adrianのブログ

チェックと日本の現代美術界についての感想

曽根裕と西原みん:ロサンゼルス物語

2010年3月7日


3月より、私の選りすぐりの過去のブログ記事をここART-iTで日本語で紹介することになりました。去年のブログから、私が厳選し面白いと思うトピックスを日・英、両言語で発表します。また、今月は「1990年代からの日本の現代美術と社会」について私が書いている「新書」スタイルの本からも抜粋した箇所を日本語で発表していきますので、乞うご期待!

今回始めるにあたって第一回目は、2009年の私のよき日々について書いたブログです。アーティスト、曽根裕とアートライターの妻、西原みんのロサンゼルスでのインタビューをベースにした、「1990年代初期の日本の現代ポップアートの黄金期」(初出2009年12月22日)についてです。どうぞお楽しみください。

曽根裕と西原みん:ロサンゼルス物語

 ロスに住んでいない者にはわからないだろう。ニューヨーク、パリ、東京、あるいはサンフランシスコといった都市を期待してロスにやってくると、驚いてがっかりするかもしれないことを。街の中心部や、ここがロスといえる場所、またパッケージ旅行として、名所全てをうまく組み込むことが出来ないのだ。日本人アーティストの曽根裕は、青々とした緑の中に設置された白大理石のセットでロスの栄光ともいえるそれをうまく表現している(画像参照。上は10/405で、下はMOCA LAに展示された10/100。番号はもちろん高速道路の号線名)。曽根は、妻の西原みん(彼女は文筆家で90年代初期に東京ポップアート全盛期のちょっとした伝説だった)と共にロサンゼルスに住み、活動の拠点としている。それはある晴れた日のこと、私は西原をインタビューするために、South Pasadenaにある彼らの小さくて可愛い1920年代のバンガローに向かっていた。


昔住んでいたLAの家。今はもうない。

 レンタカーを停めながら、物思いにふけっていた。ここは私が昔住んでいた通りと似ている。親しみのある小さな家、まばらに生い茂った木、そして少し寂びれた感じで貧富の差や人種が入り混じって住んでいる通り。都会で田舎、ロスの一番の魅力だ。戸口で笑みを浮かべながら待っていた西原みんは、私を中に招き入れてくれた。家の中は創造性あふれるカオスだった。テレビゲームに夢中になっている10代の2人の息子達、小さな犬と少なくとも3匹の猫、コレクターズ向けのおもちゃ、書籍、そこらじゅうに散らばるこまごまとした物、古い木製の床、そして塗装された小さな部屋が目に飛び込んできた。40代半ばの西原は、原宿にいるティーンエイジャーのような格好をしていた。彼女のゴシックな頭蓋骨のハンドバックがかっこよかった!私は曽根のスタジオになっている外のガレージに案内してもらった。曽根は間もなく中国で制作される、大理石を使った大きな花の彫刻に取りかかっていた。彼は、ロスの自治体が最初にそれを欲しがっていたのだが、後から拒否された話をしてくれた。Pasadena通りの角に彼の巨大な植物の作品の1つがある。

 曽根裕は、好感がもてる人柄でエネルギーに満ち溢れている。大きな笑顔にポニーテールにした長い黒髪、今日はインディアンのようにも見えるけどシャネルで女装した姿も容易に想像できる、とにかくおもしろい個性の持ち主なのだ。私達はすぐに東京のアート界の裏話をし始めた。だが、今日は、西原と話すためにここにきたのだった。ということで、私は西原と近所の喫茶店に行く事にした。私は80年代後期から90年代初期にかけての東京での学生時代や大森の夜の話を聞きたかったのだ。今回、私に西原を紹介してくれたポール・シーメルを筆頭に多くの人が、西原は日本の現代美術の黄金期の到来を共にした知識人であり、キーパーソンの一人であると認識している。もしかすると西原こそが唯一のキーパーソンかもしれない。90年代初期に訪れたこの黄金期は、約20年経った現在もテート・モダンの壁や、サザビーズのショールームといった、有名な西洋の美術施設に残っている。

