椹木野衣 美術と時評 83:寄せては返す骸(むくろ)と天界——イケムラレイコの惑星世界

連載目次


「イケムラレイコ 土と星 Our Planet」展、「コスミックスケープ」セクション展示風景、 国立新美術館、2019年
All photos courtesy the artist and ShugoArts  All photos by Shigeo Muto

 

イケムラレイコが作り出した世界に足を踏み入れると、えもいわれぬ不安な気持ちになる。不穏といってもいい。安心して対象を見ていることができない。心のよりどころを見つけられない。だから十分に見終えたと感じることがないまま次へと歩を進めてしまう。結局あとから戻ってもう一度見直したりすることになる。だからといって、なにかを見残したというわけでもなかったのだから、つい同じことを繰り返してしまう。不穏というより、はたから見れば不審かもしれない。そんなことを繰り返しながら、それでも少しずつであれ先へは進んでいく。動線とは無縁の動きだけれども、時が経てば最後には会場を出てしまう。するといま一度最初から見たくなるのだ。そして、もう入れないことを後悔している自分に気づく。でも、仮にもう一度入場したとしても、後悔したのがなぜだったのか、思い出せるはずもないのだが。

そんな見方しかできないのは、イケムラの作るものが見る者の心中に生み出すなにかが、イメージのようでいてイメージではないからだろう。もしもイメージであるなら、それがなにについてのイメージであるかがわかった時点で、まがりなりにも心が安定するはずだ。しかしイケムラの作り出すものは、具体的ななにかに似ているようでいて、実はそのなにかにまったく似ていない。それをいうなら、そこから逃げ出すために、かりそめになにかのイメージに身を宿しているほうが近いかもしれない。

しかし、イメージのようななにかは、いったいなにから逃げようとしているというのだろう? それがわかれば、始めからなんの苦労もないはずだ。けれども、それは最後まであきらかにはならない。わかっているのは、イケムラの世界に姿を現わすイメージのようななにかが、常にそこから逃げ出そうとする運動の渦中にある、ということくらいだ。逆にいえば、あまりにしんどいからといって、イケムラの絵や彫刻を、なにかに似ているというだけの理由で、少女とか、風景とか、人物とか、そういうわかりやすい類型に頼って見てしまうとき、見る者は瞬時にしてイケムラの作品に固有の体験から降りてしまうことになる。本当はそういう解決を拒んで、じっとそこに止まらなければならないのだが、刻々と送られてくるイメージは逸脱と変転を続けるばかりで、最後にはしんどくなる。その場を離れてしまうのは、ふと、そのような持続の意思が途切れたときのことである。しかしそれでも、また見てみたいという気持ちまでもが消えることはない。見る者にこうした緊張と誘惑を同時に仕掛けてくる体験というのは、なかなかあるものではない。

この文章は、今年の1月から4月にかけて東京の国立新美術館で開かれた「イケムラレイコ 土と星 Our Planet」展の評で、しかし実は私はそれまで、イケムラの作品をまとめて見る機会をずっと逸し続けていた。この展覧会について最初に知ったのは機中の広報誌で、その時私は空の上にいた。飛行機の中というのは整然と管理されているけれども、だからこそ不安なものでもあって、非日常的だからこそ安全が過度に演出されているともいえる。そもそも足元のすぐ下には雲が広がっていて、なにも支えるものがない。そんなものがとんでもない速度で止めようもなく前へ前へと直進しているのだ。そういうことはあまり意識しないほうがいいに決まっているけれども、そういう状況でイケムラをめぐって本展のような企てが進行中であることを知るのは、少なくとも機会としてはわるいことではなかったように思う。記事の内容ははっきりとは思い出せず、久しぶりに彼女が母国で開くことになる大きな展覧会を見に来る人たちへと場と機会をどう提供するか、いろいろと考えているところだ、というような言葉が、本人を写した大きなカラー写真とともに載っていた気がする。

事実、この展覧会は構成が非常によく練られており、簡単にその全体を頭に入れることがとても難しい。実質的には大規模な回顧展といえる内容だけれども、回顧的な要素、つまりレトロスペクティヴな(過去を見る)要素はほとんど感じられない。制作年はまちまちだけれども、どれを過去の作品とし、そこからの展開として後の作品を見る、というような安易な見方を許さない厳しさのようなものがある。厳しさ、ではなく厳しさのようなものがある、と記すのは、そこに精密さのような機械的な規則とは程遠い、なにか有機的といっていい包括する力があるからだ。それはたんなる厳しさとはまったく違うもので、むしろいやおうなく循環する時間といったほうがいい。そういう回帰する力に抗えない、ということが厳密さに似た体験を用意するのだ。

