adrianのブログ

チェックと日本の現代美術界についての感想

六本木クロッシングレヴュー

2010年8月22日

青山悟

レヴュー
六本木クロッシング2010展
芸術は可能か?-明日に挑む日本のアート-
森美術館 六本木ヒルズ森タワー53階
2010年3月20日-7月4日

日本は新たな鎖国の時代に後退したのだろうか。それは、アートライターのロジャー・マクドナルドといった日本に住むコメンテーター達の懸念だった。彼らは、日本の社会的、政治的風潮が、国を閉ざし外国との通信や文化交流を制限していた19世紀半ば初頭の心境に日本を連れ戻しているのではないか、と心配しているのだ。東京の森美術館において3年おきに開催される、日本最高の現代美術の回顧展の最新作に海外から訪れた人たちも同じように感じたかもしれない。海外のアートメディアからどうも敬遠されただけではなく、構想、カタログのエッセイ、展覧会にまつわる議論など、見たところ現代日本のアートシーン自体が自身との会話のみで満足しているようだ。執拗なまでのテーマは、2008年のリーマンショックの経済的余波で再び感じられた、日本が甘受したポスト90年代の衰退の疑念や不安である。そしてそれは、ゆっくりと回復しつつあった現代美術市場を再度大きく打ちのめしたのだ。若い世代の未だ溌剌とした創造力から勇気とインスピレーションをもらい、この展覧会は尋ねるのだ。このような文脈で芸術は可能か?そしてこれは我々の社会が自身を再定義しようとしていることについて何を意味しているのか? 

今までの六本木クロッシングは、単に様々なキュレーターたちの好みが反映された、明らかな地元のスター達と希望に満ちた無名の者達との混合コレクションだった。しかし2010年バージョンは、しっかりとコーディネートされたキュレーター達の議論や選考過程ではっきりと区別され、いつもの30-35人のアーティストに代わり、わずか20人/組の参加だった。従来のとおり、3人のキュレーターで構成された。近藤健一、ロンドンのYBA期に影響されたとても若い森美術館のアソシエイト・キュレーター。彼が窪田研二と木ノ下智恵子という、二人の独断的なインディペンデント・キュレーターを招いた。彼らは一風変わった経歴を持ち、社会派、行動派、東京以外(主に関西地方)の都市アート形態、そして特に、拠点を京都に構えたアーティストグループ「ダムタイプ」のレガシーに及ぶ興味を持っている。有名な日本のアートライターである松井みどりに紹介された概念「マイクロポップ」とは全く異なる何かを求める展覧会になるようこの3人は同調していた。この概念は、この島国の外で行われている数少ない最近の議論の一つである。言い換えれば、六本木クロッシング2010は、松井のキュレーションを特徴づける、しばしば未熟に見え、もろく、内省的、プライベートでそして儚いというアートの形態とは全く正反対である、外交的で、活気に満ち、感情的、そして公共・政治的な選択を紹介したのだ。

森美術館では、既にロビー正面で下品なアートグループChim ↑ Pomの展示物によって日本の健康状態が問われていた。それは、ブロンドで、頭が軽そうなファッションに身を包むアイドル役を四六時中演じ続けるなりきり女優のアート学生エリイちゃんによるビデオだった。ここで彼女は、東京の象徴的な場所をスクーターに乗って走り、カラスの剥製を手に、石原東京都知事を挑発し、空の大混乱を起こした様子を撮影されていた(Black of Death, 2007)。我々は、黒々としたカラスの群れを彼女が先導し、国会議事堂から渋谷の交差点を通り過ぎ、人のいない早朝の町を死と闇にはびこられたものに明け渡している様子を恐怖と娯楽を伴った感情で見た。そして、ギャラリーの入り口で、我々はわずかに汚れたように見える、さかさまの日本の国旗に出迎えられる(さかさまの日の丸, 2006)。それは、沖縄出身の若いアーティスト、照屋勇賢の静かで批判的な政治/環境懸念を伝えていた。彼のもっとも独創的な作品はマクドナルド、ヴィトン、エルメスなどの紙袋を切り抜き、樹木を組み立て、それを元の捨てられた袋の中に作ったりしたシリーズである。それは、消費社会の日本の支配的な形のいくつかである浪費や悪趣味さを指し示している(告知-森、2005)。この最初の部屋の強力な印象は明らかであり、当然のことながら照屋は、オーディエンス賞を獲得した。


照屋勇賢

展覧会の中を進むにつれ、インスタレーション、パフォーマンス、物語式の写真やビデオといった展示に重点を置いていることは明らかになった。それ自体は、世界の美術の点からは様式化されているように見えるかもしれない。そして中央の部屋に進むと、そこは騒々しい都市アートのモチーフ、グラフィティ、道端の喧嘩、巨大なスケートボードの滑走台であふれており、それらは陳腐にさえ見える危険性もある。しかし、グラフィティとおおざっぱに解釈されたヒップホップ文化は多様性や公共秩序に対して未だ極めて許容力のない社会ではかなり違った意味を持つ。そしてこれらは最近の若者文化の形式であり、西洋が執着しているかの有名なオタクサブカルチャー(漫画、アニメ、グッズ、カルトファッション等)より日本では一般的で重要なのだ。

