adrianのブログ

日本のコンテンポラリー・アート世界のレビューと反射

六本木クロッシングレヴュー


青山悟

レヴュー
六本木クロッシング2010展
芸術は可能か?-明日に挑む日本のアート-
森美術館 六本木ヒルズ森タワー53階
2010年3月20日-7月4日

日本は新たな鎖国の時代に後退したのだろうか。それは、アートライターのロジャー・マクドナルドといった日本に住むコメンテーター達の懸念だった。彼らは、日本の社会的、政治的風潮が、国を閉ざし外国との通信や文化交流を制限していた19世紀半ば初頭の心境に日本を連れ戻しているのではないか、と心配しているのだ。東京の森美術館において3年おきに開催される、日本最高の現代美術の回顧展の最新作に海外から訪れた人たちも同じように感じたかもしれない。海外のアートメディアからどうも敬遠されただけではなく、構想、カタログのエッセイ、展覧会にまつわる議論など、見たところ現代日本のアートシーン自体が自身との会話のみで満足しているようだ。執拗なまでのテーマは、2008年のリーマンショックの経済的余波で再び感じられた、日本が甘受したポスト90年代の衰退の疑念や不安である。そしてそれは、ゆっくりと回復しつつあった現代美術市場を再度大きく打ちのめしたのだ。若い世代の未だ溌剌とした創造力から勇気とインスピレーションをもらい、この展覧会は尋ねるのだ。このような文脈で芸術は可能か?そしてこれは我々の社会が自身を再定義しようとしていることについて何を意味しているのか? 

今までの六本木クロッシングは、単に様々なキュレーターたちの好みが反映された、明らかな地元のスター達と希望に満ちた無名の者達との混合コレクションだった。しかし2010年バージョンは、しっかりとコーディネートされたキュレーター達の議論や選考過程ではっきりと区別され、いつもの30-35人のアーティストに代わり、わずか20人/組の参加だった。従来のとおり、3人のキュレーターで構成された。近藤健一、ロンドンのYBA期に影響されたとても若い森美術館のアソシエイト・キュレーター。彼が窪田研二と木ノ下智恵子という、二人の独断的なインディペンデント・キュレーターを招いた。彼らは一風変わった経歴を持ち、社会派、行動派、東京以外(主に関西地方)の都市アート形態、そして特に、拠点を京都に構えたアーティストグループ「ダムタイプ」のレガシーに及ぶ興味を持っている。有名な日本のアートライターである松井みどりに紹介された概念「マイクロポップ」とは全く異なる何かを求める展覧会になるようこの3人は同調していた。この概念は、この島国の外で行われている数少ない最近の議論の一つである。言い換えれば、六本木クロッシング2010は、松井のキュレーションを特徴づける、しばしば未熟に見え、もろく、内省的、プライベートでそして儚いというアートの形態とは全く正反対である、外交的で、活気に満ち、感情的、そして公共・政治的な選択を紹介したのだ。

森美術館では、既にロビー正面で下品なアートグループChim ↑ Pomの展示物によって日本の健康状態が問われていた。それは、ブロンドで、頭が軽そうなファッションに身を包むアイドル役を四六時中演じ続けるなりきり女優のアート学生エリイちゃんによるビデオだった。ここで彼女は、東京の象徴的な場所をスクーターに乗って走り、カラスの剥製を手に、石原東京都知事を挑発し、空の大混乱を起こした様子を撮影されていた(Black of Death, 2007)。我々は、黒々としたカラスの群れを彼女が先導し、国会議事堂から渋谷の交差点を通り過ぎ、人のいない早朝の町を死と闇にはびこられたものに明け渡している様子を恐怖と娯楽を伴った感情で見た。そして、ギャラリーの入り口で、我々はわずかに汚れたように見える、さかさまの日本の国旗に出迎えられる(さかさまの日の丸, 2006)。それは、沖縄出身の若いアーティスト、照屋勇賢の静かで批判的な政治/環境懸念を伝えていた。彼のもっとも独創的な作品はマクドナルド、ヴィトン、エルメスなどの紙袋を切り抜き、樹木を組み立て、それを元の捨てられた袋の中に作ったりしたシリーズである。それは、消費社会の日本の支配的な形のいくつかである浪費や悪趣味さを指し示している(告知-森、2005)。この最初の部屋の強力な印象は明らかであり、当然のことながら照屋は、オーディエンス賞を獲得した。


照屋勇賢

展覧会の中を進むにつれ、インスタレーション、パフォーマンス、物語式の写真やビデオといった展示に重点を置いていることは明らかになった。それ自体は、世界の美術の点からは様式化されているように見えるかもしれない。そして中央の部屋に進むと、そこは騒々しい都市アートのモチーフ、グラフィティ、道端の喧嘩、巨大なスケートボードの滑走台であふれており、それらは陳腐にさえ見える危険性もある。しかし、グラフィティとおおざっぱに解釈されたヒップホップ文化は多様性や公共秩序に対して未だ極めて許容力のない社会ではかなり違った意味を持つ。そしてこれらは最近の若者文化の形式であり、西洋が執着しているかの有名なオタクサブカルチャー(漫画、アニメ、グッズ、カルトファッション等)より日本では一般的で重要なのだ。

