『ス・ドホ in between』 関連プログラム「《ブループリント》の下で」トークシリーズ

広島市現代美術館では『ス・ドホ in between』(2012年8月4日〜10月21日)を開催している。トークシリーズ『《ブループリント》の下で』は同展関連企画として、同時期に開催されたコレクション展に特別展示として出品された「ブループリント」(2010年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展にてス・ドホが発表)のもとで行なわれた。

ここでは、ゲストにス・ドホを招き同館学芸員の神谷幸江が聞き手を務めた8月4日の回を同館の協力のもと、ART iTが編集し、掲載している。

 


「ブループリント」2010年 広島市現代美術館での展示. Courtesy of the artist and Lehmann Maupin Gallery, NewYork © Do Ho Suh

 

『ス・ドホ in between』 関連プログラム【《ブループリント》の下で】トークシリーズ
ス・ドホ(聞き手:神谷幸江)

 

神谷幸江(以下、YK) 本日は作品のみならず、ス・ドホさんの活動や関心について伺いたいと思います。ここに展示されている「ブループリント」は、2010年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展で初めて展示された作品です。現在展示されているのは、ドホさんのニューヨークのアパートのファサードの実寸大のものです。今回はこの作品の下で実現する特別なトークの機会となりましたので、まずはこの作品についてお聞きしたいと思います。まず、この作品にも見られるように、建築的な要素はドホさんの作品の中で非常に重要な位置を占めていますが、どこから建築への興味は湧いてきたのでしょうか。

ス・ドホ(以下、DHS) 韓国からアメリカ合衆国への移動という私の個人的な歴史がきっかけになっていると思います。私はその旅の過程で、私的空間というもの、それを構成するものやその特徴について考えはじめました。どのように空間が人を規定するのか。私的なものと公的なものが出会うとき、私的空間はどのように公的空間へと変わるのか。こうした問いはすべて、韓国からアメリカ合衆国への移動によって生まれてきたものです。私的空間やその概念に興味を持ったのは、それぞれの文化がそれぞれの私的空間の特徴を有していることを、ある場所から別の場所への移動、とりわけ、韓国からアメリカ合衆国という明白な違いを持った場所の移動を経験したからでしょう。それによって、こうした概念について考えはじめました。私の考えでは、衣服というものは最小かつ最も親密な空間であり、ひとりの人間が持ち運ぶことが出来る。この考えを拡張していくと建築に至るのです。このように建築への興味が膨らんでいきました。

 

YK 韓国からアメリカへ渡ったことが建築への興味に際し、大きなきっかけとなったということですが、子供の頃に住んでいた韓国の実家も建築への関心を広げるきっかけではなかったのでしょうか。

DHS 私の父親は画家で、伝統的な韓国文化にこだわりを持っていました。彼は1960年代の長期間の準備を経て、70年代に伝統的な韓国の家を購入しました。私はその家で育ったのですが、韓国人が韓国の家に住むわけですから、それは一見特別なことではない気がしますよね。しかし、当時は韓国の伝統的な建物が取り壊されて、近代的な建物が建設されていく時代だったのです。つまり、私の父親は時代に逆行していたのだと言えるでしょう。どのように韓国の伝統的な家が建てられるのかを間近に見ることで、大工仕事に対する興味も生まれていきました。彼らは既に年をとっていたので、おそらくそうした家を建てる技術を持った最後の世代だったでしょう。そうしたものを見ることが出来たのは幸運だったと言えます。そのような環境で私は育ちました。別のインタビューでも話しているのですが、その家から外へ出るとき、学校へ行くときなど、家と外という世界のそれぞれの空間の違いが明確にありました。私の作品には常に移動という言葉が使われますし、私の文章にもしばしば文化的移動という単語を使います。私が実家と学校を行き来するときなどに経験していたことは、韓国社会の中での小さな移動の連続だったのではないかと思います。当時の私はまだ若い学生だったので、そのようなことに気付いていなかったのですが、どこか無意識の中で、そうした移動があったのを感じていたのだと思います。おそらくそうしたことへの興味は、私が韓国にいたときに既に種として蒔かれていて、アメリカ合衆国への移動が触媒となったのかもしれません。

 

