『MU〔無〕—ペドロ・コスタ&ルイ・シャフェス』連続講演会 第1回アーティストトーク

原美術館では『MU〔無〕—ペドロ・コスタ&ルイ・シャフェス』(2012年12月7日-2013年3月10日)を開催している。会期中には、ペドロ・コスタとルイ・シャフェスによるアーティストトークをはじめ、杉田敦、諏訪敦彦、港千尋、瀬下直樹を講師に、ふたりの作品を含むポルトガルの現代美術、映画、建築に関する連続講演会が行なわれた。

ここでは、2012年12月8日に行なわれたペドロ・コスタとルイ・シャフェスのアーティストトークを同館の協力のもと、ART iTが編集し、掲載する。

 


ペドロ・コスタ「火の娘たち」2012年 © Pedro Costa. ルイ・シャフェス「私が震えるのを見よ」2005年 所蔵:セラルヴェス美術館 © Rui Chafes. 撮影:木奥惠三

 

『MU〔無〕—ペドロ・コスタ&ルイ・シャフェス』連続講演会 第1回アーティストトーク
ペドロ コスタ & ルイ シャフェス(聞き手:安田篤生)

 

安田篤生(以下、AY) 本展は2005年にポルトガルのセラルヴェス美術館で開かれた二人展『OUT![FORA!]』を発展させた展覧会です。企画のはじまりは4年程前になり、その後、ちょうど一年前にふたりがこの空間を下見して、展示プランを練り上げていきました。本展は『OUT!』に出品されていた作品と、本展のための新作によって構成されています。原美術館はもともと1938年に個人邸宅として建てられ、再利用する形で1979年に開館し、かつて人が生活していた空間、そのような記憶を持つ空間であるということが、ふたりが展示プランを考えるにあたり、興味を持ったところではないかと理解しています。

そこで、ペドロさんへの記憶に関する質問から始めたいと思いますが、映画というジャンルにとって、記憶はいろんな意味で重要なキーワードだと感じています。今回はこれまで発表してきた『溶岩の家』(1995)、『ヴァンダの部屋』(2000)、『コロッサル・ユース』(2006)の映像を、映画館とは異なる形で見せていますよね。『溶岩の家』はかつてポルトガル領だった西アフリカのカーボヴェルデという火山群島で撮影が行われ、『ヴァンダの部屋』や『コロッサル・ユース』は、カーボヴェルデを含むポルトガルの旧植民地からの移民が生活している地区を取り上げています。こうした映画を製作するにあたり、登場人物の記憶、あるいは彼らが住んでいる場所の記憶に向かい合うという姿勢が根底にあるのではないかと推測しています。

ペドロ・コスタ(以下、PC) まず、私は展覧会のためにあえて撮影することはありません。また、一般的な映画製作とも異なり、定期的にその場所へ足を運び、登場人物と会い、話し、撮影して、その後の進め方を決めていきます。そのようにして撮影した映像を、映画や今回のような展覧会で使用します。これらの映像は私自身のアーカイブであると同時に、彼らのアーカイブでもあります。今回の映像素材は『溶岩の家』、『ヴァンダの部屋』、『コロッサル・ユース』を基にしていますが、ギャラリー3のものだけは異なり、そこでは友人のヴェントゥーラを取り上げた、現在完成間近の長編映画の素材を使用しています。

すべては記憶であり、すべては記憶でない。これは非常に広漠とした主題です。展覧会を作り上げていく過程、初めて原美術館を訪れたときに、ここは美術館ではなく家だと感じました。その家の中に私の映像とルイの彫刻が共存している。ルイの彫刻には時間を引き延ばし、遅延させる効果があり、私の映像の音には時間をなぞり、より直接的、即時的な効果があります。部屋から部屋へと音が流れ、上の階から流れてきた音が下の階で聴こえたり、またその逆もあったり、どこか幽霊屋敷みたいですね。さまざまな残像が家に残っているように、映像にもさまざまなものが映っていて、それらを関連づけることができます。何と何を繋げるのか。映画とは編集なのです。各部屋はシークエンスや物語の断片のようなもので、面白いのはある部屋で見たものを別の部屋で思い出して関連づけることです。つまり、鑑賞者自身がそれぞれ編集を行なうのです。編集は、映画制作における基本的要素のひとつで、あるものと別のものを繋ぐことで第三のものを創り出す。この第三のものは不可視で、謎めいているのです。

 

AY ギャラリー3の映像では、ヴェントゥーラがとても印象的な歌を歌っています。あの歌の内容と背景について教えてもらえますか。

PC 内容はとてもシンプルなもので、移民の歌です。カーボヴェルデは火山島でして、そこでは生活が立ち行かず、かつての宗主国であるポルトガルにたくさんの人々が移住しています。あの歌はカーボヴェルデの土地への郷愁や移住先のポルトガルでの過酷な生活を歌っています。ある意味ではウディ・ガスリーやボブ・ディランのような抵抗の歌とも言えるかもしれません。彼は美しい歌声を持ち、カーボヴェルデ式のバイオリンも弾くことができました。ヴェントゥーラはかつて建設業に携わっていましたが、25歳という若さで足場から落下して怪我を負い、仕事からの引退を余儀なくされました。彼は数多くの問題を抱えた落伍者ですが、同時に非常に強い人物で、私たちのヒーローでした。脆さと強さを併せ持つ彼に魅力を感じていたのでしょう。彼とは長年いっしょに仕事をしています。

