28:脱色でも褪色でもなく — 森山大道の最新作カラー写真<3>

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周知のように、スティーグリッツは写真芸術の本質(”the idea photography”(*1))を求めて、象徴派や印象派の絵画をなぞるだけのピクトリアル写真から「分離」した。彼の雑誌『Camera Work』(1903-1917)の変質は、スティーグリッツの写真観の確立、そして写真のモダニズムの成立と並行している。それは最初の数年間は独自のピクトリアル写真を発表する場に過ぎなかったが、1907年、オートクロームによるカラーが導入され、モダニズム絵画への接近が始まる。スティーグリッツは写真の本質を求めてなんとピカソやブラックの絵画へ向かったのだ。同時期のピカソやブラックの作品といえばコンストラクションやコラージュである。つまりスティーグリッツがモダニズム絵画から抽出した「写真芸術の本質」とは、写真で読みかえたコラージュだったと言える。与えられたフレームの中に様々な要素を統合する「コンポジション」とは異なり、コラージュとは、紙片を添付し線描を加えることで次々と新しいフレーム(レイヤー)を発生させるプロセスである。既存のものに新しいフレームを与えるプロセスがコラージュだとすれば、既存の世界に新しいフレームを与えるプロセスが写真だ、つまり写真芸術の本質はフレーミングにある、と (*2)

事実、この時期のスティーグリッツの写真は、被写体に別のものを組み合わせてフレーミングしたものである。前回挙げた写真を見ても、そして彼の30年代の摩天楼の写真に至るまで、写真とはフレーミングとしてのコラージュの実践であるという彼の写真観は一貫している。1910年代は、スティーグリッツがこの写真観を確立していく時期であった。そのときカラーは余分な装飾に他ならない。彼はピクトリアル写真(キュビズム絵画風のピクトリアリズム —コバーンのヴォートグラフなど— も含む)を捨て、カラーを放棄するにいたる。やがて、意識的にカメラの前に様々な要素を配置しなくても、フレーミングそれ自体がコラージュに他ならないことに気がついたスティーグリッツは、自らの過去の写真をまったく新しい眼で見られるようになり、その結果「既存の世界に新しいフレームを与えるプロセス」としての「スナップショット」を発見した。そこへ、完成されたプリント技術(プラチナ、パラディウム、ゼラチンシルバー)が加わって「ストレート・フォトグラフィー」が成立する。それは純粋な「キアロスクーロ=光と影」で出来たコラージュであった(*3)


森山大道「記録 No.19」 2011年 © Daido Moriyama / Courtesy of Office Daido


Alfred Stieglitz Looking Northwest from the Shelton 1932

前回指摘したように、近年の大道写真の「コラージュ的な画面構成」はストレート・フォトグラフィーの再現である。それを、現時点において、しかもカラーで遂行するということには2つの意味がある。1)かつて「ヒステリック」が遂行した「光と影」への別れは不十分であった。ハイコントラストで都市の雑多なモチーフをリズミカルにコラージュしたその画面は —たとえ極端な変種と見なされようとも— やはりストレート・フォトグラフィーの「キアロスクーロ=光と影」の範疇に納まってしまうからである。言いかえれば、どのような被写体をどのように撮ろうが、結局は「芸術写真」になってしまい、本来の「コラージュ」の遠心力は、白黒写真が歴史的に帯びている求心力に減殺されて不十分にしか発揮されないのである。だから2)「カラーと写真のあいだには何の共通点もない」と言うストランドの真逆を行く必要があるのだ。なるほど、森山大道のカラー写真と白黒写真に、被写体やスタイルの相違はない。しかしカラーには、写真を「作品」化させずに単なる「写真」に引き留める力があるのである。従って、大道カラーは色彩自体を目的としたカラーではない(*4)。それは白黒の求心力を塗りつぶして、写真を写真に留めおく世俗化要因(secularizer)なのである。色のおかげで、コラージュの遠心的な力は、白黒画面の中へまったりと吸収されてしまうことなく、世俗的で、不調和な「うるささ」を保つ。こうして森山大道のカラー写真は、完結した「1枚の写真」になることなく、複数の記憶、複数の映像がうるさく交響する素面で雑色の日常をそのまま切り取るのである。「モダニズム写真よさようなら」(『写真よさようなら』1972)、「光と影よさようなら」(『サン・ルゥへの手紙』1990)、そしていま「ヒステリックよさようなら」(『カラー』2012)。記憶とコラージュを両輪とした写真の多重性の世界、それぞれの到達地点に次々と別れを告げながら長年追い求めてきたその世界に、森山大道はようやく到達した。どうでも良いような日常は、なんと豊かな奇妙奇天烈に満ちていることか。


上2点:森山大道「東京」 2012年 © Daido Moriyama / Courtesy of Taka Ishii Gallery and Office Daido

  1. Alfred Stieglitz Photographs & Writings, National Gallery of Art, Washington. 1999

  2. 有名な「Equivalent」のシリーズ(1923-34)はその純粋なデモンストレーションである。これは写真の芸術性が被写体に依存しないことを証明するために、万人の頭上に開かれた「空」を被写体にして始められた連作であった。このシリーズを作家個人の心象の「等価物」と見なす一般的な解釈は、写真自体ではなくその題名を説明しているに過ぎない。

  3. スティーグリッツの愛弟子、ストランドの言葉:「写真家の問題とは、己のメディアの限界と同時に潜在的クォリティを、明確に見極めることである。というのも、生き生きとした表現のためには、撮影されたヴィジョンの強度に勝るとも劣らず、誠実さというものがまさにそこで前提となるからだ。つまり、事物に対する本当の敬意であり、写真家の前にその事物はキアロスクーロ(カラーと写真のあいだには何の共通点もない)で、つまり、ほとんど無限と言っても良い拡がりをもち人間の手のスキルを超えた繊細な階調のトーンを通じて、表現されている。このことは、撮影やプリントのプロセスのなかでトリックを用いたり操作を加えたりすることによってではなく、ストレートな写真技法によって完全に達成される。」 Paul Strand Photography first published in Seven Arts (1917); cited from Classic Essays on Photography ed. by Alan Trachtenberg, Leete’s Island Books, 1980 p.142.

  4. なぜデジタルカラーなのか? 作家事務所に問い合わせたところ、画像加工や色調補正は行われていないということであった。別に疑う理由はないが、作家が使用するようなコンパクトデジカメ(Ricoh GX200, Nikon Coolpix S9100など)なら、自動的にもっとバランスの取れたカラー写真になるはずで、いくつかの作品においては加工や補正ではなく、コントラスト比や彩度をデフォルト設定から外しているのではないか、という気もする。昨今のデジタルカメラは、自動的に明るく美しいバランスの取れた色調を実現するようにプログラムされている。それはデジカメ世代の多くの作家達の色調を画一化しているとともに、大道カラーにとって非本質的で不必要な色彩効果をもたらすだろう。
    いずれにせよ、色の主たる存在理由は世俗化であるわけだから、100%レディメイド保証済みの(どのような色調であろうとそれは何らかのプログラム設定の結果であり「ストレート」ではありえない)カラーであるデジタルカラーが、そこで最も相応しいことに変わりはない。

清水穣 批評のフィールドワーク 目次

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