ダン・グラハム

コンセプチュアルアートにおいては、哲学ではなくユーモアの方が大切なんです

コンセプチュアルアートの代弁者、現代美術の先駆者、ポストコンセプチュアルの拡張された現代美術の予見者……。ダン・グラハムを形容する言葉は無数に存在するが、中でも魅力的なのは次の言葉である。「哲学的な意味では、ダンこそがポップとミニマリズムを『ロック』に持ち込み、『パンク』を産み出した張本人」。ロックが時代を揺るがし、パンクが既成概念を破壊していったように、40年以上かけて彼が産み出してきた多くの作品は常に時代のラディカルな代弁者であり続ける。

聞き手・文:西村大助(サムワンズガーデン


「Wood Grid Crossing Two-way Mirror」2010年 アルミニウム,木,ハーフミラー 230 x 400 x 140 cm
タカ・イシイギャラリー(東京)での展示風景 Courtesy Taka Ishii Gallery  Photo KEI OKANO

――あなたが生まれたイリノイ州は、マイルス、ディズニー、レーガンなど、アメリカの象徴を輩出してきた聖地ですね。あなたの芸術家としての素養もこの場所で育まれたと思いきや、3歳のときニュージャージーに移り住んでいます。子供時代に影響を受けたものについて教えてもらえますか。

母は教育心理学者で、社会と心理の相互作用を位相幾何学を使って説明するグループ・ダイナミックスの創始者、クルト・レヴィンの弟子でした。科学者の父には暴力的な面があって、高校時代の私は心理的に行き詰まってしまい、すべてに吐き気を感じていました。ともあれ、そういった影響もあってか、すでに10代の始めにはサルトルを読んだりしていました。ずっと後にポール・マッカーシーと話したとき、彼も高校時代に自身の悩みを抱えていたころサルトルを読んだと聞いて、親近感を感じましたね(笑)。

――アート活動を始めるきっかけとなった出来事はなんでしょう。

フェミニズムは、そのひとつかもしれません。1940年代のアメリカ社会において興味深いのは、女性がパワフルになってきたことでした。エレノア・ルーズヴェルトは国際連合の設立に貢献しましたし、フランクリンと結婚してからも大きな影響力を持ちました。彼女はレズビアンでもあるのですが。私は13歳のとき、両親の本棚に文化人類学者マーガレット・ミードの本を見つけたんです。それがきっかけでした。ミードはセクシュアリティに熱心な学者で、メラネシアなど母系社会の研究をしていました。

グレアム流コンセプチュアルアートの歩み

――写真シリーズ『Homes for America』(1966-67)や、コンセプチュアルワーク「Side Effects/Common Drugs」(66)といった初期の象徴的作品は、どういった経緯で生まれたのでしょう。

64年にニューヨークでジョン・ダニエルズ・ギャラリーをオープンし、ミニマルアーティストを扱っていましたが、経済的に行き詰まり、郊外の両親の元へ戻ることになりました。マンハッタンからニュージャージへ向かう線路沿いに、その光景はありました。それで線路沿いを歩きながら写真を撮ることを始めたんです。そうした写真をスライド上映する「プロジェクテッド・アート」という展示をした際、アーツ・マガジンからそれを出版する話をもらいました。よく誤解されるのですが、『Homes for America』は郊外に捧げる詩のような何か、郊外の都市プランについての何かであり、ホワイトキューブのためのものという感じではなかったんです。


『Homes for America』より(4点とも)1966-67年
35mmスライド20点,スライド・プロジェクター サイズ可変
Courtesy Taka Ishii Gallery, Tokyo and Marian Goodman Gallery, New York

それから66年に、「Side Effects/Common Drugs」を発表しました。ローリング・ストーンズの曲『Mother’s Little Helper』がベースになっています。ドラッグを摂取すると、その作用を中和するために別のドラッグを摂取しなくてはならないという滑稽さを扱いました。


「Side Effects/ Common Drugs」1966年 紙にオフセット・リソグラフィー 46 x 30 inches
Courtesy Marian Goodman Gallery, New York

――その後は様々な手法を用いていますが、あなたのスタイルが生まれてくる経緯においては、ビデオ表現が重要な役割を持っていたと思います。

私がビデオ作品をつくりはじめたのは、あるとき映像関係の雑誌を読んでいて、多くのビデオアートは心理学的モデルやグループモデルについてのものだと気付いたのがきっかけです。当時、美術教師だったデヴィッド・アスクヴォルドが学生向けプロジェクトとして実現可能なアイデアを求めて、コンセプチュアルアーティストを招聘していました。私は彼らが使っている機材の扱い方を知っていたので、出かけていって生徒達と共に作業しました。私は69年前後に、コンセプチュアルアートの制作を辞めていたんです。なぜってコンセプチュアルアーティストたちが好きになれなかった——彼らは私のアイデアを平気で盗んでいくので(笑)。コンセプチュアルアートにおいては、哲学ではなくユーモアの方が大切なんです。偉大な芸術には常にユーモアがある。