中央ホールは宇治野の作品で占められていた。彼は、ここでの1990年代のネオポップアートの生きたリンクだ。彼は機知に富んだ才能を持ち、ヴィンテージのドメスティック・インダストリアル・マシーンでできた大規模なマッドサイエンティスト風のサウンド・スカルプチャーを使った、DJの音のパフォーマンスで有名だ。ターンテーブルとビニールのディスクに付いたプラグを引き金に、クリック音、モーター音そして機械のガラガラとした音は、捨てられて再結合したときのみ真の目的を見出せると言っているかのようだ(The Ballad of Extended Backyard,2010)。宇治野の騒々しく、カラフルなインスタレーションは、関西拠点の4人のダンスグループ、contact Gonzoのパフォーマンスのバックミュージックとして特に効果的だった。彼らの、一見乱暴なパンチ、キック、そして酔っ払いのプロレスのようなパフォーマンスは、信頼と友情の非常に優雅なバレイを作り上げている。

ここから後半は、少し年配で有力なアーティストを紹介していた。米田知子はいつものように秀でていた。彼女の展示スペースにはほとんど何も写っていないかのように見える写真のセットがあり、韓国の国防司令部だった廃屋の目に見えない歴史を伝えていた。実際の画家の展示がない中、青山悟の暗い部屋に浮かび上がった銀の糸の細かい刺繍は、労働としての美術の性質と彼が再現する現代メディアのイメージの重要性などについて、とても巧妙な疑問を投げかけていた。彼は展覧会で当然のMAM賞を受賞した。おそらく現在の日本のアーティストの中で一番注目されているのは、高嶺格だろう。彼は元ダムタイプで、彼の在日韓国人の女性との結婚をほろ苦い写真とテキストで紹介し、異文化の愛とコミュニケーション、在日が味わっている隠れたアパルトヘイトの苦しみを喚起している。次に、最後の部屋では、ここで一番有名なアーティストである森村泰昌による巨大なビデオの映写が見られた。1980年代にダムタイプのメンターだった彼は、現在、日本中でとてもよく見られる。彼は、非常に力強い新たな方向性を20世紀に起こった出来事や政界の人物を再現した彼の新しい作品に見つけた。ここでの、彼の精神分裂症風のチャーリー・チャップリンとヒットラーのパフォーマンスは面白く、感動的で不快でもあり、メインの展覧会の忘れられないクライマックスだった。

展覧会が終わりに近づくにつれ、真の目的感があった。統一されたショーのテーマが、普及した長期にわたるダムタイプの影響の陳列にまとめられていたのだ。この異なる領域を横断的に統合したグループは、80年代後期から90年代初頭、突然の劇的な変化と失望に直面する社会の中で、大きな生と死のテーマ、偏見、希望やアイデンティティを中心とする印象的な振り付けの演劇/ダンスパフォーマンスで、この世代のアーティスト達全てに、共通の記憶を植えつけた。物語は、1995年に象徴的な同姓愛者で、中心メンバーだった古橋悌二のエイズでの早世によって傷跡が残された。彼は、保守的な日本で容認と表現の形成に対する世代的な葛藤を擬人化していた。

この展覧会で投げかけられていた中心的な質問は彼の言葉だった。我々は、様々なダムタイプの主題への影響、ムード、美学に反映した、これらの後期の作品に導かれたのだ。最後の部屋は従って、珍しいダムタイプの80分のビデオ、「S/N」(パフォーマンスビデオのドキュメントビデオ,1995)の上映だった。これは今見ると、1990年代の作品のように見えるし、感じられる。個性に関する社会活動をまじめに受け入れ、ドライアイス、赤、黒、青、そしてスクリーンに点滅するスローガンなど、デビッド・リンチのような世界だ。しかし観客は、その吐き気を催すほど何度も繰り返されるむなしいダーウィンの生命への葛藤のイメージ、セクシュアリティやセックスワークについての残酷なまでに正直な議論、そしてヒューマニズムと国際化に対する感動的な最後の固執、といったこの早いペースのバラエティショーのようなものの虜にならざるを得ない。彼らのポイントは、新しい日本という面においては、変わらず適切なのだ。新しい鎖国の精神が広がるにつれ、このような態度は、実際、若者の間では、ナイーブで格好良くはなくなっている。

オープニングに伴う地域での話題性や4月上旬の六本木アートナイトのパフォーマンスに集まった圧倒的な大衆などから示唆されるに、森美術館は、いつもは洗練され、過度に巧みな美術館としての期待を困惑させ、進んで危険を冒したこの展覧会で信用性を少しは取り戻したかもしれない。だが、外国人客にすると、現代アートシーンの本格的なサンプリングをする中、未だ困惑させられているかもしれない。現在の国際、あるいはアジアすらの潮流に上手く当てはまるメッセージまたは明確にまとめられた宣言が容易に見つけられない上、展覧会が現在の日本についてどの位語っているのかわからないのだ。


Chim ↑ Pom

ADRIAN FAVELL
http://www.adrianfavell.com

SANAA in Copenhagen


The New Museum, New York (2007)

A good year for Kazuyo Sejima and Ryue Nishizawa (SANAA) continues with a prestigious show of the architect partnership's work at the Danish Architecture Centre in Copenhagen. Set in a stunning waterside location, the museum is the perfect context for their cool, minimalist designs, that are shown in a series of models and studies, with photographs by Walter Niedermayr. The show runs until Oct 1st.

http://english.dac.dk/visArtikel.uk.asp?artikelID=6265

ADRIAN FAVELL
http://www.adrianfavell.com

Keeping Tabs


Kei Takemura, A.N.'s Living Room, Premonition of an Earthquake, 2005 (detail)

Rachel Carvosso recently published this interview with me in Tokyo Art Beat about my current research in Japan for the book(s) I am writing about the Japanese contemporary art world since the 1990s. I also discuss two artists: fellow ART-it blogger Satoru Aoyama and Kei Takemura, whose work is pictured above. Please enjoy!

http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.en/2010/07/taking-a-flat-approach.html

ADRIAN FAVELL
http://www.adrianfavell.com

I Love You



I'm spending the summer months in Denmark, so there is not much to do for art except take in what is on at the local galleries. Aarhus’s AROS gallery is showing I Love You, a summer blockbuster show on the theme of love and sex in contemporary art. These big sampler shows are now becoming a staple fare of many museums in these hard times. Take a simple, titillating pop theme, with a sample of greatest hits works by big and obvious names; leave it on all summer for the crowds to come by. Contemporary art at its easiest, like a box of chocolates.

