PARASOPHIA オープンリサーチプログラム03 ドミニク・ゴンザレス=フォルステル「M.2062 (Scarlett)」(2)

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All images: Dominique Gonzalez-Foerster, M.2062 (Scarlett) September 6, 2013. Parasophia: Kyoto International Festival of Contemporary Culture 2015 Open Research Program. Photo: Tadashi Hayashi. Courtesy: Parasophia Office © the artist.

 

「Fiddle-dee-dee」、「Taratata」。これは、スカーレットが好きな言葉です。映画の中で何度もこの言葉を耳にします。彼女がちょっとイライラすると、こうやって言うのです。

最初、私はとても可笑しいと思いました。でも、その後、彼女の性格を研究しようと思って映画を見始めると、その言葉は私がまったく好きではない何かを露にしているような気がしました。

この夏の間ずっと、私は彼女という人物に没頭しようとしました。スカーレット・オハラという役柄だけでなく、ヴィヴィアン・リーが演じるスカーレット・オハラという人物に。そこには女優と役柄との間の緊張感が含まれています。そこで、例えばヴィヴィアン・リーが出演する映画を全て見て、各映画の中に彼女の中にスカーレット的な部分を見つけることが出来るかなどということをためし、そして、その二人が共通して持っているものが何かを理解しようとしました。結果、私はヴィヴィアン・リー自身の中に、スカーレット的な部分があるのだと思っています。それは、どこかウィットに富んでいて、クレイジーで、意地悪な部分であり、攻撃的な態度で、彼女が出演しているどの映画にも見られるものです。今回、私は初めて役柄のために女優自身について研究しました。これまで、私は演じるというアイディアを研究するということを考えたことすらありませんでした。なぜなら私が私の作品を通じて行なおうとしていることは、演技といったものとはまったく関係ないからです。どちらかというと、こうした役柄を研究することは、トランス状態の一種とも言えるもので、物事を読みながらインプットしていくことによってわかることなのです。これは私が、恐れからではなく多くの感情と共によってしか出来ないことであり、言ってみれば、部屋を理解するように役柄を理解しようと思ったのです。

 

私は1年ほど前から、ロンドンで『M.2062』という長期のオペラプロジェクトをスタートさせました。その最初の役は、私自身の50年後というもので、もうすでに上演されたことになるオペラについて語るという設定で、未来の作品の計画を話しました。私がこの役柄のアイディアを開始してから、何か調査すべきものがあると感じたのです。ずいぶん前、部屋の作品の制作時に部屋を通じて触れた何かがありました。私が見せた部屋のほとんどは伝記的でした。例えば、守谷のアーカスで見せた作品は鈴木清順やファスビンダーに捧げたアパートでした。これらの部屋の多くが、だれも中にいないことを除けば、非常に強い物語性や伝記的な内容でした。登場人物や伝記といった部分は完全に空間によって定義されていたのです。部屋の色、部屋の中にある物体、そしてイメージも。実際、私は人物と同化するという考え方にはまったく反対です。私にとって、主要で、最も重要な人物は見ている人であり、観客です。私はそこに、役者はもちろん、何の存在も欲しくなかったのです。そのときは、映画の作品ひとつに関しても、全役、全俳優を消し去って、背景だけ、そして空の部屋だけを保持したいと思っていました。昔、伝記を勉強するのがとても楽しくて、そこから見出される人物に魅了されたものですが、部屋の作品を作ったときは、そうした伝記というものを完全に避けて、空間が人物そのものになり得ると理解しようとしたのです。そして現在、私は全く正反対の感情を持っています。それは人物が空間や部屋、精神的な場所になるのだという事です。非常に不思議な感情です。人物——架空の登場人物もしくは映画からの影響に関係した人物、たとえば俳優が物語につよく結びついていてある種混在した人物——になりきることによって急に現れた感情で、部屋というものについてのまったく新しい論理に入り込んだ感覚で、今回は空間によって展開するものではなく、その存在によって展開するものでした。私は現在、オペラの可能性を探っていますが、その多くの登場人物は例えばフィツカラルド、エドガー・アラン・ポーやローラ・モンテスといった19世紀の人物であり、20世紀からは緑色の髪の少年や、作家のJ.G.バラードといった人物で、これら全員が、彼ら自身の音楽との関係、物語との関係やその他多くのものとの関係を通して戦ったり、議論をしたり、オペラの可能性について解釈したりします。これが、私がなんとかして少しずつ築き上げようとしていることなのです。

