36:「ネガ」の永遠から「ポジ」の永遠へ——野村萬斎×杉本博司 三番叟公演『神秘域 その弐』(前編)

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野村萬斎×杉本博司 三番叟公演『神秘域(かみひそみいき) その弐』より
© Sugimoto Studio/ Courtesy of Odawara Art Foundation

近年の杉本博司は写真への興味を失ってしまったかのように見える。「新素材研究所」をベースとする建築、内装、そして家具のデザインなら、彼の凝った写真インスタレーションの延長線上で理解できるだろうが、「小田原文化財団」による日本の伝統芸能、とりわけ狂言や文楽のリメイクや演出は、彼の写真とどのようにつながっているのだろうか。

写真とは何かという問いに、近代写真は一つの倫理によって答えてきた。写真はあるがままの世界をあるがままに写さねばならぬ、と。「あるがまま」とは作者の美意識や価値観、イメージや言語によって汚されていない、生のままの状態のことであり、主客の分離に先立つ存在だけが輝く世界を意味する。たとえて言えば「海と名付けられる以前の海」、「人間」のいない光と元素だけの永遠の世界である。そして杉本博司は、独特の仕方でこの「永遠」=近代の倫理を護持している写真家である。

自分を見つめる客観の眼が研ぎ澄まされてゆくにつれて主客の渾然とした世界が深く目を開きはじめる。[…] それと同時に私自身の輪郭もそれを際だたせていたものから次第に遠ざかっていく。聞こえてくる音は全て音楽となって消え去り、存在が輝きはじめる。(杉本博司の言葉、1977年)

私にとってのカメラはあるがままの世界をあるがままに写し出すあるがままの装置である。[…]たとえて言えばあるがままの世界は真っ白なスクリーンのようなもので、あなたの眼が投影機となってあなたの世界をこの白いスクリーンの上に顕現させているのである。[…] カメラ、この“けがれなき眼”は世界をありのままに見る。(杉本博司「あるがままの世界」1995年6月のメモ)

だが杉本がアメリカに渡って写真制作を始めた1970年代とは、グローバルに展開し始めた情報資本主義社会の中で近代写真の倫理が崩壊していく時代であった。「永遠の世界」の消滅を目の当たりにして、多くの写真家たちがあらためて「写真とは何か」を問い直した。そのとき彼は、いわば最後のモダニストとして、もはや不可能なその永遠を信じる道を選ぶ。そして永遠の世界がもはや写真には写らないことを、写真によって表現する方法を探したのである。写真に可能なことは、「永遠にあるがままの世界」を写しとどめることではなく、それが写しえないことを写すことのみ、と。杉本博司の写真は、初期作品から一貫して、不可能な「永遠」を否定的に—ネガの形で—表現してきたのである。


杉本博司「La Boîte en Bois」(The Wooden Box) 2004年
© Hiroshi Sugimoto / Courtesy of Gallery Koyanagi

ここから、だいたい2004年(デュシャンに基づく「La Boîte en Bois(大ガラスが与えられたとせよ)」)頃までの杉本写真を次のように定式化できるだろう。永遠にあるがままの世界は存在する(近代写真の倫理)。だがその永遠の世界は既に終わってしまい、もはや写真には写らない。従って写真に出来ることは、その世界を裏切らない、汚さないことだけである、すなわち、写真から余計な表現を全て蒸発させ、ゼロ・空虚にしておかねばならない、と。詳細は別稿に譲るが(*1)、「ジオラマ」から始まり「大ガラス〜」に到る杉本の様々なシリーズは、すべて写真を純粋なゼロ状態に留めおくための方法に他ならない。写真から永遠に失われたあるがままの存在世界は、だからこそ目に見えないものとして永遠に輝き続ける。その輝きを汚さないために、杉本はあるがままらしさを仮構し(プラス)、それがフェイクであることを意識させることによって(マイナス)、写真を空虚(ゼロ、漆黒、輝く白い光)へと還元し、永遠をネガティヴ=否定形において保全するのである。この系列の最後に位置する「大ガラス〜」は、杉本の創作全体の基本モデルとしてある区切りをなす作品であった。

「大ガラス」はデュシャンの作品の「本歌取り」として作られたわけだが、この時点で杉本が導入した「本歌取り」という方法は、具体的には、先行者の作品をネガ・ポジのプロセスで作り変えることである。当然のように、杉本の次のステップは、そもそものネガ・ポジ法の考案者タルボットへ向かった。そして「純粋写真」に見立てられたタルボットのネガ原版から制作される「フォトジェニック・ドローイング」のシリーズと、「自然の鉛筆」として印画紙上で放電現象を用いる「放電場」が生まれる。これらは従来のネガティヴな表現とは異なり、現像されたポジティヴとして、「起源」に存在した「永遠」を再現する質を帯びている。それは自然法則の永遠であり、数億年前の稲妻と現在の稲妻が同じ自然法則から生じるように、言わばタイムマシンとして、遠い過去をそのまま現前させるのである。写真もまたこのような永遠の物理現象=光化学現象の一つと見なされる。写真がタイムマシンとなって杉本をその起源へと遡らせ、こうして「タルボット」のシリーズでは本歌取りによって「純粋写真」が再現され、「放電場」では、永遠の自然法則である落雷が光化学現象を引きおこすことによって純粋な「写真の起源」が蘇るわけである。今回の三番叟公演で重要なモチーフとして用いられていたのが、この「放電場」のイメージであった。(この項続く


杉本博司「放電場 019」2007-08年
© Hiroshi Sugimoto / Courtesy of Gallery Koyanagi


杉本博司「Photogenic Drawing 015」
タルボット家の住込み家庭教師、アメリナ・ペティ女史と考えられる人物、1840-1841年頃、
2008年 © Hiroshi Sugimoto / Courtesy of Gallery Koyanagi

  1. 清水穣「永遠の仮構と復元—杉本博司論」『プルラモン 単数にして複数の存在』所収、現代思潮新社、2011年。初出および英訳「Fiction and Restoration of Eternity: Hiroshi Sugimoto’s Recent Photographs」は杉本博司「光の自然(じねん)」展カタログ、IZU PHOTO MUSEUM/NOHARA、2009年。

※野村萬斎×杉本博司・三番叟公演『神秘域 その弐』は、2013年4月26日、渋谷区文化総合センター大和田 さくらホールで上演された。なお同公演は、同年3月28日、29日にニューヨーク・グッゲンハイム美術館で行われた『SANBASO, divine dance -Mansai Nomura + Hiroshi Sugimoto』の日本凱旋公演でもあった。
http://www.odawara-af.com/jp/information/20130115post.html

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