It is interesting as ever to see how Japanese art fits into the picture. The two choices are classic – and inevitable enough in this context of this theme, I suppose: Yoko Ono and Nobuyoshi Araki.

Ono's quiet and meditative A Key To Open A Faded Memory (1992) is a moving and timeless piece. An open white box with a glass key half submerged in a foam heart inside, number 26/40, the title hand written by her on the box lid. You can feel the emotion embodied in the work; the tears and fading heartbeats. Her style and themes very effectively predate the work of Sophie Calle, who is everywhere these days, and who here gets half a room to herself.

Araki, meanwhile, is counterpoised with Nan Goldin. Hot New Yorkers making out in colour versus elegiac black and white bondage photos from an underground Japan. These are mostly from the series Bondage (1997-2005), with one older work, a young girl, from the series Akt-Tokyo (1989). Araki crosses quite a few lines in these images, but the provocation is cleverly downplayed in this setting.

The Danish curators are looking for easy newspaper inches; this is not a country famous for its discretion about sex on display, and they are proud to be able to put on Jeff Koons sex sculptures, or the morose and perverse auto-analysis of Danish artist Michael Kvium, as good summer’s family entertainment. There are plenty of mildly interested Danish parents with young children wandering the curtained, shady rooms. AROS’s greatest moment historically in fact was its early solo patronage in the early 1990s of Koons’ scandalous Made in Heaven series.

Amidst all this gory sensation, the two chosen Japanese artists look almost restrained and elegantly dignified in comparison – the show also includes a variable set of works by Damien Hirst, Louis Bourgeois, Pipilotti Rist, Yue Minjun, even some Rodin and Picasso, as well as the exhibition’s brand image – Pierre et Gilles – and a coffin shaped pile of sweeties by Felix Gonzalez-Torres. On the whole, Just Love Me – the title of one of Tracey Emin’s famous neon works, also on show – might have been a more appropriate title. This is a show in the end more about gratification than empathy or sensitivity; but then one viewer’s kaerlighed (love) will always be another’s pornography.

ADRIAN FAVELL
http://www.adrianfavell.com

町田久美


手紙(2009年)

この、町田久美についてのエッセーは去年の夏に書いたものです。私は、彼女がコペンハーゲンに長期滞在していたときに会い、国際的に名を残す「ゼロ年代」のアーティストの一人だと思っています。今年の初頭に大阪で行われた「絵画の庭-ゼロ年代日本の地平から」展で、彼女の展示室は、この展覧会の傑出したハイライトのひとつでした。また、彼女は、来春ニューヨークで行われる、デイビッド・エリオットによる日本協会向けにセレクトされた、待望の「Bye Bye Kitty!!!」に出展予定です。彼女は、ニューヨーク近代美術館(MOMA)にコレクションがある、数少ない日本の最近の現代美術家の一人です。


町田久美

町田久美にとって良い年になった。1月に大阪の国立国際美術館でグループ展に参加し、少なくとももう一つ、近々ニューヨークで行われる大きな国際展に出展する。彼女は「美術手帖」や「ART-iT」(no.21で彼女の特集を組んでいる)でとりあげられる、ポスト・スーパーフラットの「ゼロ年代」の立役者として2000年代中期の新来アーティストの中でも卓越した存在だ。彼女の『ソドムの百二十日』の挿絵は、高橋氏の上野で開催されたネオテニー展のハイライトの一つであり、このコレクションの核とも言えよう。最近デンマークのルイジアナ美術館で行われたマンガ展に束芋、ヤノベケンジと共に出展した中でも、彼女の展示場は一番インパクトがあった。それは、彼女のお決まりの伝統的な和紙に墨で描かれた、不気味でミニマリスト的なクリーム色と黒の丸っぽい形の完全セットのように感じられた。かなりのコレクションがある高橋氏にだけでなく、彼女の作品は特にアジア市場や彼女が最初にブレイクしたドイツでもよく売れている。

これら全ては、東京の西側の中央線の彼女のアパート/スタジオからはるか離れた場所で今おこっているのだ。今まで約一年間、彼女は国費奨学金を手に、コペンハーゲンで訪問アーティストとして生活していた。東京のせわしないアートシーンから抜け出したかったのだ。コペンハーゲンでは、平和で適度な孤立を味わえた。ドイツのようであるが、アーティストの視点からすると少し静かで小さいといえる。彼女は、しばらくの間日本から離れることを考えている数多くいる若い進出の日本人アーティストの一人である。ドイツやデンマークでは、アーティスト用の施設は良く、快適に過ごせる。そしてアートは公共事業などで熱心に取り扱われている。彼らは、若いアジアの外国人達をヨーロッパの公共資金で呼び寄せ、生活させることを厭わない。この制度がなければ、今の奈良美智や束芋、塩田千春はいなかっただろう。デンマークで起こりうるもっとも危険なことといえば、自転車に轢かれることぐらいだろう。日本の領事館ですら小さく、親しみのあるオフィスで在外日本人達の為に尽力してくれる。