ニューヨーク音楽シーンとの親交

――現在のユースミュージックシーンにおける重要人物のひとり、キム・ゴードンとはどのように出会ったのでしょうか。

初めて会ったとき、彼女は途方に暮れていました。当時のボーイフレンドとニューヨークに来るはずが、彼は同行せず、キムは彼に僕を頼れと言われてこの街にやってきたんです。「私は雄牛座だから、自分以外の人と精神的に近づき過ぎてしまって、いつも誰かのサポート役にしかなれないの」と言って自分らしさを見失っていました。だから私は彼女に「フロイトも雄牛座で、多くの人々と心理的に近づいたし、かつ彼らを助けようとしていたよ」と言い、何か書いてみることを勧めました。なぜならフロイトは優れた物書きでもあったから。その後、キムとサーストン・ムーアは私の家の下のフロアに長い間住んでいました。私のビデオ作品『Rock My Religion』(84)に音楽で参加してくれたこともありましたね。

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ロサンゼルス現代美術館『Dan Graham: Beyond』展オープニングにおける
Mirror/Dash(キム・ゴードン+サーストン・ムーア)の演奏パフォーマンス
(2009年2月14日 同館グランドアベニュー)
なお、『Rock My Religion』の映像は以下で観ることができる。
http://www.ubu.com/film/graham_rock.html

――あなたを、哲学的な意味でのパンクシーンの生みの親だと呼ぶ人もいます。

ラモーンズのファンだったので、よくCBGB’sに通っていました。70年代、一部のパンクにはユーモアがあったんです。普段の私はクラブにも行かず酒も飲みませんが、そのころはゲストパスをもらって、よく観に行っていました。コミュニティがとても重要だったんですね。パンクは抵抗の精神でしたが、私の作品はどちらかというとヒッピーの感覚に近かったのかもしれません。ヒッピー文化は排他的で、ジャクソン・ブラウンはじめ、自分自身についてのムーブメントでした。パンクはそれに反抗して、自惚れたシンガーソングライターを排除していったのです。

パヴィリオン彫刻——建築的表現への接近

――アートと建築を横断するような彫刻表現を始めたきっかけはなんでしょうか。

76年にヴェネツィア・ビエンナーレに招かれたとき、私はビデオ作品に取り組んでいましが、いくつかの理由でビデオを使用できなくなりました。そこで、会場のホワイトキューブの壁を取り出し、窓を作ったら面白いのではというアイデアが生まれたのです。また、それから2年後にモダン・アート・オックスフォードで展覧会をする際に、建築家が模型をギャラリーで展示しているやり方を見て、8つの建築模型のアイデアを得ました。いくつかはパビリオン式のもので、その他は郊外における空想と呼べるものでした。自分でも気に入ったのは、これらがアートと建築のハイブリッドになった点です。これが建築的な作品がはじまった経緯です。

――今回の個展でも、新作のパヴィリオン彫刻がひと際目を引きます。

子供にも人気があるようですね。これまで主に屋外展示が多かったのですが、今回はギャラリーの中でもうまく機能したようです。作品のまわりを歩いてみると、そこに映り込む自分の姿が歪んで見えるのです。止まって眺めるというより、歩きまわってみることが大切です。一部が木目調なのは、以前に山口県立美術館で制作したときから始まった試みです。格子状のフォルムは、日本の障子のような雰囲気を思い浮かべながら生まれたものです。


「Wood Grid Crossing Two-way Mirror」2010年 アルミニウム,木,ハーフミラー 230 x 400 x 140 cm
タカ・イシイギャラリー(東京)での展示風景 Courtesy Taka Ishii Gallery  Photo KEI OKANO

――最後に、現代に最も必要なアートフォームとは何だと思いますか。

ミニマリズムは「いま目の前にあること」についての表現ですよね。私は、「ごく近い過去」が好きなんです。80年代に私が手がけたランドスケープアーキテクチャーは、ヨーロッパにおけるいくつかの異なる時代の公園デザインに関連しています。歳をとるにつれて、歴史的背景を持つことが大事だと思うようになってきました。それはアートにおいては必要ないのかもしれませんが。現代の問題は、すべてが「ネオ60年代的」であることです。人々はあの時代の物事をあまりに単純に考え過ぎではないでしょうか。いま重要な事柄は、60年代の幻想よりもずっと幅広いもののはずです。

NJ.comに掲載されたグラハム記事『Whitney Museum to celebrate Dan Graham, Jersey’s bad boy of the art world』中の1文
http://www.nj.com/entertainment/arts/index.ssf/2009/06/whitney_museum_to_celebrate_da.html

Dan Graham
1942年、イリノイ州アーバナ生まれ。ニューヨーク在住。60年代から、美術批評を行いつつ雑誌上で作品を発表。70年代は映像インスタレーションやパフォーマンス、さらに建築と彫刻を横断するような『パヴィリオン』作品シリーズを制作する。その多様なスタイルを通じて、常にコンセプチュアルなテーマを扱っている。2009年にはアメリカでの回顧展『Dan Graham: Beyond』が、ロサンゼルス現代美術館、ホイットニー美術館、ウォーカー・アートセンターをツアーした。ロックミュージックとの関わりも深く、この分野におけるエッセイをまとめた『Dan Graham : Rock/Music Writings』も2009年に発行された。 東京のタカ・イシイギャラリーにおける『ダン・グラハム展』は、2 月20 日(土)から3 月27 日(土)まで開催された。

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