YK 先程、建築と衣服の概念は繋がっているといった発言がありましたが、アーティストになる以前、服飾デザイナーや建築家になりたいと考えることはなかったのでしょうか。

DHS 実はもともと、海洋生物学者になりたいと思っていました。高校二年までは魚の研究をしたいと考えていたのですが、韓国にも日本と同じように大学入試があり、それを前に数学の成績は下がっていき、その成績ではいい大学に入ることは出来ませんでした。なぜ海洋生物学を断念して美術大学に進もうと決めたのか、実は未だに謎のままなのです。芸術的な環境に囲まれていたので、そのような決断も自然なことなのかもしれませんが。それから急いで美術大学の入試のための準備を始めました。その後、修士課程を経て、さらにアメリカ合衆国へと渡って学び続けるのですが、アーティストになることが自分の運命なのだと認識したのは、卒業後にニューヨークへと移動したときのことです。その頃、私はフリーランスで大工仕事を請け負って働いていました。学生の頃は本当に一生懸命勉強、制作するいい生徒だったのですが、自分がアーティストかどうかとか、アーティストになることを真剣に考えられているかどうかわかっていませんでした。そして、あれは1997年の終わり頃だったと思いますが、アーティストこそが自分のやりたいことなのだと気がついたのです。それは実に驚くべきことでした。

 




「Seoul Home/L.A. Home/New York Home/Baltimore Home/London Home/Seattle Home/L.A. Home」1999年 コリアン・カルチャー・センター(ロサンゼルス)での展示. © Do Ho Suh

 

YK この「ブループリント」の下で海洋生物学者の話が出てくるとなんだか海にいるような気分になりますね。ドホさんは布の作品にいつも独特の色を選んでいますよね。この「ブループリント」には青、初期の「ソウルの家」(1999)には青磁を思わせる緑を使っていました。色を選ぶ上での理由や方法といったものはあるのでしょうか。

DHS まず、建築の作品を作り始めるとき、これがシリーズになっていくとは考えていませんでした。実のところ、「ソウルの家」は建築シリーズの二作目になります。一作目は大学院時代に、その後、「韓国の家」プロジェクトとなる、より大きなプロジェクトが実現可能かどうか試す目的で制作しました。ですので、「ソウルの家」はこのシリーズの二作目に当たるのですが、一般に発表した最初の作品となります。そして、その色は韓国の伝統的な家の天井の壁紙の色から来ています。私が育った家は李朝時代からの典型的な学者の家でして、学者の家の内装はとてもミニマルで、壁の色は白、天井は青磁の緑から空の青といった具合です。「ソウルの家」は天井から吊り下げる作品だったので、その天井の色を作品に選びました。そもそも学者たちが天井にあのような色を選んだのは、そうした色が空や宇宙の色に似ていて、彼らが宇宙の中心に座っていると連想するためだったのです。そのような色を選ぶのは私にとって自然なことだったと思います。

 

YK ドホさんにはしばしば深読みし過ぎだと言われるのですが、ドホさんがもともと絵画教育を受けていたので、こうした作品を作るときにも絵画的な色の選択というものがあるのだろうかと考えてしまいますが、そういった意識はあるのでしょうか。

DHS 残念ながらそれは関係ありませんね。主観的に色を選ぶことはありません。とはいえ、常に厳密に概念的に選択をしているわけでもありません。なにかに関係していることもあれば、ある意味気まぐれに選ぶときもあります。しかし、絵画教育を受けていたこととは関係ありません。

 




Both: 「墜落星- 1/5スケール」2008-2012年 広島市現代美術館での展示. Courtesy of the artist and Lehmann Maupin Gallery, New York © Do Ho Suh

 

YK また深読みでしたね。次に別の部屋にある「墜落星-1/5スケール」(2008-12)という作品について伺いたいと思います。これは五分の一のスケールの非常に詳細な家の模型の作品です。この作品は背後にある種の物語を含んでいるという点で、これまでの家に関する作品群のひとつの新しい展開の形ではないかと思います。このような物語を作るきっかけはなんだったのでしょうか。

DHS ずっと物語に対する興味は持っていました。これまでの作品にも物語を明確に持つものもあれば、そうでないものもありました。「墜落星」シリーズの彫刻は最終的な作品ではなく、絵本を書いたときの副産物と言ったらいいでしょうか、実はその絵本が最終的な作品となる予定でした。しかし、最終的には彫刻作品はその絵本の各章を表すものになりました。その絵本にはいくつかの章があり、今回展示されている作品は韓国の家がアメリカ合衆国の家にぶつかっている瞬間を表しています。