町田はいつも旅をしていた。大学卒業後、アジアを重点的にまわり、インドとチベットに強い繋がりをもった。とはいえ、ヨーロッパは彼女にとって新天地であり、パリ、ロンドン、ベニスのような古い町や文化の魅力に捕らわれた。もちろん、それはいつも放浪アーティストにとって容易いことではなかった。なぜ、多くの若い日本人クリエイターが、それを彼らのフラストレーションの解決法と考えるのか不思議に思うだろう。孤立は、またむしろ孤独な状態になりうる。デンマーク人達は親しみやすい反面、色々な場所に招待してくれるようになるまで時間がかかるのだ。町田はこの年、思ったよりあまり生産的ではなかったと認めた。彼女が必要とする特別な画材(日本の特別な和紙と筆や、ドイツのスタビロ製の鉛筆など)を手に入れるのは容易ではないのだ。何度も引越しをし、物を失くし、知らない土地、文化に慣れるのは大変である。すべてを持って、外国に移り住む事の利点は常に複雑なのだ。

デンマークでは「アジア」のアートがとても評価されているものの、無知度もかなり高い。すばらしい施設に敬意のこもった対応だが、作品はしばしば狭い範囲の中でしか理解されない。これはもちろん「マンガ展」でも見られた。束芋と町田は、彼らの作品はマンガとは(明らかに)関係ないことを主張したのだが、その甲斐もなく、両方ポップカルチャーのカテゴリーにぞんざいにまとめいれられた事に不快感を示していた。未だに(女性の作家である場合は特に)「カワイイイイイ」は、ヨーロッパで日本の現代アートを評価する上で最も重要な要素なのである。この二人は、デンマーク人のキュレーターによって、手塚治虫の漫画と北斎のスケッチとの真偽のはっきりしない歴史的つながりの真ん中に位置づけられており、日本に偏在するポップカルチャーの天才のさらなる証拠として紹介されていた。しかし、町田の作品は少々不気味で済まされる物ではなく、到底ポップでもなく、簡単に消化できるようなものでもない。技巧、詳細、すべての線の精密さを生で描いているのを見るのが一番よい。この作業に「フラット」的なものはなにもない。画材もまた、限りなく重要ポイントである。顔料、金属箔のちいさなかけら、最低限に抑えられた色、彼女が紙を四方に張りつけて作るキャンバスのような立体のブロックなど。それらは、間違った動きや下手な取り扱いで繊細な吹きガラスのように粉々になったり、一滴のインクで一瞬にして台無しになる様な作品にみえる。この繊細さと比べるとポップアートの多くは、かなり雑にみえる。

町田は、インスピレーションを求めてデンマークに来たわけではない。彼女の描く形は、どちらかと言えば、ほんの少しあるかないかの内容を伴って完全なる夢の世界から生まれてくる。ただ、彼女は新しく描いている絵のモデルにアジア人ではなく、白人を使う実験を始めたと言っていた。彼女の東京のギャラリーである、西村画廊は立派な古参のギャラリストで、現代アートの主流からはずれ、35年間手堅い商売をしてきた。西村氏は彼女の作品をとても気にかけてくれるが、同時に彼女を東京の主な繋がりから幾分孤立させている。彼女の名を知らしめたのは、2006年に東京都現代美術館で行われたネオ日本画に触発された作品を集めた「No Border」展だった。松井冬子や天明屋尚もここで注目を浴びた。私の手元にあるカタログは、自分では、上手いこと安く手に入れたと思っていたのだが、この二人のページが抜き取られていることに気づいて面食らった。しかし、ポップ/デザインの境界で、この二人の作品は、かなり明らかにイラストレーター的である。町田は日本画との関連や、その他のアーティスト達との関係付けに苛立ちを感じていた。彼女の仕事に伝統主義者的なところはたいしてなく、何年も前に多摩美で受けた訓練とも決別していた。「No Border」展は、一連の日本の若手アーティスト達が、国家の政治的、軍事的過去をほじくり返すことなく、異なった精神的な場所を探求できるような「日本回帰」という観念をもって、何かをしていることを示したかったのかもしれない。このような表現に町田を位置づけることは難しい。彼女は9月に日本に戻る予定であるが、2度目のヨーロッパ長期滞在のための更なる奨学金を得られることを望んでいる。

ADRIAN FAVELL
http://www.adrianfavell.com

Mizuma artist Aiko Miyanaga à Paris


Aristocratic Pierrot (2007)

The Maison de la Culture du Japon du Paris does not often present Japanese contemporary art, so it was a pleasure to find the spectacular waterside location being used intelligently to present two emergent women artists from Japan, in Paris on residencies currently: Aiko Miyanaga and Naoko Sekine. I also enjoyed this as an antidote to the much hyped Beat Kitano show at Fondation Cartier across town (see my blog of 10/05/15 ). Doubles Lumières was an atmospheric exhibition, much closer in spirit to current trends among youngerJapanese contemporary artists born in the 1970s.

Aiko Miyanaga is an unusual Mizuma artist, whose works are quiet, meditative and eschew obvious Japoniste references. She works making small sculptures from the fragile white substance napthaline, which slowly decomposes over time in the air. The small objects – copies of old shoes, keys, a dress – have a certain timeless mystery, even as they degrade into crystals and fragments in the glass boxes. In other works, she uses salt drawn up from rivers or the sea, including one work based on salt from the Sumida River in Tokyo. The gallery had built a box like room, into which curious visitors climbed to find an installation of empty old wooden furniture found at Parisian flea markets, and parts of a bedroom that evoked half forgotten memories of an unnamed past.

