49:唐津から、唐津へ — 梶原靖元の冒険(前編)

日本の現代陶芸は、1920年代から30年代にかけて展開した二つの運動、すなわち柳宗悦らの民藝運動(柳宗悦『陶磁器の美』1922年、『工藝の道』1928年)と、荒川豊蔵、加藤唐九郎による桃山陶復興(荒川豊蔵による筍絵陶片の発見1930年、加藤唐九郎『黄瀬戸』1933年)に発している。前者は朝鮮(李朝)陶磁を愛でる美学を普及させ、後者は桃山陶に日本陶磁の理想を見た。両者ともに、現在に到るまで多くの陶芸家や陶磁器愛好家の価値観に影響していると言って良い。

周知のように古唐津は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に「招聘」(拉致とも言う)されて来日した李朝の陶工達によって開始された陶芸であり(*1)、その登り窯の技術を取り入れて桃山陶は大きく発展していった。つまり李朝と桃山陶が交わるところに古唐津が存在している。

16世紀末から17世紀にかけてたった40年ほどの間活動した桃山陶は、続く時代には忘れられた。つまり荒川と加藤は、長く定着してきた江戸時代の和様陶芸を斥け、あえて桃山陶にその伝統を求めたのである。唐九郎の『黄瀬戸』によれば、12世紀に越州窯を手本として焼かれはじめた和製青磁が、数百年のうちに酸化焼成法を採るようになって黄色に変化したのが最初期の黄瀬戸であるという。薄く軽く硬い焼成、金属器を思わせる端正で力強くシンメトリカルな造形、シンプルな劃花、指先ミリ単位以下まで神経の行き届いた轆轤、1つ1つサヤに入れて焼く細心さは、まさしく宋磁に通じる中国的美学、つまり当時の陶芸最先進国の支配的美意識に他なるまい。それに匹敵する美を、未だ磁器の技すら知らぬ後進国日本でも実現できた点に、黄瀬戸の格調は由来している。日本の職人が、地元の独自素材と独自技術で、グローバルスタンダードを実現した、と。

だが、まさに16世紀後半は茶人の美意識が唐物中心から和物へとシフトする時期である。それはグローバルスタンダードの中国的美学に対抗し、不完全で歪んだものにこそ「美」を見出すという眼の革命であった。黄瀬戸に代わって、瀬戸黒や志野そして織部は、もはや国際標準の美に従うのではなく、それに対抗する「日本独自」の美を求めて作られたと言ってよいだろう。桃山の日本は、外国に伍して新しく生み出された日本であった。同じ窯で焼かれながら、黄瀬戸から、瀬戸黒・志野・織部にかけては、美意識の転換が存在する。その「日本独自」の美は、開かれた戦国時代の産物であり、オルターナティヴな美であった。それが鎖国後の日本で廃れたのも、古田織部のタブー化を度外視しても、理の当然だったのかも知れない。

しかし、外国(この場合は中国陶磁)に抗して生み出された「日本独自」の桃山陶は、登り窯にせよ自由奔放な絵付けにせよ、唐津を通じて、李朝の技術や意匠に多くを負っている。「日本独自」が李朝からの借り物であってはならぬ!というわけで、穿った見方をすれば、日本の現代陶芸のルーツには、対中国美学としての桃山陶を理想となす一方、その本質的な動因であった李朝陶磁の美を日本人の眼が「発見」したことにするという、歴史の曲解があった。それが一種の植民地主義であることは言うまでもないが、桃山と李朝の交点、古唐津は、このような政治的な背景をもつわけである。

さらに、時代を下れば古唐津は、伝説の李参平による有田泉山の陶石発見、日本初の磁器焼成=初期伊万里へと移行していく。古唐津は日本における磁器の源流とも見なせるのだ。また、古唐津を問う人が、直近の李朝白磁(井戸、鶏龍山、刷毛目、粉引)を問い、時代を遡って高麗青磁を、汝窯を、定窯を問い、さらに遡って、朝鮮からの技術伝播という点で須恵器と古備前(寒風古窯群)を再考するのは当然であろう。歴史において求心とは1つの中心に向かうことではなく、複数の源流を発見することだからである。そしてこのような東アジア陶芸史への関心は、近年日韓中で行われる発掘調査が次々ともたらしている新知識と並行している。文献と伝世品によって形成されてきた従来のイメージを裏切るような、岸岳古窯や汝窯や定窯についての新知識によって書き換えられつつある陶芸史へのアクチュアルな入口として、そして、日本陶芸をいまだに支配する二つの美意識の交点として、現在の唐津焼は活発な震源地といった観を呈し、新世代の若手作家を輩出しているのである。


以下全て梶原靖元作。法基里(ポッキリ;伊羅保茶碗の窯址(韓国)の地名)茶碗


清涼瓷花入(汝窯の窯址「清涼寺」にちなんだ釉)


月白瓷盃(高台:月白釉は鈞窯の釉薬)


白瓷皿(定窯風の刻花)


新羅土器壺

梶原靖元(1962-)は、現在の唐津焼の先端を行く作家の一人であるとともに、唐津焼そのものに1つの切断をもたらした人である。つまり梶原以前と以後では唐津焼に対する見方が変わった。彼よりも知名度のある作家はいくらでもいるが、梶原ほど後続の若手作家たちに意識されている人は少ないだろう。

唐津焼の美を形成しているのは、言うまでもなく、数々の古唐津の伝世品である。従って「古唐津とは何か」という問いをこの美意識と切り離すことは出来ない。だがそれを、梶原以前の作家たちは、「どのような特徴が古唐津の美を形成しているか」という問いに置き換えた上で、伝世品から抽出した種々の特徴(形態、色合い、土味、絵柄、古色・・・)を巧みな技でなぞり写してきたのであった。対照的に、梶原にそのような「巧さ」はない、というかそれを必要としない。彼は「古唐津とは何か」、すなわち「当時、どこから来たどのような陶工が、どの土をどう捏ねて、何の釉薬で、何窯で、どう焼いたのか」を逐一探究し再現する、言い換えれば新しく古唐津(?)を作ってしまうからだ。古唐津の特徴を写す(現代の素材+現代の焼成方法)のではなく、それが制作された基本原理(当時の素材と焼成方法)を再現する。梶原は、言わばタイムマシンで —地質学的な土壌分布と窯の中の物理化学的なプロセスに今も昔も変わりはない事実により— 現代にやってきて同じ材料と同じ窯で制作する16世紀の陶工なので、何も「写す」必要がないわけである。その作品は基本的に、唐津各地で採集した岩石(砂岩・頁岩)を砕き精製して作る粘土(単味)を用い、様々な草木灰の釉薬をかけ、それを作品と同じ粘土で作った穴窯で焼いて作られる。梶原靖元は、古唐津の「土味」は石で出来ているという説を実証して見せた人なのだ。清潔でカリッと焼締まった美しい高台周りは彼のトレードマークである。(後編へ続く)


斑唐津片口


左:斑唐津酒盃 右:唐津酒盃

※写真提供:ギャラリー器館(京都)、筆者。


1. 伝世の古唐津が焼かれたのは寺沢氏支配下においてであり、岸岳古窯群の年代は波多氏まで遡らないとする説が、現在では有力になってきている。『古唐津分析集』(佐賀大学ひと・もの作り肥前陶磁研究所編、2013年)陣内康光論文ほか参照。

Copyrighted Image