 後に登場する椹木野衣や松井みどりも、この期間に起こった事柄に関するアートの歴史的な話に終始する傾向がある。しかし、全てのネオポップアーティスト達の近くにいた文筆家の西原みんも、おそらくポップ、日本、国家主義、セクシュアリティー、そして東京といった大きな思想が混在するカクテルが生まれた背後にいただろう。そしてそれは、後に「スーパーフラット」や「リトルボーイ」といったパッケージになり、「ネオ東京」に期待する西欧人向けの世界ツアーが行われたのだ。現在西原は、アートに関してではないが文筆業を続け、東京から遠く離れたロスで静かに暮らしながら、家庭を守っている。

 1986年、彼らは東京芸大の学生だった。村上隆、西原みん、小山登美夫、長谷川祐子、中村政人などを含む人達だ。野心的な学生達は皆、概念、思想、日本の芸術のための戦略などを探し求めたが「空虚」を感じていた。
「私達が集まった時、6ヶ月間を共にして、あちこちをドライブしたり、オープニングに行ったり、プランや戦略など、とにかく色んな事を話し合っていました。」
 日本のその当時のアートは、他の国と同じように、たいていがP.C. (政治的に正しい表現)であり、それはつまらない感じの「政治的」だった。彼らは「政治的」ではあったのだが、残留するアメリカ支配に対する不満以外に
「抗議する対象がなかったのです。」
 彼らは、ポストモダンアートの空虚だが完璧な生産体系を創り出した、ジェフ・クーンズを敬愛した。その他の森村泰昌や宮島達男といった、当時国際舞台に踊り出た日本の芸術家達は、どういうわけか比較できるようなコンセプトをもっていなかった。これは、アートの典型的な「日本の」問題だった。彼らは、彼らより少し前のアーティスト達に影響されていたのである。太郎千恵蔵は、既にニューヨークでのコンタクト先を確保し、日本のポップアートを販売する方法を見出していた。椿昇と中原浩大は、素晴らしい構想を練っていた。ヤノベケンジという大阪からの競争相手もいた。村上隆は、社会批判性の高いアートに従事し、彼のニューポップ構想を作り上げていた。この時は、未だ低迷時代のアーティストとしてニューヨークでの苦境を味わっていなかった(西原は1994年に彼を訪ねている)。ニューヨークに行く前の村上は、「おたく」を彼の作品と結びつけるというアイデアを拒否していたのだ。

 西原は暇があれば書き続けていた。当時の日本は、雑誌の黄金期であった。彼女は、アートのマニフェスト、批評、特集記事、そしてアート作品のためのプロジェクトなどを書いていた。長谷川祐子や宮島達男と一緒に、雑誌『アトリエ』に寄稿もした。東京の郊外出身の男性群と違い、彼女は下町である墨田区出身である。彼女の家族は、東京の古い下町文化に染まっていたのだが、彼女は限りなく変化を続ける新しい都市で育った。西原は、あちこちを旅し、アートについて書いた。1988年、彼女は画期的だったヴェネチア・ビエンナーレを訪れ、世界が日本の現代美術に眼を向けた瞬間に立ち合った。また、ドクメンタ8も見にいった。3,4年間にわたって、彼らグループは最初のショーの準備をしていた。この頃に小沢剛と会田誠が、現れた。少し若い彼らは、独自のアイデアにあふれていた。中村と小沢は、60年代の前衛芸術グループである、ハイレッド・センターを彷彿させるかのようなザ・ギンブラートを計画したりした。ザ・ギンブラートでは、西原自身が参加アーティストで、銀座の路上に詩を書き、巡察に来た警察から逃げ回ったりした。村上は、日本の50、60年代や前衛芸術の伝統にはあまり興味を示さなかった。彼は、何か別のものを求めていたのだ。1992年、彼らは皆韓国へ行き、中村は西原の友人の韓国人女性と結婚した。