今年の1月に私はルートヴィヒ2世、正確に言えばヘルムート・バーガーが演じているルートヴィヒ2世になるべくアムステルダムに行きました。それが私にとっての最初の主要なキャラクターでした。ここで、私は完全に登場人物と同化するということを理解したのです。それは、私が以前同化のための媒介としての俳優の理想像を受け入れなかった時には想像できなかったことです。「嵐が丘」の中で、主人公であるキャシーが、「私はヒースクリフ」と叫ぶシーン、つまり彼女は完全な愛、完全な理解、完全な共感、完全な共有——ヒースクリフと空間、精神的な空間の共有を果たしているというシーンがあります。それが、私が登場人物の探求によって到達しようとしている空間であり、私は音楽もしくは音楽と映画の間にある関係がこの新しい空間をもたらす唯一の方法だと感じています。

 



 

スカーレットにとってなぜタラがそれほどまで重要な場所かを理解しようとする過程で、——余談ですがタラ(Tara)という地名にはアート(art)の文字が入っているのが面白いですね——私は何度も、例えば私が本当に落ち込んでいるときに、タラに戻りたいということを想像したことがありました。タラとは一体、何なのでしょうか。私はタラは、そこが何かを理解するための唯一の場所であり、またある時点では唯一の可能性でもあるような、アートのための表現のひとつであり、この場所、このタラ、このアートの瞬間の近くに来ることが、私が最も結びついているスカーレットの一部なのです。残りの部分、例えば彼女が奴隷制にまったく反対していなかったという事実や、彼女の非常に攻撃的な態度など、多くの面で私がまったく共感できない事実があることなどを、徐々に認識していきました。でも、ヴィヴィアン・リーというフィルターを通すと、話は違います。ヴィヴィアン・リーは、スカーレットからある種の距離をもたらしているのです。リーが年をとってから演じた全ての登場人物を見ると、彼女は、役柄を通じて、年をとるということがどういうことであるか——難しいことではあるけれど——理解しようとしていたように見えます。しかし、ヴィヴィアンとスカーレットが出会うとき、あり得ないオペラのために出来うる最も素晴らしいキャラクターが生まれるのだと思います。現在、私の思いは未だにスカーレットとともにあり、だからこそ『めまい』の音楽が非常に重要なのです。なぜなら、『めまい』は、役柄を作り上げることと欲望の力についての映画だからです。ときどき、『めまい』の中で起こる出来事、つまり彼が彼女をある方法で手に入れたいと思う願いを映し出す方法——それを「『めまい』のプロセス」と呼ぶことが出来るでしょう——が、私がこの「部屋」を無理矢理作り出すことによっていくつかの部分を探ろうとする際に、私自身が行なっていることと同じではないかと感じることがあります。無理矢理作り出し、探求し、見て、多重人格のシーンがなにか非常に普通で、どうしても必要なことだと理解するプロセスです。

 

 