The accompanying artist Naoko Sekine has been getting more of the local attention – her extremely fine abstract landscapes, etched with tiny strokes of pencil, then smudged or rubbed out, fitting well with conceptions of meticulous, small scale Japanese aesthetics, and also very popular as an activity for children.

Doubles Lumières, until June 26th, Maison de la Culture du Japon, Quai Branly, Paris

http://www.mcjp.fr/francais/expositions/doubles-lumieres-131/doubles-lumieres



SOU Phase [detail] (2008)

ADRIAN FAVELL
http://www.adrianfavell.com

ローライフ:物質世界の本物のアート



まもなく、中村政人のインタビューと3331アーツ千代田のオープニングについての記事を掲載する予定です。これは、私が昨年東京の下町のアートについて書いたブログです(初出:2009年10月19日)。どうぞお楽しみください。


ローライフ:物質世界の本物のアート

今日、ロンドンのテートモダンで村上隆の最新作を楽しめるだろう。それは、プラスティックとアクリルで作られており、ブランド化と現代美術を包括している。東京の森美術館では、アイ・ウェイウェイ(艾未未)の文化遺物や高価な材料が贅沢かつ無駄に作り変えられた作品を見る事ができる。その美術品は、現代世界のキュレーター論議を推し量るために作られたようだ。どちらも、現在のアートの意義として、ホワイトキューブ内の作品の価値を推し量る事に取り付かれている現代アートの形である。しかし、日本のほかの場所では、様子が異なる別のものが「物質世界のアート」のようなものに取って代わっている。それは、限られた空間と財政上の制約の下で働いているアーティスト達が、(村上とウェイウェイは別だが)日常的に直面しなくてはいけない環境、社会問題により同調したものなのである。

私は以前のブログ(2010-4-2)で、北川フラムのインタビューを元に越後妻有、大地の芸術祭について詳しく書いた。

http://www.art-it.asia/u/rhqiun/mMOpuoDiw8FjhvgcIVWf/?lang=ja

私は日本の現代アートに何故興味があるのか聞かれるたびに、今日の日本がとてもおもしろいからだと答える。我々の将来へのガイドなのである。日本は、経済と人口減少、また、「バブル」の発展と成長の幻想は、全く明るい将来をもたらさないという、衝撃的な現実に折り合いをつけなくてはいけなくなった、限りない余暇と裕福さをもつ都市社会の最も顕著な例である。これは、多くの退廃的な「オタク・アート」を生み出した。そして、今やより希望に満ちた「持続可能なアート」を必要としている。そしてそれは、越後で豊富に見られ(必ずしも説得力があるとは限らないのだが)、全国各地でのアートプロジェクトにも見られる。この「持続可能なアート」は大都市でも起こっている。芸大の学生による画廊外での作品展示が最新作である「閾ーTHRESHOLD 」というタイトルで上野タウンアートミュージアムで行われている。最近では、このようなストリートワークやユニークな展示スペースが上野周辺で色々みられる。

このイベントでの私のコンタクトは、ニューヨーク出身のアーティスト/作家である、ジェームス・ジャックであった。彼は、予定滞在期間を延長して、籍を置く芸大に関係する様々な感銘深いアートプロジェクトに参加し、より深くかかわっている。彼は、「白い箱の外側」で「現地の人々、社会的建造物、そして時間の余裕にとても密接した」プロジェクトに関わることについて、熱く語ってくれた。そして、どんなにニューヨークシティからしばらく離れることがあらゆる点で良いかも付け加えた。
これらが、彼らが現在活動中のリンクである。

http://jamesjack.org

東京にいた時、私は表参道に住んでいた。(これは長い話なのだ!)しかし、私の心はいつも町の北側にあった。荒川、町谷、墨田、千住、やなせん、または私がたまに短期滞在する湯島の薄汚い裏通りだったりする。それは、古いビルや、電線、電灯、都会のおしゃれな場所とはかけ離れた日常生活に密接した場所が持つ「本物の東京」の味である。もちろん、これは、「下町」のロマンであり、それは「ダウンタウン」などとよく間違った訳され方をされているが、どちらかといえば「下」それか「下の」町なのである。古い喫茶店や木造の銭湯が1つずつ姿を消し、レトロなダイニングバーがつぶれ、一般の東京人達の生活の一部が垣間見れる中、パチンコパーラーの騒音、見苦しい娯楽エリア、そして特徴のない開発に対抗し、古い東京の良い所をいくつか残している。

これらの場所は、今や、丁寧で必然的な下落の典型的な雰囲気をもってして、すたれ、使い古されたように見える、日本の絶え間ない戦後都市開発の時期の名残なのだ。だが、このあたりは少ない収入で露命をつないでいる貧困層や若いアーティスト志望には良い場所なのだろう。生活し働くのにうってつけの場所。これは、きらびやかな六本木ヒルズの「ネオ東京」と正反対であり、同じように越後の理想は、森ビルの哲学と正反対なのだ。

