大竹伸朗

誰もやったことがない絵ってなんだろうって、そういうことは考え続けている

2006年、東京都現代美術館での大規模展『大竹伸朗 全景 1955-2006』は、文字通り、孤高の作家が描き/貼り/写し/つくる歩みを幼少時から現在まで時系列で示す異色の試みだった。あれから3年、新たな「景」に挑み続ける大竹に、最新個展会場で話を聞いた。

聞き手:編集部

——まず、3年前『ART iT』13号で開催直前にインタビューをさせていただいた『全景』展について、振り返っての感想を伺えますか。

何事も終わってみると、結構あっけなく過ぎちゃうものだよね。結果、もちろん実現できてやってよかったという思いは強くあります。ひとつキリがついたというか。東京から宇和島に移り住んで、周囲は俺のしていることにほとんど関心がないっていう環境の中で、逆に美術ってどういうことかを自問自答するようになった。そういう20数年の後の『全景』展だから、時系列にこだわったというのはある。動員数(編注:5万5千2百人)は素直にうれしいけど、反面、これで初めて俺を知った人も相当いるという事実に、それまでの30年近くの徒労感も湧いたりね。

『全景』によって何か自分の中で大きく変わったとは思わないけど、その後の初の大仕事が直島銭湯「I♥湯」(アイラヴユ)みたいなものになって、また一方でTake Ninagawaのような若いギャラリーと知り合って日常的な作品をコンスタントに出せた、その流れはすごくよかったと思う。


『大竹伸朗 全景 1955-2006』(東京都現代美術館、2006年)会場風景
撮影:平野晋子 写真提供:東京都現代美術館

直島銭湯「I♥湯」で感じた、場の強度

——2年越しで今夏にオープンした「I♥湯」は、最初は風呂絵を描くくらいかと思っていたのが、実は島民のための銭湯をゼロからつくる依頼だったそうで。

そう。それでまず1/30の模型を自分で作って、大阪のgrafに色々と教えてもらいながらこうしたいと。俺自身、「現代美術です!」みたいな建物はあまり興味がない。島の人にもそんなの通用しそうにないし。だから明るくハッピーで、島の人たちに気に入っていただける「場」ということを目指して……あと、依頼側のリクエストとして「ムラムラする感じで」ってのもあった(笑)。


直島銭湯「I♥湯」(2009) 撮影:渡邊修


直島銭湯「I♥湯」内観 ※一般入浴者の撮影は禁止されています

——外壁から湯船にまで施された平面・立体コラージュや、絵付けタイル、さらにサボテンなど生きた植物も同じ感覚で使われていますね。フラワーアーティストの東信さんとの出会いも重要だったとか。

サボテンの温室作るのは夢でしたね。東氏とは偶然いいタイミングで知り合って、ありがたいことに手伝いたいって言っていただいて。公共施設だから建物の規制や検査のハードルが高くて、それが済んでこちらの詰め作業になったときはオープン1ヶ月前。そこからガラガラと毎日変わっていったね。トイレに入れようと思った作品を、窮屈だから外にかけちゃう、といったアドリブもありつつ……ゴールとしての図面はない中で、最終的にはうまく着地ができたと思う。完成したいまは、いつか建物がぜんぶ植物で覆われちゃえばいいなって(笑)。人が自然に集まる場所って、計算だけでははかれない人知を超えた強度が要るとも感じた。

「貼ること」と「描くこと」

——最新個展『貼 (Shell & Occupy)』についても伺えますか。昨年から4回目となるシリーズ展で、大竹さんの「描く」行為同様に重要なコラージュに焦点をあてた企画ですね。これまで、撮り人不明のスナップショットから、タイや日本人歌手のLPレコードまでが奔放に貼り付け・盛り付けされてきました。各所に使われた蛍光絵具も印象的です。