 

AY 展示空間に関連した質問になりますが、映画館で上映するという形式は、19世紀の終わりにフランスのリュミエール兄弟が考案したと言われています。DVDをはじめ、さまざまな鑑賞方法が増えた21世紀現在も、映画は画面がひとつで、はじまりと終わりを持つという形式を保っています。一方、美術館での映像作品のインスタレーションは、そのような約束から自由で、デジタルの映像を使うことで、ループも非常に簡単になりました。今回の展示でも非常に多彩なプレゼンテーションを行なっていますが、その意図はどんなところにありますか。

PC 訂正しておきたいのですが、リュミエール兄弟が映画を作ってからしばらくの間、興行的になった後でも、映画館のような形ではなく、ギャラリーやサーカスのテントのようなところで上映していました。映画が最も商業的に発達したアメリカ合衆国だけでなく、ポルトガルや日本でもそうだと思いますが、50年代後半から60年代初頭まで、映画館は小休止を挟んで、常に映画を流しっぱなしにしていました。観客は映画の途中でも好きなときに入って、好きなときに出て行く。こうした形式を今でも保っているのはポルノ映画館くらいです。かつてはあらゆる映画がそうでしたし、現在でもそうあるべきだと思います。

今回の展示に関して、特別な意図はありません。ただ、ルイにとって、また鑑賞者にとっての素敵なギフトになればいいと考えていました。ギャラリー1の映像もそのほかの映像も、もはやそのようには存在していない映画のパラノーマル・アクティビティのようなものです。

 




:ペドロ・コスタ「アルト・クテロ」2012年 © Pedro Costa. :「カザル・ダ・ボバ地区」2005年 所蔵:セラルヴェス美術館. © Pedro Costa Courtesy of the artist.

 

AY ルイ・シャフェスさんの彫刻はいわゆる具象や抽象という見方で理解しようとしても上手くいかないでしょう。「なにかのように見えるけれども、それそのものではない」という点が興味深いです。すべての作品が幻想や想像を掻き立て、鑑賞者の記憶を刺激します。ルイさんの作品において、記憶とはどのような意味を持っているのでしょうか。

ルイ・シャフェス(以下、RC) 先にペドロが触れた時間もまた、記憶とともに重要です。映画も彫刻も音楽も時間芸術であり、時間を扱っている。もちろん時間は記憶と関係しているので、ひとつの答えとしては、作品は記憶を呼び覚ますために存在しているということです。「彫刻はそこに存在し、人々を癒す。しかし、それが済んだらいらなくなってしまうものだ」と、かつてフランスの友人が言っていました。私には自分の作品が具象的なものなのか、抽象的なものなのかわかりませんし、作品が意図するものもわかりません。制作から一年以上経ても、作品が制作者である私の理解に抗うというのは悪くないと思います。しかし、ひとつ確かなことは、私の彫刻は鑑賞者であるあなたが完成させるということです。作品は鑑賞者が見ることで存在するのです。また、作品は自分以外のだれかのために作られるのだと信じています。円環が閉じるところにアート作品は存在する。鑑賞者は私とは異なる彼自身の記憶や物語を付与して作品を完成させるのです。

 

AY 鉄を素材としていること、あまり色がないことがあなたの彫刻の特徴として挙げられると思います。色を使わないのはなぜでしょうか。もちろん黒もまた色であると言えますが、鉄を黒く塗り、素材の表面を覆い隠すことで鉄の重さの印象が薄れていく、もしくは一見して鉃だとはわからないようになっています。

また、とてもボリュームのある塊にも関わらず、割と細めの脚が付いていたり、少し浮いているように見えたり、天井からぶら下がっていたりする。これによって、作品が張り付いている壁やぶら下がっている天井といった空間と作品とがより一体化している印象があります。作品とその設置空間との関係はどのように考えていますか。

RC まず、色についてですが、あれは黒ではなく影の色です。私の作品は存在ではなく、不在を扱っています。矛盾しているかもしれませんが、私は彫刻家でありながら物体を信じていません。私が信じているのはエネルギーで、物体は魂があるかないか、その物体がエネルギーの触媒となりうるかどうかという点でしか考えていません。存在ではなく不在を扱うことで、不可能なものを扱う状況へと入っていくのです。影の色を使って、物体を覆い、そのものの存在を忘れさせようとしています。万が一、派手な色を使えば、そのものの存在がはっきりとしてしまうでしょう。この不在の色を用いることで、彫刻は影、煙、弱いエネルギーのようになります。興味深いことに、北斎も黒にはさまざまな黒があると述べています。
リチャード・セラも単一素材で彫刻を制作していますが、彼の場合は存在、重さ、大きさ、空間におけるものの存在を扱っており、同じ鉄や鋼鉄を使いながらも、私の場合は真逆で、存在ではなく不在を扱っています。いくつかの例外を除き、ほとんどの作品は床に触れることなく、浮遊していると言えます。