19世紀、多くの女性アーティストが自分自身を写真に撮りました。自分たちのことをアーティストと呼ぶことはなかったかもしれませんが、衣装を身につけることによって個性を探っていったのです。ルイーザ・カザーティやラ・カスティリオーヌなどがそうであり、その後も、シンディ・シャーマン、そして今晩、ありがたくも私にこの美しいドレスを貸してくれた森村泰昌などがいます。それは、人物を絵に描いたり、彫刻にしたり、視覚的に表象するのではなく、内側から探求する可能性のような、私が美術史におけるひとつの文脈であると信じている、心理的な「部屋」の追求を通して行なうプロセスの一部であるのです。そこには内側から美術を感じ、さらには美術になりたいという強い欲求や希望があるのです。これはフランスの詩人、ランボーによって感じられた強い欲求です。彼が砂漠にいたとき、すでに詩からは完全に離れていて、アフリカをもう何年も旅していたときに最後に望んだことのひとつです。彼はだれかが、「あなたは素晴らしい詩を書いたのに、今はまったく関係ないことをしている」というようなことを言われるのを非常に嫌いました。しかしながら、彼が友人に宛てた手紙では、信じられない望みを吐露しています。その表現は私に言わせれば革命的とも言える詩のひとつの形でした。彼は1897年の万国博覧会を見ていたのですが、その博覧会のすべてに完全に魅せられていて、従って彼の最後の望みとは、彼自身を、フランスの小さな街であるシャルルヴィルとは正反対の場所に住むという体験、アデンやハラールといった場所に住むという体験や、アフリカ横断の体験が彼にどのような影響を与えたかを展示したいというものでした。この革命的な考えと直感のなかで、詩や書くことを超えた何かに向けた可能性を持っていました。彼は、詩において言語や地理の限界を探っていただけではなく、繰り返しや閉じた形式に反対の立場を取っているということが興味深く、同時期に他の作家は、当時起こっていた美術、特に印象派について書くことにとても長けていたときに、彼は店のインテリアや印刷物を誰が賞賛するかについてだけ気にかけていたことを思うと非常に面白いです。彼はすでにデュシャン的なアートに対する考えを、デュシャンに数十年先駆けて持っていました。ゾラやマラルメのような他の作家が彼らの時代の素晴らしいアーティストたちを描いているのに、ランボーはどこか遠くに自分の執筆するものを押しやってしまっていたのです。なので、彼が自分を世に見せたいと思っていたことを発見してもそれほどの驚きはありませんでした。私が思うに、これは19世紀末のラ・カスティリオーヌと共有する部分であり、彼女が多くのドレスを着て様々な人物になりきっている自分自身の姿を写真に撮らせていたとき、——これを「アート」と呼んでいたとは限らないのですが——こうしたそこにすでに存在しない、もしくは現実ではないけれども違う形でなにかが「起こっている」部屋や空間を生み出し、探求する可能性があるという直感を通して行なったようなことと共通しているのだと思います。

 

 


 

ドミニク・ゴンザレス=フォルステル|Dominique Gonzalez-Foerster

1965年ストラスブール生まれ。現在はパリとリオデジャネイロを拠点とする。言語から生まれるイメージとフィクションの複雑な関係を、さまざまなメディアや形式を使いながら考察するインスタレーションや映像作品で知られる。ドクメンタ11(2002)、ミュンスター彫刻プロジェクト(2007)、第53回ヴェネツィア・ビエンナーレ(2009)をはじめ、数多くの企画展、国際展に参加。カスティーリャ・レオン現代美術館(2008)やテート・モダン(2008)、ディア芸術財団(2009)などで個展。近年は「M.2062」シリーズをはじめとするパフォーマンスも世界各地で発表している。日本国内でも第1回横浜ビエンナーレ(2001)や京都国立近代美術館での企画展『映画をめぐる美術—マルセル・ブロータースから始める』(2013)に参加、昨年4月にはギャラリー小柳にて『BELLE COMME LE JOUR』(トリスタン・ベラとの共作)を開催している。

http://www.dgf5.com/

 

 




PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015
2015年3月7日(土)–5月10日(日)
京都市美術館、京都府京都文化博物館ほか府・市関連施設など
http://www.parasophia.jp

 

 


 

ART iT Archive
ドミニク・ゴンザレス=フォルステル「エンリーケ・ビラ=マタスのための6つの部屋」(2010年10月)

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