 村上隆と西原みんは、よく一緒に旅をした。1992年、彼らはドクメンタ9を訪れ、スコアカードを使って全てに評価をつけていた。彼らは、自分達の美術雑誌を作ろうとしており、村上はそのタイトルを『アートセックス』にするように主張していた。これが後に、かの有名な『RADIUM EGG』となった。短期的ではあったが、レントゲン藝術研究所から出た新鋭アーティストの特集や、椹木、長谷川、そして西原のアイデアを前面にだした雑誌である。いつも楽観的だった彼らは、常に展覧会のスペースを探し、90年代初期の突然のポストバブルの時期に、若い日本人であることに対して「空虚」も感じていたのだ。従来の銀座の貸し画廊から締め出された、悪名高い恵比寿のP-House(「暗黒街」スタイルの場所の象徴的な画廊の1つ)でパフォーマンスが行われたりした。椹木野衣や銀座の古美術商の息子である池内務は、いつも身近にいたのだ。彼らは大森にレントゲンスペースをオープンするように池内を説得した。

 おそらく、更に重要なのは、彼らが国際的な美術界の人物達と直接話をした最初の世代であったという事実だ。以前なら、南條史生といった「仲介人」が、この役を独り占めしていたのだ。小山登美夫は、直接他の国際的なギャラリスト達と交流するのに野心的かつ行動的だった。西原みんは、ジェイ・ジョプリング(White Cubeのオーナーであり、ダミアン・ハーストの相棒)と話した時のことを語ってくれた。それは、1992年に別の一匹狼的アートディーラーである白石正美が総合プロデュースしたNICAF のアートフェアであった。西原は、80年代後半に若い日本人アーティストが、ゴールドスミスの大学生達と同じように「Freeze」のシーンについて知っているとは思わなかった。しかし、そこにはYBA達との不気味なほどの類似点がみられ、ジョプリングはすぐに共通点を認識した。

 それは全て遠い昔のことだった。でも、この昔話に興奮を覚えるだろう。西原と別れた村上は、その後1994年のニューヨークでの苦境を乗り越え、彼の野心をDOB君やその他で全うした。長谷川祐子は、日本で最も重要な美術館のキュレーターとなり、小山登美夫は、最も重要なギャラリストとなった。そして中村政人は、最も影響力のある美術教育者の一人となった。彼らは皆、日本のポストバブル期の美術史の中に名を馳せ、今現在でも活躍している。
「しばらくの間は、私達のグループは結束力が強かったんです。でも皆別々の道を進んだんです。」
 そして、西原みんはそれを後にしてきた。

 1999年、曽根裕と西原みんは日本で生まれた息子達と共にロスに引っ越してきた。曽根はポール・シーメルに、有名なUCLAの美術部門で働くようヘッドハントされたのだ。彼らはロスに落ち着き、特に曽根は彼の巨大で無垢な、だが遊び心のある彫刻が、世紀末にあちこちで見られるくらい成功したのである。

 何故、彼女は現在のアート界にもっと関与していないのだろうか。
「私は、何人もの若手アーティスト達に失望させられたんです。」
 彼女は言った。村上と彼女の世代は、どれほど困難であっても自分自身のアートの世界を作り出せることを証明した。
「私達は、自分達のやり方があったんです。私達はシステムを作り、アート、キュレーター、執筆業でお金を稼ぐことが出来ると指し示しました。」
 それは、正当な理由での黄金期だったのだ。そして、完全なる社会現象だった。彼らは、個々が素晴らしい才能を持った結束力のあるグループであり、新たなポップ現象を創り出したのだ。社会学者は「創造性」については、時にキュレーターがカタログに書くもの以上によく知っている。それは、それだけで起こるのではなく、また「天才」がいるから起こるのではない。