中央ホールは宇治野の作品で占められていた。彼は、ここでの1990年代のネオポップアートの生きたリンクだ。彼は機知に富んだ才能を持ち、ヴィンテージのドメスティック・インダストリアル・マシーンでできた大規模なマッドサイエンティスト風のサウンド・スカルプチャーを使った、DJの音のパフォーマンスで有名だ。ターンテーブルとビニールのディスクに付いたプラグを引き金に、クリック音、モーター音そして機械のガラガラとした音は、捨てられて再結合したときのみ真の目的を見出せると言っているかのようだ(The Ballad of Extended Backyard,2010)。宇治野の騒々しく、カラフルなインスタレーションは、関西拠点の4人のダンスグループ、contact Gonzoのパフォーマンスのバックミュージックとして特に効果的だった。彼らの、一見乱暴なパンチ、キック、そして酔っ払いのプロレスのようなパフォーマンスは、信頼と友情の非常に優雅なバレイを作り上げている。

ここから後半は、少し年配で有力なアーティストを紹介していた。米田知子はいつものように秀でていた。彼女の展示スペースにはほとんど何も写っていないかのように見える写真のセットがあり、韓国の国防司令部だった廃屋の目に見えない歴史を伝えていた。実際の画家の展示がない中、青山悟の暗い部屋に浮かび上がった銀の糸の細かい刺繍は、労働としての美術の性質と彼が再現する現代メディアのイメージの重要性などについて、とても巧妙な疑問を投げかけていた。彼は展覧会で当然のMAM賞を受賞した。おそらく現在の日本のアーティストの中で一番注目されているのは、高嶺格だろう。彼は元ダムタイプで、彼の在日韓国人の女性との結婚をほろ苦い写真とテキストで紹介し、異文化の愛とコミュニケーション、在日が味わっている隠れたアパルトヘイトの苦しみを喚起している。次に、最後の部屋では、ここで一番有名なアーティストである森村泰昌による巨大なビデオの映写が見られた。1980年代にダムタイプのメンターだった彼は、現在、日本中でとてもよく見られる。彼は、非常に力強い新たな方向性を20世紀に起こった出来事や政界の人物を再現した彼の新しい作品に見つけた。ここでの、彼の精神分裂症風のチャーリー・チャップリンとヒットラーのパフォーマンスは面白く、感動的で不快でもあり、メインの展覧会の忘れられないクライマックスだった。

展覧会が終わりに近づくにつれ、真の目的感があった。統一されたショーのテーマが、普及した長期にわたるダムタイプの影響の陳列にまとめられていたのだ。この異なる領域を横断的に統合したグループは、80年代後期から90年代初頭、突然の劇的な変化と失望に直面する社会の中で、大きな生と死のテーマ、偏見、希望やアイデンティティを中心とする印象的な振り付けの演劇/ダンスパフォーマンスで、この世代のアーティスト達全てに、共通の記憶を植えつけた。物語は、1995年に象徴的な同姓愛者で、中心メンバーだった古橋悌二のエイズでの早世によって傷跡が残された。彼は、保守的な日本で容認と表現の形成に対する世代的な葛藤を擬人化していた。

この展覧会で投げかけられていた中心的な質問は彼の言葉だった。我々は、様々なダムタイプの主題への影響、ムード、美学に反映した、これらの後期の作品に導かれたのだ。最後の部屋は従って、珍しいダムタイプの80分のビデオ、「S/N」(パフォーマンスビデオのドキュメントビデオ,1995)の上映だった。これは今見ると、1990年代の作品のように見えるし、感じられる。個性に関する社会活動をまじめに受け入れ、ドライアイス、赤、黒、青、そしてスクリーンに点滅するスローガンなど、デビッド・リンチのような世界だ。しかし観客は、その吐き気を催すほど何度も繰り返されるむなしいダーウィンの生命への葛藤のイメージ、セクシュアリティやセックスワークについての残酷なまでに正直な議論、そしてヒューマニズムと国際化に対する感動的な最後の固執、といったこの早いペースのバラエティショーのようなものの虜にならざるを得ない。彼らのポイントは、新しい日本という面においては、変わらず適切なのだ。新しい鎖国の精神が広がるにつれ、このような態度は、実際、若者の間では、ナイーブで格好良くはなくなっている。

オープニングに伴う地域での話題性や4月上旬の六本木アートナイトのパフォーマンスに集まった圧倒的な大衆などから示唆されるに、森美術館は、いつもは洗練され、過度に巧みな美術館としての期待を困惑させ、進んで危険を冒したこの展覧会で信用性を少しは取り戻したかもしれない。だが、外国人客にすると、現代アートシーンの本格的なサンプリングをする中、未だ困惑させられているかもしれない。現在の国際、あるいはアジアすらの潮流に上手く当てはまるメッセージまたは明確にまとめられた宣言が容易に見つけられない上、展覧会が現在の日本についてどの位語っているのかわからないのだ。


Chim ↑ Pom

ADRIAN FAVELL
http://www.adrianfavell.com

みんなからのコメント

エイドリアンに感謝します ― いつものように表示に興味を起こさせている。
コメンター
Ginginho
2010/08/24 16:26

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