 

YK この作品は大変大きく、非常に繊細な作品ですので、制作年数が長くかかったのではないかと思いますが、制作時のことについてなにか教えていただけますでしょうか。

DHS おそらく制作を始めたのは2005年で、2008年にロンドンのヘイワード・ギャラリーにて最初のバージョンを発表しました。「墜落星」はほかの作品制作とは少し異なる、多大な労働を要する制作になりました。正直なところ、このプロジェクトは非常に単純なアイディアから始まっています。もちろん、実物大の模型を作ることは出来ません。この五分の一という縮尺はどこかぎこちなく、それでいて模型としては比較的大きなサイズです。私はどういうわけか最終的にこの五分の一という縮尺で制作することに決めたのですが、もし、六分の一に決めていたら、もっと簡単に制作できたでしょう。それは、玩具業界で扱うフィギュアには六分の一の縮尺のものがあり、細かいものなど、そのような市場からたくさん手に入れることが出来たはずです。しかし、私たちの鑑賞者としての身体と彫刻作品との関係が重要で、物質の存在を考えたときに六分の一では少し小さくて、五分の一の縮尺でいくことに決めたのです。

 

YK おっしゃるように五分の一の縮尺というのはどこにも売っていないサイズなので、クリップや綿棒のひとつひとつなど、部屋にあるものすべてをゼロから作っていったということで非常に大変だったのではないでしょうか。

DHS そうですね。プロジェクトのために時間やお金を費やしていくことで、大変なことだと気がつきました。実のところ、現実的ではない少し馬鹿げたプロジェクトだったかもしれません。先程言ったように、このプロジェクトは非常に単純なアイディアから始まっています。あるとき、明日からクリップなども含めた自分のすべての所有物を再制作しようと思い立ったのです。しかし、そこで気がついたのは、自分がなんてたくさんのものを所有していたのかということでした。例えば、机の引き出しを開けてみると、そこには本当にたくさんのものが入っています。当初、引き出しを開いた状態で机を制作し、そこに入っているものを見せようと考えていましたが、結果的には出来ませんでした。ちょっと手に負えませんでしたね。ご覧になって気がついたと思いますが、家具の引き出しは閉められた状態になっています。そして、すべてのものをゼロから作らなければなりませんでした。

また、ある種のリアリズムを獲得するために、本物とまったく同じ技術を模型にも使用しました。例えば、セラミック製のものはセラミック、家具は木製、床も実際の床と同じ。ある種の強迫観念と言えるかもしれませんが、再制作をしようと決めたら、出来るだけ実物に忠実に作ろうと思っていたのです。もともと、そういった非常に単純なアイディアがありました。

 


「墜落星- 1/5スケール」2008-2012年 広島市現代美術館での展示. Courtesy of the artist and Lehmann Maupin Gallery, New York © Do Ho Suh

 

YK 「墜落星」には学生時代の部屋を再現しているものがありますが、そこをよく見てみると、宮崎駿さんの『風の谷のナウシカ』に出てくるガンシップとか、ドホさんも尊敬している横山宏さんがデザインしたものなど、プラモデルがたくさん積んであります。そうしたところにドホさんの造形への関心、模型やミニチュアへの関心が伺えますが、こうしたある種の趣味は自身の作品世界とどのように繋がっているのでしょうか。

DHS 小学校の頃はほかの子と同じくプラモデルが大好きでしたが、高校に入ると大学入試のこともあり、すっかり作らなくなっていました。メゾン・エルメス・ジャポンでの個展の際に来日したときでしょうか。特にこれといって目的はなかったのですが、なんとなく寄ってみた書店で横山宏先生の『マシーネンクリーガー』を見つけました。どういうものか背景は知りませんでしたが、ビジュアルに惹かれて購入しました。また、現実の生活では実現不可能なアイディアに基づく作品の企画を準備しており、私の考えを視覚化する最善の方法として模型やフィギュアをドローイングするため、秋葉原の模型などが売られているお店にも行きました。このときの来日でのふたつの出来事が模型制作に再び興味を持つきっかけになりました。

