田中功起 質問する 14-6:高橋瑞木さんから3

第14回(ゲスト:高橋瑞木)――社会的実践とコンテンポラリー・アート

香港拠点のキュレーター、高橋さんとの往復書簡。締めくくりとなる高橋さんからの最終書簡は、アートの評価軸とヒエラルキーの関係を指摘し、そこで普遍性をどう保証するかを考えます。

往復書簡 田中功起 目次

件名:沈黙、雄弁、言葉

田中功起さま

今回はこちらがかなりお待たせしてしまいました。
田中さんから前回の返信をいただいた時期に、私はボロースというスウェーデンの小さな町で開催されていたEuropean Textile Networkというコンフェレンスに参加していました。それからゲント、アントワープ、パリでいくつかリサーチとミーティングをこなした後、まだ暑さが残る香港に戻ってきました。


ベトナムの紙幣に描かれた紡績工場

反転するユートピア

ゲント訪問の目的は、Museum about Industry, Labour and Textile (MIAT)に行くことでした。最初の返信でお話ししたように、私が現在開設準備に関わっている施設は香港のテキスタイル産業の歴史について伝えることがミッションのひとつなので、最近はこれまであまり縁がなかった産業史を伝える博物館を訪れることが増えています。

ひととおりのリサーチとミーティングを終えた後に、ゲント市立現代美術館(S.M.A.K.)に立ち寄りました。前回訪れたのは1999年でしたから、なんと18年ぶりです。S.M.A.K.といえば、惜しまれながら2014年に逝去した名物キュレーター、ヤン・フートを思い出します。フートはゲント市内の住宅群にダニエル・ビュレンやクリスチャン・ボルタンスキー、ブルース・ナウマンやローレンス・ウィナーといったアーティストたちの51作品を展示した、Chambres d’Amis(「ゲストルーム」。いわゆる市民参加型の展覧会のはしりと言えるかもしれません)のキュレーターとして日本では知られていますよね(*1)

フートに関する個人的な思い出としては、彼が2000年ごろに東京でおこなった講演会でのエピソードがあります。講演最後の質疑応答の際、オーディエンスから「コンテンポラリーアートはどうして一般市民にあまり理解が得られないのでしょうか」というような質問が投げかけられました。それに対し、フートは力のこもった迫力のある話し方でこう答えました。

「それは多くの市民にとってはサッカーの方が面白いからだよ! 現代美術は人々に思考を強いるものなんだ。でも普段、人は朝から晩まで仕事をして疲れて帰ってくる。仕事で疲れている上にさらに思考させられるなんてうんざりだろう!? 小難しそうな作品を見せられてその上考えさせられるより、テレビでサッカーを見ながらビールを飲んでいたほうが楽しいからに決まっているじゃないか!」

残念ながらこの答えの後に話がどのように発展したのか全く記憶に無いのですが、やや明快すぎる答えにもかかわらず説得力があるように感じたのは、フートのこの発言はゲントのような小都市でコンテンポラリーアートを展開しようと長年腐心してきた経験に基づいていたからでしょうか。

果たして久しぶりに訪れたS.M.A.K.では、コンテンポラリーアートと市民をコネクトしようと苦心惨憺したフートのおかげか、私が最近見た美術館の展示の中ではもっとも挑発的な展覧会が開催されていました。それは、Michael E. Smith(*2)というデトロイト出身のアーティストの個展で、閉館中かと錯覚するほど照明が暗く落とされた広いギャラリーの片隅に展示されているのは、IKEAで売っているような何の変哲もないソファと、その上を行き来する赤いレーザーポイントの光のみ。それに続くのはフグの剥製に最小限の手を加えただけの彫刻や、潰れた鳥が連なったクリスマスリースのような立体作品など、数えるほどの点数の小品の展示です。観客に対する一切のおもねりを拒絶したとも言える、空間を贅沢に使ったミニマムな展示は、キュレーターのコンテンポラリーアートというジャンル(と敢えて言います)と作家に対する絶対的な理解と信頼、そして自分たちの活動に関する揺るぎない自信を感じさせました。そして、非常にスノッブでした。

おそらくS.M.A.K.はアーティストにとっては表現の妥協を強いられる、つまり踏み絵を踏ませられることのない、ユートピアのようなところなのかもしれません。しかし、Michael E. Smithの個展で出現したのはディストピアともいえるような殺伐とした風景でした。そして、ほぼ何も無い展示空間に反比例するようかにコンテンポラリーアートに関する豊穣なジャーゴンで満たされた展覧会の解説シートが、図らずも展覧会に皮肉なタッチを加えているように感じられました。もっとも、美術館の空間を荒廃した風景へと転化させることこそが作家の意図だったのかもしれませんが。