 

AY 美術館で展示される作品を光を当てないと見えないものと、作品自体が光を放つ、光を素材としているものの二種類に分けるとすれば、映像作品は光を放つ、というよりも、映像はプロジェクターから出てくる光そのものです。ギャラリー1、2では、同一空間にふたりの作品が並び、光がなければ見えない鉄の彫刻をプロジェクターの光で見せるという構成になっています。このアイディアはどのように生まれたのでしょうか。

RC 展示構成として、ギャラリー1は人々が他者と出会う場所となっています。「私が震えるのを見よ」(2005)は、教会の告解室や刑務所の面会室をイメージしたもので、もちろんガラスではなく鉄製ですが、面会を不可能にするバリアの役割を果たしています。この空間は、コミュニケーションの難しさ、人々が出会うことが不可能な空間となっています。作品同士でさえも、具体的な形では彫刻も映像も関係してはいません。

ギャラリー2では、ヴェントゥーラが時間を潰している映像から光が射し、別の方向からはサンルームからの光が射しています。そして、その中間には重厚な鉄のドアが宙に浮いている。ドアだけが宙に浮き、残りの家の部分を失っている。重要なのは、映像が鑑賞者の眼を彫刻に引き付けるということで、彼らは映画からの光を通して彫刻を見ているのです。

 




左上:ルイ・シャフェス「香り(眩惑的にして微かな) III」2012年. 右上: 「私は寒い」2005年 © Rui Chafes Courtesy of the artist. :ルイ・シャフェス「虚無より軽く」2012年 © Rui Chafes

 

AY 最後にふたりに言葉について、具体的には作品のタイトルについてお聞きします。ペドロさんは全部で4点ある作品のうち、ふたつの作品には「カザル・ダ・ボバ地区」や「アルト・クテロ」といった地名をタイトルに付け、残りのふたつには暗示的、象徴的なタイトルを付けています。ギャラリー1の作品には「火の娘たち」。これはフランスの小説家ジェラール・ド・ネルヴァルの短篇集のタイトルですよね。また、ギャラリー5の作品には「少年という男、少女という女」というタイトルが付いています。

一方でルイさんの彫刻には「わたしが震えるのを見よ」のように、非常に詩的なタイトルが付いています。また、自身の作品にとって言語、言葉も重要な要素なのだとおっしゃっていましたね。

PC 私にとってタイトルは重要ではありません。「アルト・クテロ」も文字通りカーボヴェルデにある村の名前で、「火の娘たち」は好きな詩人の作品であり、私の映像の場合の火とは火山のことで、そこの女性たちを扱っているから、内容そのままですね。タイトルが映画の存在する場所を映し出すのならすばらしいと思いますが、私は実際の土地や物事が起き、人々が暮らす場所をタイトルに選ぶのが好きです。

映画は映画館で上映されるときのような力を、美術館やギャラリーでは持ち得ません。脱構築という言葉は嫌いですが、このような場所では映画は脱構築されてしまいます。たくさんのものが映画から失われ、映画館での上映のように機能することはできません。このような状況では、イメージの内側へ入っていくことはできないのです。私の映像は控えめなものとなり、十分な光量も持たず、存在するためにはルイの彫刻のエネルギーを必要とします。彼の作品の不在という存在が、私の映像に光を当ててくれるのです。

RC 私の場合、タイトルは非常に重要です。鉄、火、言葉の三つを私は扱っているのです。共同体において、言葉は非常に大切なものです。聖書に「はじめに言葉ありき」とありますが、言葉には詩的な強さ、また人を生かしも殺しもする力があります。また、「百聞は一見にしかず」とも言いますが、本当は逆で、ひとつの言葉が数千ものイメージに優るのかもしれません。とはいえ、タイトルが鑑賞者の見ているものの説明になってしまうのはどうでしょうか。タイトルは彼らになんらかの詩的な方向性を与えるものであるべきです。最終的に、アートにとって最も重要なのは詩的な強さであり、映画であれ、彫刻であれ、絵画であれ、詩的な力を持っているべきでしょう。

 


『MU〔無〕—ペドロ・コスタ&ルイ・シャフェス』連続講演会 第1回アーティストトーク

 

MU〔無〕—ペドロ・コスタ&ルイ・シャフェス
会期:2012年12月7日(金)–2013年3月10日(日)
会場:原美術館
http://www.haramuseum.or.jp/

Lecture@Museumシリーズは、美術館で行われた講演を、関係者の協力のもと、ART iTが記録、編集したものを掲載しています。

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