ここに長いアートの関係が続いている。この関係とは、もちろん中村政人である。彼は1990年代の後半から上野、秋葉原、神田の地味な場所をパブリックアートの「介入」と、コマンドNの活動や芸大での講義に繋げた実験的な「持続可能なアート」のための
製作の舞台に使っている。パブリックアートは、今やきらびやかな建物の前にある高価な企業の彫刻と同義語になっている。しかしこれが、東京のアートシーンで新鮮だった時期があるのだ。中村と他のアーティスト達が初めて都市開発の「狭間」を使う提案をした時である。それは、新しい建物の間であったり、使われていない工場や老朽化した住宅などを利用して作られる違った種類のアートであり、過疎の村で廃屋や旧学校の校舎を改築して利用した、越後妻有の反都市戦術にとても似通っている。「持続可能なアート」の最新バージョンを見る為には町の北部へ行けばいいのだ。または、ジャックが現在参加している同じスピリットを持つ別の集団プロジェクトを群馬の外れに見に行くとよい。

http://www.kiryusaien.com/

1990年代初頭に「中村と村上」として一緒にすごした時以来、中村と村上がとった平行ではあるのだが、異なる軌跡に、私は常に興味があった。もちろん、彼らは、華々しい大森やギンブラート時代において中枢的な「輝ける双子」だった。この2人は、この時期の並外れた独創的な連鎖からでてきた「有望な若者」のなかでも最も「有望」だったのだ。あの時、この古い友情に何が起こったのだろうか。今は、2人にあまり共通点はないように見える。

http://www.art-it.asia/u/rhqiun/nUDm1uf2Vh3RNTKQrGqe/

中村の現在までの最新かつ最大のベンチャーは、来年初めに改築された旧練成中学校でオープンする3331アーツ千代田アートセンターの総括ディレクターとなることである。ここは私が時に家と呼ぶ、上野の南側の閑静な場所と同じ通りにある。旧中学校は2008年に「101東京」の打ち上げで使われたので(上の写真)、知っている人も多いだろう。また、ここは、使い古され、安っぽい60年代の公共建造物であるが、将来的に、再想像、再修復そして再発明の持続可能なアート(そしておそらく商業的な持続可能なアート)の為に見事で新しい大規模な空間を提供するだろう。まさに一度は、今や減りゆく都市の子供達を育てるために建てられた建物にふさわしい。偉大な芸術はプラスチックの大きく、大変高価なものであるとは限らないことをこれらのプロジェクトは教えてくれている。

ADRIAN FAVELL
http://www.adrianfavell.com

Roppongi Crossing 2010


Teruya Yuken, Notice-Forest, paper bag, glue, 7 x 3 x 11"

Hello.

I have just published this short review of Roppongi Crossing 2010 online in Art Forum ("Critics' Picks"). どうぞお楽しみください。

http://artforum.com/picks/section=world&mode=past#picks25623

ADRIAN FAVELL
http://www.adrianfavell.com

THE ECHO & その批評



1年半と長い時間を費やしたが、THE ECHOのカタログが先日出版され、私はそれを嬉しい気持ちで手にした。THE ECHO は2008年8月に若い日本人アーティスト達の主催で横浜のZAIMにて開催された。岡田聡氏によって出版されたそのカタログは、展覧会と同じようにエレガントで洗練された出来栄えである。私もそこに、『ゴールドラッシュ後における日本の新たなポストバブル芸術とその重要性』という、このブログ内でも読めるエッセーを執筆した。

http://www.art-it.asia/u/rhqiun/hM5OPpsLUrWje0vGDwo4/?lang=ja [日本]

私は、東京アート界のこの展覧会に対する様々なレヴューや反応について話し合いたいと思っていた。美術手帖 (2008年11月、no. 915) に掲載された主なレヴューは東京都現代美術館の学芸員である薮前知子によるものだった。私はミヅマアートギャラリーのO JUN展のオープニングで彼女に会っていた。薮前は、アーティスト達が野心的なアイデアとコンセプトで展覧会をブランド化することに不本意な事と驚くほど「穏当」とした場の雰囲気が「平板」な印象を与えていた事が、彼女が感じた論点に繋がっている事を指摘した。薮前のレヴューは親切で均衡が取れているが、展覧会についての疑念を残した。私が話をした豊田市美術館と国立国際美術館の学芸員達も同じように懐疑的だった。

ライター/キュレーターの工藤キキは、私と話している時もっとオープンに「つまらない」展覧会と評してくれた。おもしろいアートについての話をまとめた彼女の著書『Post no future: ポスト・ノー・フューチャー』は今年出版されたが、見ての通り彼女は、日本の90年代のポップアートの遺物を好むようだ。これはTHE ECHOが対峙する世代なのだ。彼らは、間違いなくムードも内容もとても異質である。

その中でも一番無遠慮な批評が清水穣だった。清水は写真についての著作でより良く知られているが、批評家として攻撃的な態度でも有名である。日本の現代美術の将来についてのエッセーの中で(美術手帖、2009年3月、no.919)、THE ECHOでのショーの「ポスト・ゼロ年代」について、彼のお気に入りの若手アーティスト達を紹介する為の切り口としてネガティブなコメントを残している。そして、THE ECHOのアーティスト達21名は、彼らの多様性にもかかわらず、一様に「ナルシシスティックなダサさ」、中堅作家なのに未だ「若手」になりすましている、そして作品の解説を観客に押し付けて概念的なガイドを怠ったと書き叩かれた。彼はこれを「日常」と「無意味」の罠と呼んでいる。これは美術手帖の同じ巻内の特集で、同じ若手アーティストの多くが現代アートの主役たちとしてとりあげられていたという事実にもかかわらずだ。

それでは、才能あふれ、組織的にも野心的な鬼頭健吾、磯邊一郎、名和晃平を「係長」レベルだと評する事は、公平な事だろうか。彼らのネットワークがこの展覧会をまとめたのだ。また、著しい個性で方法論的に革新的なビジョンを持った大野智史、青山悟、竹村京を「既視感満載」と評する事も。私はそうは思わない。いつも当世風の泉太郎だけが、彼のさげすみをまぬがれた。このような総括的な批評は、空虚なレトリック、批評家の役割を正当化するための著名なゲームとしてしか読み取れない。自分のお気に入りの1,2名を売り込む為に全ての現世代を掃き捨てる。批評家が、誰が誰かを決定する架空のランキングの一部として。しかし、彼のその他の場所での、田中功起や金氏徹平といったTHE ECHOに参加していてもおかしくないがしなかった他の作家に対する支持は虚偽で薄っぺらく見える。これらのアーティストは,何といっても、他の人たちと非常に多くの類似点、繋がり、相似点がある。清水はガラスの家に石を投げるべきではなかったのだ。