ヒエラルキーと普遍性

さて、前回の返信で田中さんは引き続きオラファー・エリアソンのグリーンランプのプロジェクトについていくつかの評価軸を設定し、それにそって分析したうえでソーシャリー・エンゲイジド・アートにおいては象徴的な行為としての強度、そして理念の質も問われるべきで、そして社会的実効性があり、なおかつアートの普遍性をも持つ形式を考えても良いのではないかとおっしゃっていましたね。美術大学の制度に異議を唱え、自由国際大学を開設し、緑の党の設立に関わったヨーゼフ・ボイスはまさしくその筆頭とも言えるでしょう(そしてまさしくその理念があまりにもリアリティに欠けているという理由で、彼は最終的に緑の党から追い出されてしまうわけですが)。

続いて田中さんが参照しているクレア・ビショップの『人工地獄』での議論は、イタリアの未来派、1917年のロシア革命直後のプロレトクリト、そしてパリ・ダダという3つの芸術運動の中でおこなわれた演劇とパフォーマンスの検証でした(*3)。ビショップがこの章で指摘しているのは、未来派やプロレトクリトといった芸術運動の主体によって上演された演劇やパフォーマンスは、大衆の参加を促すことで企画の主体と客体におけるエリート層と大衆との境界を破壊し、芸術体験における階級差の無効化を試みつつも、最終的には芸術の姿を借りた政治的イデオロギーへと大衆の動員を図るシステムとして機能していた、ということでした。ここで見られるように、ビショップによる芸術生産の主体とその受容者のヒエラルキーについての関心こそが、彼女のリレーショナル・アート批判の動機のひとつであることは言うまでもありません(*4)

この点において、私は「普遍性」とは、個人の思索的活動の蓄積によって生み出されるかもしれないが、その担保は階級をも含めた社会的構造の中でなされると考えます。質についての評価もしかりです。例えば、田中さんや私は幸いなことに仕事で海外に行くことも多く、とりわけコンテンポラリーアートがエリートや中間層の中ではかなり認知されている環境で様々な国籍のアーティストやキュレーターたちと芸術や社会情勢について話をしたり、コンテンポラリーアートにおける最新の問題系について見聞することができますよね。こうした体験を通して学び、思考を深め、自分の中での質の評価軸を設定していく。けれども、この評価軸を共有しない人に対して、その評価軸自体をどうやって正当化すればいいのか。そもそも正当化する必要はないのか。だとしたらそこで保証される普遍性とは何なのか。

ここで書簡の最初から引き合いに出している遠藤周作の『沈黙』へと再び話を戻したいと思います。私はヨーロッパ出張中に断続的この本を再読しました。今さら気がついたのですが、小説は異なる人称の語りで執筆されているんですよね。最初は三人称、次に日本に密航してきた宣教師、セバスチァン(原書での表記に倣っています)・ロドリゴの一人称による書簡形式。彼が捕縛されてからは再び三人称に戻り、最後は切支丹屋敷役人の日記で結ばれています。小説版『沈黙』では、異なる文体(形式)が統合されることで全体を作り出しながら、正義、真実、異文化理解における倫理についての複数の視点、問題点が提示されます。しかしながら、興味深いことに、衆人の身分に所属するキチジローの視点だけは小説中に描かれていないんですよね。田中さんが以前指摘されたように、私たちの多くはおそらくキチジロー的な「踏み絵を踏みながら」生きているにもかかわらず。つまり、沈黙しているのは神だけではなく、マジョリティーもそうだったということです。

ポスト・インターネット環境における高次な議論の形式とは

田中さんとの往復書簡も最後なので、いろいろな論点を盛り込みすぎて、ついつい内容が拡散してしまいました。でも、論文ではないので特に結論も設けず、拡散したままで終わろうと思います。私が最初の返信で田中さんにアーティストの生の形式について問いを投げかけたのは、形式とは概念の表出であるとともに、文化や政治的な環境においては権力の発動装置になり、ヒエラルキーを体現するということに、ボイスやウォーホルといったコンセプチュアルアーティストが公私において意識的だったのではないか、と考えたからなのでした。ハラルド・ゼーマンやヤン・フートといったキュレーターもそうだったかもしれないですね。

ボイスは1984年の来日の時に、日本のメディアや批評家に散々にこき下ろされ、東京芸大での学生との対話集会では冒頭から批判されました(*5)。ゼーマンは自分がディレクターをつとめるクンストハレ・ベルンで1969年に企画した「態度が形になるとき」の急進的な展示のために辞職せざるを得なくなります。これを、形式を壊すために新たな形式を提案したけれど、当時は伝わり損なった例と考えられるかもしれません。その一方、ウォーホルやフートは彼らによる新しい形式が衆人へと誤解を含めながらも伝わった例と見ることも可能でしょう。