同展のカタログによるとイケムラは最初、この展覧会を春、夏、秋、冬、そしてまた春、というふうに摂理として回帰する時間の中で構成できないかと考えていたようだ(*1)。結果的にはそういうふうにはならなかったけれども、回帰する時間というのは深い余韻として確かに残り、「隠された構成として展覧会の基盤になっている」(*2)

「プロローグ」以下、「原風景」「有機と無機」「ドローイングの世界」「少女」「アマゾン」「戦い」「うさぎ観音」「山」「庭」「木」「炎」「地平線」「メメント・モリ」「コスミックスケープ」と続き、最後に「エピローグ」が来る。それぞれにわかりやすい言葉が使われているけれども、実際の作品はそれほどわかりやすいものではない。むしろ相互に浸透し合っていると考えたほうがよい。しかし単純な連携ではない。生きものたちには生きものたちの、少女には少女の、戦いには戦いの、炎には炎の、母には母のイメージに似たものがたえずまとわりつき、同時にそこからただちに逃れていく。逃れていく成分は蜘蛛の子を散らしたようにほかのイメージに一瞬、宿るかに見えて、やはりそこに落ち着くわけではなく、気付いたそばから隣接した、あるいはもっと遠隔のイメージへと脱していく(脱兎のように?)。

 


「有機と無機」セクション展示風景

 


「ドローイングの世界」セクション展示風景

 


「少女」セクション展示風景

 

もっともキャッチーなはずの「少女」を見てみよう。見ようとするやいなや、少女らしきものはすぐに少女でないものへの変成を始めるはずだ。そもそも、ここで少女らしきと呼ぶものは絵としての輪郭がはっきりしないし、背後が透けていることも多く、まるで消滅の直前を素早く捉えようとしてハレーションを起こしてしまっているかのようだ。それはペインティングだけでなく、初期のイケムラを代表するドローイングでも同様だ。筆で塗られた面からなるペインティングのほうが、線ではっきりと引かれるドローイングよりも、イメージのあいまいな現れや消え去りを表しやすいと思うかもしれない。だが、線ではっきりと引かれるからといって、結果として現れる対象がなにを指しているかについての理解が明晰になるとは限らない。それどころか、線は線でしかないことで、強く引かれた箇所は強く太く、弱く引かれた箇所は弱く細く、端的にそうなるだけで、その落差がはっきりとすればするほど、痕跡としての指示作用は後退する。ペインティングとは逆に、はっきりと線が引かれれば引かれるほど、対象がいったいなんなのかはわかりづらくなる。ペインティングにおける「少女」が、少女でないものへと消えていく寸前に描かれているのだとしたら、ドローイングの線はまだ現れたばかりで、暗闇から明るい場所に急に出された眼がまぶしすぎて対象をまともに捕捉できないように、現れの光量(線量?)が大きすぎて見る者はかえって具体的な把握が難しくなる。

このことは彫刻であってもなんら変わりがない。イケムラの彫刻はとりたてて難解な形態をしているわけではなく、むしろ記憶のなかから誰もが拾い寄せることのできるような馴染みのある形状を持っている。しかし、そのかたちはどこかで肝心の箇所を部分として欠損させているから、身近なようでいて、けれども実際には想像力であれこれ補填しなければならず、しかしそんな補填ができるほどはっきりした記憶の材料は(記憶が記憶でしかないかぎり)どこにもないのだから、対象はわかっているようでわからないという状態にやはり宙吊りとなり、そうこうしているうちになんなのかがわからない、という側へ急速に傾斜していく。

このようなイケムラ作品の作られ方は、踏み込んでいうならば、作る、というのとも少し違っている。作られたものは作られたという事実だけで相当に強固で、ものとして存在する対象がだんだんと輪郭を失うような現れや消え去りをそこに見るのは、かえって難しいはずなのだが、イケムラはむしろ作ることで作ることを無化し、イメージを存在させることで進んでイメージを手放すような(そういう言い方しかできないのでそうするが)作り方をしているように思えて仕方がない。展覧会場ではイケムラが彼女のスタジオで机に紙を置き、絵を描いている様が映像で公開されていたが、その様はどちらかというと筆で描くというよりも、大きな消しゴムですばやく絵を消し去っているように見えた。しかし考えてみれば、面を塗るにせよ線を引くにせよ、描くということは、他にどのようなかたちでかありえた可能性を消しながらしか進められないのだから、どこかで流産性を孕んでいる。「流産」を「孕む」とはおかしないい方だが、この矛盾したいい方はイケムラの絵や彫刻の特徴をよく捉えているようにも感じられる。