私がアーティストの名和晃平とこの反応について話したとき、彼は寛大だった。アーティストにとっては、自己組織化の重要な学習プロセスだったのだ。彼らの代理の画廊やキュレーターにまかせていたら絶対にひとつの場所で一緒に選ばれなかったであろうグループをまとめ、コネクションを作るのに良い機会だったのである。このグループをまとめたネットワーク効果が、実際の所コンセプトだった。青山悟に紹介されたアイディアである、波紋が電子画面に広がるように。明らかに、清水はこれを理解することができなかったようだ。

「イコール」(= は)の概念である、グループ内のヒエラルキーとコミュニケーションに対して協調的で率直な態度は、また作品と表面の新たな才能を高める助けとなった。THE ECHO展は、確かに、例えば大野智史や大庭大介に訪れた非常に良い年にプラスの影響を与え、田幡浩一、増田佳江そして政田武史の注目度も上がった。それは、個人が参加したグループショーというよりかは、グループが一緒に作り上げた展覧会であり、彼らは似たような社会的、世代的な条件に直面し、限られた展示場、そして相互接続する必要性があった事を認識したのだ。

キュレーター達もまた、アーティストが展覧会を組織するという発想を嫌った事は明らかである。THE ECHOは、彼らを無駄な存在であるという気持ちにさせ、彼らが書くアートの世界が時にどれほど空虚で不必要になり得るかを示したのだ。美術手帖の先の特集に執筆している椹木野衣と松井みどりのように、清水の批評は不必要な芸術論にあふれ、ケージとデュシャン、ハート&ネグリとドゥルーズといった言い古された西欧の哲学的、審美的なアイコンを飛ばしている。宗教的なモチーフで個人の好みやヒエラルキーを正当化するように。このような文章に対して言える最も親切なことは、それは大抵不明瞭で理解しがたいという事だ。対照的に、薮前は、経験に富んだキュレーターのように日本美術史の目で書いていた。我々は、THE ECHOが歴史的な一幕だったのかどうかはわからないが、この点においては彼女は正しかった。一方、工藤は、DIY ポップスタイルであり、彼女が言うには、現在の主な美術批評家/理論家ではない、より根拠付けされアーティストに関連した90年代の西原みんのような作家に影響を受けている。これは新鮮なスタイルであり、インターネットスタイルのコミュニケーションと似ている。アーティストが自分で展覧会を開く事が出来、誰もがブログで好きな事が言える時、キュレーターの優勢さが試され、そして美術批評家の伝統的な形態は絶滅品種なのだ。

清水のレヴューで一番あきれた箇所は、画廊外でした展覧会を「保守的な」従来の画廊内個展から一味も違えない「政治的鈍感」とする主張だ。私もアーティスト達が、皆で何を仕上げるべきかを見る為によれよれの産業装飾が施されたZAIMに入って行った時、一緒にいたのだ。彼らは場所代を払わなければいけないこと、多くの規制に直面したことに対して、嬉しく思ってはいなかったのだが、設置過程は劇的なトランスフォメーションだった。開催される頃には、彼らはその不可能なほどにみすぼらしかった場所をクールで雰囲気のある哀愁的な場所へと作り変えたのだった。そこは、アーティスト達と部屋が釣り合いが取れるように完璧なほど調和していた。彼らは難しい事をとても簡単な事のように見せたのだ。写真を見直してみると、ちかちかする蛍光灯に汚れたカーペット、割れた窓ガラスを名状しがたい背景とした、精巧な再生芸術、これは「ホワイト・キューブ」の展覧会ではありえない事がわかる。むしろ、それは、2002年に行われた佐賀町食糧ビルディングの有名な「エモーショナル・サイト」展のように、東京・横浜の風景から消えゆく別の都市アートスペースにとって最後の芸術的な生命の息吹だった。

THE ECHOは言いたいことを気品をもって言ったのだ。我々はここにいる。日本の今日の現代美術に興味がないキュレーター達にトリエンナーレから締め出されても我々は、今横浜にいるのだ。それは静かに自信を持った宣言であり、清水が言うように傲慢でもナルシシスティックでもなかった。清水と違い、彼らは怒鳴ることも無遠慮になる必要もなかったのだ。


ADRIAN FAVELL
http://www.adrianfavell.com

Beat Kitano à Paris



Want to see the hottest new contemporary artist from Japan – as far as art loving Parisians are concerned? Look no further than Fondation Cartier’s massive, all summer long retrospective by major Japanese pop artist... Takeshi “Beat” Kitano. Um... Surely some mistake. Iz zees not taking ze pees?