私は現在、約15個の実現不可能なプロジェクトのアイディアを持っています。例えば、韓国とニューヨークを結ぶ太平洋に架かる橋の建設のような馬鹿げたもので、空想計画と呼んでいます。そして、あるとき日本で出版されている一冊の本を見つけたのですが、日本のある建設会社(前田建設工業ファンタジー営業部)が出しているその本には、私のプロジェクトのような空想の計画を実現するために出した見積もりが掲載されているのです。一冊はマジンガーZの格納庫の建設の見積もりで、もう一冊は少年が宇宙へ旅するときに乗っている鉄道(銀河鉄道999のカタパルト)の見積もりです。ここにはある意味で私の太平洋に架かる橋の空想計画と似たものがありますね。

こうしたアイディアはおそらくみなさんの目に触れることはないでしょうし、私の頭の中に留まっているものでしょう。しかし、このようなアイディアは本当に重要で私の彫刻作品との間に非常に重要な繋がりがあるのです。だからこそ、私はなんとかしてこうしたアイディアを視覚化して発表したいと考えています。建築家がやっているように、ドローイングや模型はそのための主要なメディアでしょう。そうして、自然に模型制作に興味を持っていったのだと思います。それは必ずしも小学生のときのような趣味としての繋がりでなくてもいいのだと思っています。

 


「ブリッジング・ホーム」2010年 リバプール・ビエンナーレでの展示 © Do Ho Suh

 

YK ドホさんの作品は、近年、美術館に収まらない非常に大きな規模にも展開しています。例えば、リバプール・ビエンナーレでは「墜落星」が街の中に落ちたという設定そのままに韓国の家を実寸大で制作し、最近ではサンディエゴでコレクションとしてビルの上に家が乗っかっているような作品を制作していて、これらは美術館の作品の概念を変えるような大きさのものではないでしょうか。このように大きな作品を作るようになっていく過程で、自分の制作に変化はありましたか。

DHS そういうことはありませんね。先程約15の馬鹿げたアイディアという話をしましたが、実際、サンディエゴでコレクションされた「墜落星」もそれらのアイディアのひとつでした。私はおそらくそれらのアイディアを実現させる機会を探していたのだと思います。キャリアを積んでいくことで、招待されてプロジェクトを行なう機会が増えていき、そうした野心的なコミッションワークの機会によって、それまでに考えていたけれども自分ひとりでは実現不可能な作品に取り組むことが出来ました。これはたまたまそうなっただけで、アイディアという点において新しい変化があったわけではありません。

 

YK ドホさんの代表的な作品として、布の作品を観る機会は日本でも多いと思いますが、今回の展覧会では初期の作品も含めて、さまざまな制作の側面を観てもらう機会になっています。ドホさんはこれまでにもメディアを越境するような制作を行なってきたと思いますが、現在はパフォーマンスに関する作品も韓国で制作しているとお聞きしました。そのような関心の展開について教えていただけますでしょうか。

DHS これもまた意図したり、計画したりしたわけではありませんが、どちらかといえば共同的なプロジェクトへと移ってきています。また、映像や音を使うもの、パフォーマンスへの興味も高まっています。パフォーマンスといっても、人前で行なうものではなく、私のほかの彫刻作品と併せたパフォーマンスを記録したもののことです。これらもまた新しいものだと思っているわけではありません。1999年に東京のICCにて私の初めての個展を開催したのですが、そのときにまさにパフォーマティヴなビデオ作品やインスタレーションを発表しました。このとき行なったことはその後の私の作品とは非常に異なるものでしたね。私は画家として制作を開始して、絵画を離れて、彫刻も作っています。布の作品こそが私の代表作だと言う人もいますが、私はそのようには考えていません。踊りながら、ある地点から別の地点へとジャンプして移動するバレリーナのようであるべきだと思っています。なにか新しいものに試みようとしているわけではないですね。

 

 


 

ス・ドホ in between
会期:2012年8月4日(土)–10月21日(日)
会場:広島市現代美術館
http://www.hiroshima-moca.jp/
特設ウェブサイト:ス・ドホ in between

Lecture@Museumシリーズは、美術館で行われた講演を、関係者の協力のもと、ART iTが記録、編集したものを掲載しています。

 

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