 


「うさぎ観音」セクション展示風景

 

もうひとつ、今回の展覧会で私が気になったのは、カタログ上の論考群において一様に、イケムラが東日本大震災の大きな影のもと、作品へ向かう姿勢に変化を余儀なくされたことについて触れている点である。あれだけの出来事があったのだから、そのこと自体にはなんの不思議もない。先に引いたテキストの中で長屋がそれを「精神的な危機」とまで表現していたことも大げさとはいえまい。事実、その精神的な危機は、なによりもみずからの救済のため胎内に空洞(=孕まない無)を抱え、そのことであらゆるものを受け入れ、受け入れられたものを体の裏側から抱擁するうさぎ=観音の姿へと昇華されている。けれども、それよりも私が不思議に思ったのは、イケムラがなぜそこまでして、遠く離れた地から届いた日本の大震災の知らせから、作ることの危機にまで直面することになったのか、ということのほうだった。そこには、危機への直面とその克服というよりもはるかにわかりにくい、というよりも、イケムラにとってのひそかに親密でさえあるものがあったのではないか。

イケムラは、この展覧会のプロローグに寄せた詩文のなかで、荒ぶる海とその静まりからなる避けがたい循環について触れている。その文は「この夏、海はまた静かになった 何事も起こらなかったかのように でも白い砂浜は知っている 荒れ狂った海がしたことを 離別のかたみをすくい上げ」で始まり、「どこへ向かうべきか ただ地に横たわり土にカラダを触れる 時間の流れはゆっくりして永遠に伸びてゆく 波が立ち始め、そのうねりは強く、また何かを生み出そうと、春」で結ばれている。誰しもが東日本大震災での荒ぶる大津波を連想する文だろう。しかもそのような喪失と犠牲を地上にもたらした海は、いまは穏やかでも必ず「また何かを生み出そうと」する。その予感は、たとえ春のうららかな陽気でも消すことはできない。というよりも、春夏秋冬にならえば、四季の始まりであるはずの春が末尾に置かれることで、「そのうねり」は、これからも繰り返される夏や秋、冬への兆しとして刻まれる。四季には終わりがなく、春で始まるように感じられるのは暦のうえでの都合でしかなく、春で終わればそのあとには必ず夏が始まる。ゆえにこの詩も夏から語られるのではなかったか。四季とはその意味では尾を喰んだ蛇=ウロボロスのような円環のなかにある。大津波は必ずまたやってくる。しかも円環の中では時間の前後が意味をなさなくなるから、過去の大津波は未来の大津波であり、未来の大津波は過去の大津波でもある。

このような循環と時の無化、そして現れが消え去りとなり、消え去りが現れを予感する海という巨大な媒質、そのあり様——それがイケムラのイメージがイメージでなくなり、イメージでないものがイメージのように見え始める、そうした絵や彫刻の運動にひどく似ている気がしてならない。もしそうなら、イケムラが東日本大震災の大津波によって精神的な危機に陥ったというのも納得がいく。イケムラの絵そのものが、もとより潜在的に津波を孕む海のようなうねりと移ろいを備えていたのではないか。

イケムラは三重県津市の海辺の町で生まれ育ったという。そこが具体的にどういう場所かは知らないが、津市の海辺ということなら、1946年に昭和南海地震による大津波で被害を出した場所かもしれない。そうでなくても、伊勢湾に面する津は、古から高潮や台風と深い縁を持ってきたはずだ。イケムラが1959年の伊勢湾台風をどこで、どのように体験したかはわからないが、「三重県津市の海辺の町で生まれ育った」なら、なにがしかの記憶として刻まれていてもおかしくない。もしかしたら、東日本大震災で呼び覚まされた遠い極東の地とは、東北というよりも、それ以上に抽象化された意味での「津」そのものではなかったか。その場で満ち引きを繰り返し、時に高潮と化して人の暮らしをまるごと呑み込む海を呼び込む津、という様態は、作るでなく作り、特定のかたちやイメージを持たず、たえずおのれを表しつつ消す器として、無意識のうち多くを負っていはしまいか——そういうことに気づいたのではなかったか。だからこそ、イケムラは「原風景」としての山水画に強く、さらに強く惹かれてきたのではなかったか。