今ではフェイスブックやツイッターといったソーシャルメディアやネット上のインタビューなどでアーティストやキュレーター、批評家やオーディエンスの発言を目にする機会も多くなり、私たちは物理的な公共の場で見聞するのとは異なる彼らのパーソナリティのレイヤー(本音?)を知ることができます。今回のエリアソンやヴェニスビエンナーレに対する批判で私が驚いたのは、その批判の内容ではなく、批判のために使われた感情的な言葉とその拡散のスピードであり、そしてその感情的な言葉が引き起こすチェーンリアクションでした。インターネットやツイッターが発明されたとき、これらのテクノロジーは新しい公共性を開拓し、所属を問わず、民主的な意見交換が可能になるというポジティブな意見がありました。しかし現実が必ずしもそうなっていないのは自明のことです。この透明度が増した情報化社会と加速する反応の中で、「高次の議論」はどのような形式や言葉によって維持されうるのか(*6)。インターネット上のプラットフォームにあえて往復書簡という形式を設けた田中さんにはその辺りをいずれまた伺いたいと思います。

では、香港での次回作を拝見することを楽しみにしています。

やっと涼しくなってきた香港にて
高橋瑞木


1. Chambres d’Amis展についての日本語解説はこちらに詳しい。
2. Michael E. Smithは1977年アメリカのデトロイト出身。動物の剥製を使った立体、ヴィデオ、写真作品を発表している。2012年のホイットニー・ビエンナーレに参加。
3. 「第二章 人工地獄:歴史的前衛」、『人工地獄 現代アートと観客の政治学』クレア・ビショップ著、大森俊克訳、フィルムアート、2016年、pp75-126.
4. Bishop, Claire,“Antagonism and Relational Aesthetics”, October, no.110, Fall 2004.
5. ボイスが日本に来日したときのメディアの反応については『Beuys in Japan』水戸芸術館現代美術センター編、フィルムアート、2010年に詳しいです。
6. この返信を執筆中に、開催された香港のアートスペース、Para Siteが主催しているシンポジウムで、アムステルダムのDe AppelのディレクターNiels Van Tommeが紹介した、Hiwa Kの言葉が私たちの往復書簡で議論された問題点について示唆的だったので紹介します。

Today I noticed a lot of refined language in contemporary art and when you read a text only people in the art world can get it. There is a large distance between the art world and the world outside, and that’s why someone like Trump wins, because he reaches people who are left behind by all the others. I believe artists should use a language that can be understood by large audiences, otherwise we are an all too easy target for populists.[…]When people do not understand my work, it is not their but my problem.
「今日コンテンポラリーアートには、テキストを読んだときにアート業界の人しか理解できない洗練された言葉がたくさんある。アート業界とその外部には大きな距離があるから、トランプのような人物が勝利する。だって彼はとりのこされた人々に接近することができるから。アーティストは多くの観客に理解される言葉を使うべきだと思う。そうでなければ僕たちはみんな簡単にポピュリストたちのターゲットになってしまう。(略)人々が僕の作品を理解しないのは、彼らじゃなくて僕の問題だ」(翻訳:高橋瑞木)

 

近況:12月9日、10日に香港で、公共空間、コミュニティにおけるテキスタイルとそれを用いたアート活動の役割について企画したシンポジウムが開催されます。マレーシアからは国立新美術館で開催中のサンシャワー展に参加しているパンクロック・スゥラップ、日本からは西尾美也さんをお招きしています。
http://mill6.org.hk/

【今回の往復書簡ゲスト】
たかはし・みずき(MILL6 Foundation 共同ディレクター)
ロンドン大学東洋アフリカ学学院MAを終了後、森美術館開設準備室、水戸芸術館現代美術センターで学芸員を務め、2016年4月から香港のMILL6 Foundation(2018年秋に開館予定)でシニアキュレーターとして勤務後、2017年3月末から共同ディレクター。主な国内外の企画として「Beuys in Japan ボイスがいた8日間」(2009年、水戸芸術館)、「新次元:マンガ表現の現在」(2010年)、「クワイエットアテンションズ:彼女からの出発」(2011年)、「高嶺格のクールジャパン」(2012年)、「拡張するファッション」(2013年)、「Ariadne`s Thread」(2016年)など。アジア、ヨーロッパでの執筆、講義も行っている。
MILL6 Foundation:http://mill6.org.hk/

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