り込んでいる。石川は被写体に対して、正方形というフレーム(収集箱!)をあてがったうえ、さらに箱詰めにしたり、補助線や分割線を引いたり、対を添えてバランスを取ったり、水平線を食い違いにしたり(逆ティルト)している。つまりこの写真集はあからさまに形式的な作りになっているのである。


箱・フレーム詰め


補助線、分割線


逆ティルト(カメラではなく被写体の方が傾いている)


対によるバランス

同等性は、AとBのアイデンティティの輪郭を崩し、両者を連続的な状態、多重的状態におく。それは例えば被写体と観客が、同病相憐れむように、一夜限りの恋人のように、入り交じる状態である。対して形式性は、被写体を一定の形式の中へはめる、すなわち作者の形式的意図を挿入して被写体を観客から分け隔てる効果をもつ。『Okinawan Portraits 2010-2012』では同等性と形式性が拮抗しているのだ。この矛盾は、「肖像」と「沖縄」のあいだの歴史的な相容れなさに由来する。

同等性は、刹那的なハプニングのように発生する、いかなる本質にも拠ることのできないフラジャイルな質である。それは容易く、「にんげんだもの」「沖縄人も本土人も、どうしようもない愛すべきダメ人間として同じだ」というようなヒューマニズムに吸収されてしまう。同時にまた、沖縄写真はつねに強力なアイデンティティ・ポリティクスの磁場におかれてきたために、これらの肖像から沖縄人のアイデンティティを抽出しようとする志向が、ほとんど自動的に生じるだろう。だから、収集箱はあえてわざとらしく作っておくのだ。同等性をヒューマンな共感や友愛から切り離し、そして被写体を沖縄の本質主義から護るために、明確な形式性が必要であった。アイデンティティ・フリーな沖縄が、そのフラジャイルな同等性のままに表現されている。


1. この南方指向に加えて北方指向があり、「北海道」「東北」が特権的な被写体として浮上した(中平卓馬、森山大道)。さらに時代が下ると「インド」が加わるが、その頃にはすでに「外部」探求はアナクロニズム、あるいは完全に広告産業の一部となった。

2. 例えば未來社『沖縄写真家シリーズ 琉球烈像』(全9巻)に収められた写真家たち。本質主義と植民地主義の外で、沖縄写真を見つめ直す試み。これらの写真家の沖縄写真と、『Okinawan Portraits 2010-2012』を比較すれば、後者はいかにも軽く見えるはずである。アイデンティティに冒された眼差しにとって、同等性の写真はたいてい物足りなく見える。

石川竜一 写真集『okinawan portraits 2010-2012』『絶景のポリフォニー』
赤々舎から11月中旬に2冊同時発売予定。

石川竜一 写真展「zkop」
会場:アツコバルー(渋谷)
会期:11月7日(金)〜11月24日(月)
詳細:http://l-amusee.com/atsukobarouh/

石川竜一「okinawan portraits 2010-2012」展
会場:Place M(新宿)
会期:11月17日(月)〜11月23日(日)
詳細:http://www.placem.com/

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