Alas, not. One of Europe’s premier contemporary art museums has indeed shown its appreciation and understanding for Japanese contemporary art by cashing in on a six month long exhibition of the famous stand up comic and filmmaker’s zany plastic installations, childish “superflat” paintings, and stand up TV video gags, in a laughing and laughable show called “Gosse de peinture” (a kid of painting).



http://www.guardian.co.uk/artanddesign/2010/mar/15/takeshi-kitano-interview

The promotion of Kitano fits in a contemporary global trend in which celebrities who do a bit of painting or art dabbling as a hobby get to fill the white cubes or steel and glass temples with their off-duty moments of inspiration. The museums get to pocket the results: huge crowds and rapturous media attention. These celebrity artists range from the surprisingly good – Bob Dylan and Paul McCartney – to those who truly stink – Anthony (Hannibal Lector) Hopkins and Ronnie (Rolling Stones) Wood. Kitano is somewhere near the latter pole – and he knows it – but this is not going to deter the massive influx of Japanese tourists, and an unending queue of bourgeois Parisian families trying to find something with which to entertain their bored, spoiled children.

Deeper and darker critics of this trend might want to suggest that the terrorist take over of respectable art institutions by ego-maniac celebrities only points to a kind of Nietzschean transvaluation of all values, cyncially appropriate to a postmodern age in which millions of dollars are spent on a eight foot plastic doll or an inflatable puppy. The emergence of “Beat” Kitano as a major art figure is a perfect post-Warhol, “pop life” irony, something that would no doubt delight another artist whose big shows have also come to resemble children’s adventure playgrounds, Takashi Murakami.

But then, the relation between Takeshi and Takashi is one of the most interesting sub-texts of this fishy Parisian show. The cynical, Murakami-esque feel of the exhibition is no accident. Murakami first introduced Kitano to Fondation Cartier with his Vacances d’été show in 2002. The two have since become a firm art-culture-axis, with Murakami’s regular appearances on Kitano’s “Anyone can be Picasso” art talent show, that is but a trashier version of Murakami’s semi-serious Geisai operation, and shares the same philosophy. And Kitano’s show is due to end on September 10th, a hors d’oeuvre for Murakami’s take over of the Palais de Versailles on September 12th. The Versailles show, in the famous rococo palace, will be the peak of his career so far, following the massive success there of Jeff Koons in 2008—although apparently Murakami is being asked to cut down on the “Dirty Jeff” style installations – big plastic breasts, otaku onanism, and the like – so expect to see lots and lots of happy flowers, dinosaurs and smily DOBs.

Now, I don’t know much about the relation between TK and TM, but it is not difficult to imagine Kitano as a kind of sensei for the younger Murakami. So much of Murakami’s operation these days seems to be taking moves out of the Kitano playbook. Kitano was a foul mouthed stand up comic who vaunted the fact he came from the lowest of the low shitamachi, Kita-senju, and whose performances reflected the underground popular culture of the streets around him. This translated into an insatiable hunger for success, and for revenge on the dominant mainstream culture that had excluded him. For this read, Murakami’s poor Saitama, taxi-driver dad origins, and his appropriation of Tokyo trash pop culture to take revenge on the mainstream Tokyo art world. Kitano flirts with underworld connections, then takes his stylised image of street violence and Japanese trash, to sell as a filmaker to gullible Western audiences. For this read, Superflat and Little Boy, shiny J-pop culture packaged with an edge of the violent and the obscene. But TK, like TM, also plays the line between high/low culture, tossing off the occasional film like Dolls that sells a pretentious version of traditional Japanese culture to delighted neo-Japoniste critics in the West. For this read, Murakami’s nihonga and Buddhist affectations, and the legion of Western theorists and curators who take his ideas seriously. Then Kitano goes home to the rapturous popular acclaim of having become famous in the West. Ditto Murakami.

Watching Kitano’s hysterical “Owarai Ultra Quiz/World Great TV”, where desperate salary men are humiliated in a series of near death experiences, and Kitano appears in a string of ever more absurd latex costumes, trashing the studio or attacking his guests, you can at least see where some of the basic Kaikai Kiki/Geisai ideas are coming from—especially that silly flower ball costume Murakami put on for “Pop Life” at the Tate Modern.

Do the French get the joke that is being played on them? Mais non. On adore le Japon ici. It’s Anime, Manga, Moe and Kawaiiiiii all the way, here. They cannot tell the difference between a Kitano and a Murakami, and that is the point. This is not so much lost in translation, as drowning in it. Still, it will not do the Murakami bandwagon any harm. Fondation Cartier, however, might be thinking twice about its own reputation in all this. One thing is for sure. Kitano will be laughing his poker-faced, hardman face, all the way from Boulevard Raspail back to Adachi-ku. And it is not hard to see that the combined effects of these two big shows in Paris will set back the cause of Japanese contemporary art in Europe about 20 years... Although that is perhaps the point, for people who wish that we could be forever stuck in 1992/3.



ADRIAN FAVELL
http://www.adrianfavell.com

1 2 3 4 5 6 7 8 次ページ


プロフィール

adrian

カレンダー

2010/09

8月 < > 10月

S M T W T F S
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

最近のエントリー

最近のコメント

10/08/24 16:26
Ginginho
六本木クロッシングレヴ...
10/08/13 22:53
Mario A / 亜 真里男
SANAA in Copenhagen
10/07/19 22:29
Motus Fort
Roppongi Crossing 2010
10/05/19 12:43
Ginginho
Beat Kitano à Paris
10/05/06 23:25
Owl
Asada Crossing
10/05/06 21:00
Owl
Art Fair Galapagos
10/05/06 08:20
Owl
Ikeda in London
10/04/14 10:51
Mario A / 亜 真里男
Nakamura to Murakami
10/03/25 01:57
Mario A / 亜 真里男
PoNJA-GenKon
10/03/14 16:03
Owl
Ryu Itadani

ヒット数

  • 本日: 37 hits
  • 累計: 3947 hits
  • ※過去30日の累計を
    表示いたします。

RSS

rss1.0

rss2.0

QRコード


Powered by Ga-RSS