マーカス・コーツ

鳥になろうとすることは人間の存在に何を問いかけるだろうか

2008年に創設された大和日英基金アートプライズは、英国の優れた作家を日本に紹介することを主眼に、受賞者に日本での初個展の機会を与えるという現代美術賞。09年の受賞者となったマーカス・コーツは、去る11月に受賞記念として小山登美夫ギャラリーでの初個展を開催した。これに併せて来日した同賞の選考委員長が、作家のユニークな表現の根底にある「人間観」について、話を聞く。

聞き手:ジョナサン・ワトキンス(アイコン・ギャラリー館長)
構成:編集部

——まず大和日英基金アートプライズ賞の選考の背景を読者のために少し説明しますと、私が大和日英基金から賞選考委員に任命されたのは、受賞条件を「現代美術であること」以外に何にすべきかが決まる前のことでした。完全にオープンで、イギリスのアーティストが誰でも応募できるようにすれば、よりおもしろい作家たちが注目してくれるのではないか。委員全員がそう考え、条件は日本で個展の経験がないことだけにしました。結果、約千名の応募がありました。あなたはまさに千人にひとりの作家というわけですが、どうしてこの賞に応募しようと思ったのですか。

きっかけは、2006年に、越後妻有アートトリエンナーレとTOKYO池袋国際アートフェスティバルのための作品制作で来日したときのことです。そのときに協働したグライズデール・アーツ(編注:英国湖水地方で地域再生プロジェクトに取り組む団体)の面々からこの賞のことを聞きました。日本での経験は刺激的だったので、再び来日する機会を捜していたのです。また、共通言語、つまり言語を超越した言語に関心があったことも、日本で制作・展示したかった理由ですね。私のその関心は動物界にも及んでいるので、言葉が障害にならない手法で作品を作る場所として、日本は面白いと思いました。

——そのような作品を作ろうと思ったきっかけは?

私の作品中にあるアイデアは、人間がどうやって自らを定義しているのかを考えるものです。子供のころから私の最大の関心事は常に動物や鳥のことでした。最近では人間が自身を定義する上で、自然をどう用いているかに関心があります。例えば自分を善の存在に見せたいときは「自然は優しい」と言って自身を自然という言葉に投影します。また逆に「動物(自然)は悪の存在であり、人間が善だ」と言うことで自身を規定することもあります。こうした自然と人間の関係や、それがどのようにして形成されるのかを、ときには空想的に、ときには客観的、科学的に捉えたいと思いました。自分は鳥なのだろうか? 鳥である可能性はあるのか? 鳥になろうとすることは人間の存在に何を問いかけるのか? といった具合に。まさに自己とは何かを探求し続けているようなものです。

状況を変容させることで見えてくる人間の本質


「The Plover’s Wing」2008年 写真

——ロシアのアーティスト、オレグ・クリクの作品についてはどう思いますか。またご自身の作品とはどういう関係にあると考えますか。

彼の作品は人間であることの罪、とりわけ政治的な罪に関するものだと私は思います。例えば道端で裸の犬に扮する行為は、社会に生きる人間として我々を規定しているルールを壊そうとしているように思えます。私はそのような文化的な慣習にはあまり興味がありません。

——しかしあなたもルールを破っていますよね。例えば「The Plover’s Wing」という作品があります。イスラエルの政治家のオフィスにアナグマの被り物を被って入っていく行為は、明らかにいわゆる会議の作法を破っています。相手は困惑しますが、自分が観察されていることも解っているので、決まった行動パターンを取る。そのオフィスで、いわばまったく異なるふたつの世界が出会っているという、この上なく緊張感あふれる状況です。

マナー違反なのだろうとは思いますが、慣習に逆らっているのかどうかは自分でも確かではありません。ただ、このように状況を変質させることは面白いと思っています。


「Out Of Season」2002年 
デジタルビデオ 出演 Andy Coltrane © Marcus Coates

——「Out of Season」(2002)でも、ある行動パターンをまったく違った文脈に置くことで変質させていますね。あなた自身ではなく別の人が演じていますが。