そもそも、津という地名自体が不穏である。古来、津とは港を意味し、現在の津市の由来も平安時代に京への道のりとして肝要な働きをなして栄えた港、安濃津(あのうつ)にある。ところが安濃津は明応7年(1498年)に起きた大地震によって引き起こされた大津波で壊滅し、いまでは当時の正確な所在地さえよくわかっていない。日本における津波という呼称の由来について調べていうわけではないが、安濃津が当時の日本を代表する津であったこと、安濃津といえば、ほとんどその頃の日本の津(=港)の代名詞と呼べる場所であったことを考えると、津の波(津浪)とは、もともと安濃津を襲い、安濃の津をすべて消し去ってしまうほどの大波のことを指したのかもしれない。これがいささか飛躍しすぎた創造であるのはわかっている。だが、仮にそう考えるなら、津波とは津を襲う波のことになり、イケムラは津・波のふるさとで生まれ育ったことになる。つまりイケムラは、潜在的にずっと海の絵を描き続けてきたのではないだろうか。イメージが生まれるそばから波によってさらわれていく、そのようななにかをとらえようとし続けてきたのではないだろうか。言い換えれば、彼女が直面した精神の危機そのものが、根源的に津波のようなものだったのではあるまいか。

 


「メメント・モリ」セクション展示風景

 


「コスミックスケープ」セクション展示風景

 

遠い異国から母国の危機を案ずるというようなことではなく、イケムラにとっての東日本大震災がそのような身に迫る根源的な危機だったのであれば、この危機はやはり「原風景」としての山水画でいまいちど乗り切れなければ意味がない。ただしそれは伝統的な、いわば箱庭的な山水画ではありえない。いまやイケムラにとっての地球は水球であり、大気圏は水の成分で溢れている。風景としての山水画ではなく、津波や豪雨、地滑りや地震を備え、荒ぶる海を宇宙的な次元で取り入れた山水画でなければならない。おそらくはそれが本展にあって最大の空間を割いて作られる「コスミックスケープ」と呼ばれるなにかに違いない。そこでは火山が立ち並び、噴煙が撒き散らされ、生き物が目を抜かれた骸として散乱し、それでも全てが死に絶えるわけではなく、生き残った者にはふたたび春が訪れ、花がそれを迎え、だからこそ残った命へ「メメント・モリ(死を想え)」と呼びかける山水画である。そして、ほかでもない私たちこそが生き残った者なのだ。だからこそ本展のタイトルは土(骸=むくろ)であり星(天界)であり、われらが遊星=プラネットなのではなかったか。プラネットは恒星と違い天をさまよう。だから惑星とも呼ばれる。そして私たちの「大地」こそが惑・星であり遊・星でもあるのだ。この大地を固定したものではなく、移ろいゆく球体に見立て、星々の次元で山水画に仕立て直すこと、それが「コスミックスケープ」であり、この展覧会が「土と星(Earth & Stars)」と呼ばれることの本当の意味だろう。

 

「イケムラレイコ 土と星 Our Planet」展は2019年1月18日〜4月1日、国立新美術館で開催された。

 


1. 長屋光枝「イケムラレイコ論 イメージの生成をつかさどる」、『イケムラ レイコ 土と星 Our Planet』、求龍堂、2019年、p.13
2. 同上

 


筆者近況:6月8日、金沢 21世紀美術館での「粟津潔 デザインになにができるか」展関連イベントとして、秩父前衛派の笹久保伸とトークに登壇予定(秩父前衛派のライブもあり)。7月6日には太田市美術館・図書館での「本と美術の展覧会vol.3『佐藤直樹展:紙面・壁画・循環』」関連イベントとして、佐藤および伊藤ガビン(編集者)と共に「鼎談:佐藤直樹になにが起こったか」に登壇予定。また、本連載での連続論考「追悼・三上晴子――彼女はメディアアーティストだったか」を収録した『三上晴子 記録と記憶』(馬定延・渡邉朋也編/NTT出版)が発売中。

 

Copyrighted Image