コラージュって言葉自体にすごく西洋美術的なものを感じる。自分の作品ではあまり意図的な構図は意識していないし、自分では貼り重ねが層を成す、その質感に興味がある。使うのは身の回りにあるもので、無意識に自分の日常やその変化が出る。例えばインドっぽい部分は、いま新聞小説の挿絵もやっていて、それがガンジーの話だから資料が手元に沢山あって……といった流れ。蛍光色は15年くらい前かな、ホルベインで蛍光の油絵具が出たんで買い込んで、当時やや不完全燃焼だった部分を改めて色々試してみようと。塗るより貼る感覚で、接着剤みたいに裏側から絵具が貼り付く絵っていままでないなと思って。今年が「『I♥湯』の年でしたね」だけで終わるのは何か悔しいから、やっぱり作らないと、と思いやることにした。


『貼貼貼貼(Shell&Occupy 4)』展示風景,Take Ninagawa(東京)

——「貼る」と「描く」はご自身の中でどんな関係なのでしょうか。

近いようでお互いものすごく遠い。絵とコラージュを合体させてひとつのスタイルにという発想も自分にはない。俺の中では違う部分に属するからこそ意味があって、両方やらないとバランスがとれない。貼りたいものと描きたいものも、得られる快感もまったく違うし。例えばレコードは、A面B面あるじゃない。つまり2ページある。レコード盤は音が出る「ページ」なんだって気付くと、貼りたくなってくるわけ。


「芥子 / 音影 I」2008年 205 x 195 x 5 cm 写真提供:作家,Take Ninagawa

作るというその行為自体を考え続ける

——大竹作品を語る際に、衝動という言葉がよく使われるように思いますが、作るというその行為自体を「考える」ことが、大竹さんの表現の源になっている印象も受けます。それは解説的なコンセプトやコンテキストといったものとは異質のものかもしれませんが。

まず、自分の作ったものを自分が一番理解してると考えるのは、作家の奢りだと思うんですね。実は本人がいちばんわかってないかもしれない。絵の見方ひとつとっても、もし絵から1mmの近さでも焦点が合うなら、光の見え方とか全然違うだろうし、自分の絵だってこともわからないと思う。逆に100m離れて見てもいいわけで。でも実際は暗黙のうちに、絵を見るのに適する距離感というのがあって、そういった暗黙の常識自体の中に、すでに作者の「奢り」が潜んでいる気もする。
いま30代のころの制作メモを印刷物として復刻する話があって、改めてそれを見ると、例えば「新しい絵の可能性ってなんなのか?」、これはどうか、あれはどうかといろいろ書いてある。ほとんどは実現しないにしても、考えること自体が面白いし大事だと思うね。人が漠然と思い込んでることって、ちょっと角度を変えて誰かに出すと、ものすごいカウンターになるじゃない。
ウォーホルが銅板におしっこかけて腐食させた絵だとか、ふだんトーストにバターを塗るのだって、これは絵画だと言えばそうなる。誰もやったことがない絵ってなんだろうって、そういうことは考え続けているね。そして、予想できないことを排除しても、どうしてもわけわかんないものは出てくる。そういうところにもずっと興味がある。

おおたけ・しんろう
1955年、東京生まれ。絵画、写真、立体、コラージュや音楽パフォーマンスなど多彩な表現を展開する。Take Ninagawaでの個展『貼貼貼貼 (Shell & Occupy 4)』が11月28日まで、また富山県近代美術館での参加グループ展『I BELIEVE—日本の現代美術』が11月29日まで開催中。旧作に交え、昨年発表した『貼』シリーズ(1〜3)の全作を展示中。また、文芸誌『新潮』にてエッセイ「見えない音、聴こえない絵」を連載中のほか、宮内勝典による新聞連載小説「魔王の愛」(東京新聞ほか)では挿画を担当している(2010年春まで)。

ART iTおすすめ展覧会:大竹伸朗:貼貼貼貼 (Shell & Occupy 4)
ART iTフォトレポート:大竹伸朗:貼貼貼貼 (Shell & Occupy 4)
ART iTパートナーブース:Take Ninagawa

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