はい。この作品ではイギリスの森の中で、サッカーチーム、チェルシーのファンである男性がサッカーの歌を歌っています。周りでは美しい鳥のさえずりが聞こえ、日の光が降り注ぐロマンティックな情景ですが、歌の内容はひどいもので、人種差別や同性愛蔑視など、かなり攻撃的です。彼はチェルシーファンであることを誇りとし、他のチームに対しては汚い言葉でこき下ろすという非常に戦闘的な態度で自分のテリトリーを構えていますが、これがまさに鳥のさえずりと同じ意味をもった行為なのです。鳴いている鳥はみな雄で、その関心は自分の縄張りのみにあります。戦う代わりにさえずることで強さを顕示し、人間がシャツの色で自己主張するように羽色を見せつけるという具合に、すべてが対応しており、それが一種の「収斂進化」であると最近知りました。鳥が発達させたのと似通よった文化的行為を、人間も発達させたのです。

どちらの作品も、それぞれの行動を取る場所としては不釣り合いな環境にあります。その対比をできるだけはっきりと示そうとしたのですが、実際にはもっとも顕著な類似性が表現されています。

自然と人間の関係を通して自己を探求する


「夜明けのさえずり」 2006年 ビデオ

——人間を獣だと考えているのですか。

はい。どんなに切り離されていると思っていても、人は本質的に自然と繋がっている。そのことにいつも驚かされます。例えば「夜明けのさえずり」(2006)では人間が鳥のさえずる声を発しています。人間の音の発し方や呼吸の仕方は、鳥と驚くほどよく似ていて、唯一違うのはその速さです。クジラの歌をある一定の速度に速めて聞くと、鳥のさえずり声に変化し、鳥のさえずりの速度を速めると虫の声に変質するのです。すべての種にこの共通性があり、それが非常に面白いと思います。


「Intelligent Design」2008年 DVD

——「Intelligent Design」(2008)という作品で、年老いたガラパゴスゾウガメが、しかも雄同士で——この点においても絶望的なのですが——交尾を試みている様子はとてつもなく悲しいものがあります。さらに注目すべきなのが、それを背後で観ているふたりの観光客の動きです。彼ら人間の行動とカメたちとの関連性を、鑑賞者は自然研究家のまなざしで観察することになります。

登場する巨大なカメたちは、おそらく150歳、180歳くらいでしょうか。古来の生物であり、これ以上ないくらい人間とは遠く離れた存在ではないかと思います。しかしたとえそうであったとしても、われわれは彼らに同情し、感情移入し、その行為に何かしら我々と相通じるものがあるように感じてしまうし、実際それはあるのでしょうね。彼らの交尾のうめき声は、聞き覚えのある、とても人間的なものです。そして彼らはまさに「人間」になる、つまり我々が彼らを人間として見てしまうのです。だからふたりの人間が登場すると、彼らの方がまるで異質な生物のように見えてしまうという奇妙な逆転が起きるのですね。

Marcus Coates
1968年ロンドン生まれ。映像、インスタレーション、パフォーマンスなど多彩な表現形式により、人と動物との関係をテーマに作品を制作。2007年ヴェネツィア・ビエンナーレで「夜明けのさえずり」を発表。テート・トリエンナーレ 2009に参加。日本では、06年に越後妻有アートトリエンナーレの一環として、グライズデール・アーツ「七人の侍」プロジェクトに参加。新潟県十日町に約1ヶ月滞在し、東京でもパフォーマンスを披露。その成果はリバプール・ビエンナーレで発表された。09年大和日英基金アートプライズを受賞。同年11月、受賞記念として日本での初個展を小山登美夫ギャラリーにて開催。六本木のアカデミーヒルズにてアーティストトークとパフォーマンスも行なった。

Jonathan Watkins
アイコン・ギャラリー(バーミンガム)館長。サーペンタイン・ギャラリー(ロンドン)のキュレーターや、シドニービエンナーレ1998のアーティスティックディレクターなどを務めた後に現職。ヴェネツィア・ビエンナーレ、ヘイワード・ギャラリーやテート美術館(ロンドン)でも企画展示を手がける。2009年の大和日英基金アートプライズでは審査委員長を務めた。

協力:大和日英基金/小山登美夫ギャラリー

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