 私は、丁度アリソン・ジンジェラス著の典型的なナイーブでキュレータースタイルの本を読んだばかりだ。それはロンドンのテートモダンで行われた村上隆の「ポップ・ライフ」ショーについて書かれていて、彼の国際的な天才聖人伝記的なものだった。彼女は、日本について書く時、ロラン・バルトをやたらと引用していたが、バルトが『作者の死』という本を書いたことは、頭から抜けていたようだ。彼女の本には、社会的な歴史や、アート界の背景がなく、また、村上がアーティストとして成長してきた社会環境や彼自身の社会ネットワークとその相互関与も記述されていない。彼女の論点は、客観的視点の欠如によってかなり妥協されている。ジンジェラスは実際、ピノー・コレクションのディレクターとして高価格な購入品の管理を担当しており、またキュレーターとして、それらについて書いているのだ。2008年にピノーが1500万ドルも散財し、ばかげた買い物となり得る「マイ・ロンサム・カウボーイ」もその中に含まれている。しかし、西原みんの話は、私達に「子育ては村中みんなでするもの」の格言を思い出させてくれる。それはつまり1つの「スーパーフラット」を作り出すのに、美術学校やアーティストグループ、文筆家、友人、アート愛好者などが必要、と言ったところだろうか。

 私達が戻ってきた時に曽根裕も台所にやってきた。私はまだテイクアウトしたコーヒーを飲んでいた。曽根は、東京のアート界や、常に辛口の長谷川祐子との苦闘を笑って話した。彼は、2010年の終わりに何箇所かで個展を行う事が決まっていた。東京都現代美術館、東京オペラシティアートギャラリー(曽根のリクエストでART-iTのブロガーである遠藤水城がキュレーターを務める)そしておそらくもう1つ別の場所での展覧会だ。同時に別の会場で展覧会を開催するのはちょっと多すぎるのだが、大きな話題になるだろう、と彼は言った。彼はまた、私に日本で起こっている事柄について、キュレーターと話すことを重要視しすぎないように、と忠告してくれた。
「路上観察が一番おもしろいよ。」
 彼らは、息子の1人がどうやら漫画を出版しているらしいと話していたりするのだ。

 もう行かなくては。
「でも、彼女と話して正解だったよ。」
 と曽根は笑いながら大きな目をして言った。
「あの当時、彼女は本当にアーティストを作りだし、見出していたんだ。彼女が全てを可能にしたんだよ。」
 それは素晴らしい話だった。



エイドリアン ファベル
ADRIAN FAVELL
http://www.adrianfavell.com

みんなからのコメント

トラックバック

この記事のトラックバックURL

louboutin outlet
Yutaka Sone & Min Nishihara: LA Story [trans]
投稿元 : louboutin outlet / 2013年05月17日21:52

プロフィール

adrian

カレンダー

2017/11

10月 < > 12月

S M T W T F S
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

最近のエントリー

17/02/26 20:29
Radicalism in the Wilderness
16/06/02 14:50
Kyun-Chome on a LTERNATE f UTURES
16/01/04 02:56
Sheep
15/02/07 23:39
Raiji Kuroda on aLTERNATE fUTURES
14/09/15 16:37
100 More Momoshimas
14/08/04 03:27
Islands For Life
14/07/03 04:18
aLTERNATE fUTURES...... My New Blog
14/01/26 11:24
Horses
13/12/09 02:00
Yukinori Yanagi
13/09/25 21:28
Theory of Tempelhof

最近のコメント

12/10/20 08:41
shotaro
10年代の終戦
12/09/25 15:05
Mario A / 亜 真里男
Documenta 13
12/02/18 22:13
eitoeiko
東京の10日 (1+2)
11/08/03 15:52
ozgaka
田中 敦子
11/03/19 19:48
天野あゆ子
曽根裕
10/09/15 11:07
Mario A / 亜 真里男
松井えり菜
10/08/24 16:26
Ginginho
六本木クロッシングレヴ...
10/07/19 22:29
Motus Fort
Roppongi Crossing 2010
10/05/19 12:43
Ginginho
Beat Kitano à Paris
10/05/06 23:25
Owl
Asada Crossing

ヒット数

  • 本日: 144 hits
  • 累計: 4031 hits
  • ※過去30日の累計を
    表示いたします。

QRコード