内藤礼(2009年収録)

心の中で起こったことの儚さ、壊れやすさを静かに共有したい


ポートレート:永禮賢

ときに微かな空気の対流や水滴までも作品に変える繊細な作風のアーティストは、「ひとりずつ見せる」鑑賞形式で、国際舞台で物議を醸しもした。その創作の秘密、そして作品への思いを聞いた。

構成:編集部

―― 1991年、東京の佐賀町エキジビットスペースで発表された「地上にひとつの場所を」は、会場内に吊られたテントの中に、植物の葉や種、糸、針金などの細々としたオブジェが置かれた作品でした。鑑賞者はたったひとりで観ることが決められていて、一般的な鑑賞方法から得るものとは違う体験がありました。その原型となる作品は、たしか学生のときに作られたとか。

はい。作品と言えるものを初めて作ったのは、デザインを専攻していた美術大学での卒業制作でした。教室の電気を消して、パネルで囲った中に、机をふたつ並べて台座を作って白い布を被せ、照明を左右の低い位置から当てて、真っ白に塗った竹ひごや紙、ビニール、ビーズ、リボンなどをシンメトリーに配置して、祭壇のような小さな風景を作りました。自分ではそれがアートだとは意識せず、ただ、精神的な場所、つまり、自分がそこにいることが許されるような場所を作りたいと思ったときに、なぜか箱庭のような風景になって。周りの人に「これはアートだよ」と指摘されて気が付くという、ちょっとおかしな流れでしたが。

―― 心理療法のひとつに、箱庭療法というものがありますね。

当時、その意識はなかったと思いますが、「見ること」と「その内部に自分がいること」とが自然に結びついていたのかもしれません。人間や、人間の生の全体を、地上から遠く離れて空から見下ろしているような垂直の視点は、物理的な意味だけでなく時間的な距離も含めて、いまだに作品の中にあります。振り返ってみれば、当時から何も変わらず、ひとつの作品を作り続けているようにも思えます。

ひとりずつ見せる初めての作品となった「地上にひとつの場所を」では、外界を一切忘れるような、ある種、非日常の空間を作りました。これは、ひとりで制作している途中、友達が部屋に遊びに来たときの出来事がきっかけとなっています。作品が、ひとり他の人がいるだけでまったく違うものになったんです。実際に表情や肉体が見え、他愛もない言葉も出ますよね。すると、ひとりで作っていたときには存在していたはずの、アートの純粋で深い部分にあるものが全部消えてしまったと感じたのです。そういうわけで、そこにいるのはひとりずつであるべきだろうと思い、内と外を隔てているものがちょっとずつ変化しながらも、しばらくはそういった作品が続きます。


「matrix」2007年 入善町下山芸術の森 発電所美術館
写真:畠山直哉

他者とともにいることの幸福

―― フランクフルトのカルメル会修道院で97年に展示した作品「たくさんのものが呼び出されている」が転機になった、と過去におっしゃっていましたね。どういう作品だったんでしょうか。

修道院の中の、10 x 30mくらいの細長い、元は食堂だったという部屋が会場で、長い壁面の全体に、カルメル会の歴史と、聖書の中のその修道会に関わる場面で構成された大きな壁画が描かれていました。異教徒に迫害される残虐な場面や、聖書に書かれた奇蹟などが描写されているのですが、下見で何日か過ごしていたとき、その中に仮にシンボルとして描かれた人はみな現実に死者なのだ、と感じたんです。実際には、すでに修道会としての機能はなかったのですが、描かれた死者である他者が、ひとりひとり私と同じ生命を持っていた存在としてリアルに感じられて、同時に、修道院で暮らした人々のことを思いました。描かれた人数を数えたら、だいたい304人。彼らにひとつずつ、手のひらに乗るような小さい枕を作りました。この作品もひとりずつ入ったのですが、他の人の気配、存在を感じるために7つの席を用意して。実際に誰かそこにいるかもしれないということではなく、世界には自分以外の人間がいるということを思い出してみたかったのだと思います。

―― その枕にはどういった意味が込められていたのでしょう。クリスチャン・ボルタンスキーやレベッカ・ホーンの一部の作品のように、鎮魂のためですか。

そうですね。鎮魂という要素もあるし、死者も自分自身もその場所なり、地上に呼び出されているという感覚もあります。先に生きて亡くなった人とも、これから生まれてくる人とも、私の次にその部屋に入ってくる人とも、無縁ではなく結ばれていて、名残惜しいけれど、皆、ある日、地上から去って行くものだと。

この作品では、実感を持って、「他者はいないのではなく、いるんだ」ということの幸福を初めて感じたんです。自分はこの世界にいるのか、ということを自分だけを通して知ることは難しいのだと、だんだんと気づいたのかもしれません。

すべてはすでに与えられている

――2001年には香川県、直島の家プロジェクト「きんざ」で、恒久設置の作品「このことを」を発表されました。古い家屋全体が作品となっていて、壁面の下側にはスリットが入って外の景色が少し見える。目の前のオブジェを観ることに集中した「地上にひとつの場所を」とは、また違う印象がありました。

まず、その家の天井と床を剥いでもらい、隠れていた生々しい土が見えたときに、当たり前だけど、土の上に家が建っているという事実に気づいて。誰のものでもない土地が普遍的な場所に見えたんですね。この大地の発見から、足下が見えることを考えて作りはじめ、そこから偶然入り込んでくる光や音、人の気配や日常をそのまま受け入れる作品にしようって思ったんです。それまでは、光がコントロールされた安定した風景の中で、外界を忘れることで自分の世界を思い出す、という構造だったのが、むしろ、ひとりになることで外の世界があることを知る、という真逆の構造の作品になりました。

この作品で、作るという姿勢に自分の中で変化が起きたように感じます。「作る」ことは、作り替えるとか、ゼロから新しいものを生み出すということではない。すでにすべてが与えられていて、目の前にあるものの中から何に気づくか、そこで何を見い出すか、という行為だと思ったんです。

――内藤さんの作品からは、村上春樹の短編「午後の最後の芝生」のように、主が亡くなったために不在となった部屋に自分がいるという感覚も受けます。

不在であり、静かな共有という感じであってほしいと思っています。「きんざ」の中にいるとき、自分以外の全人類がこの外にいる、ということに気づくんです(笑)。孤独で寂しいときに気づく、ひとりぼっちとは違うんですよ。全世界と、いまの時間を一緒に過ごしているんだという発見がある。反対に、外から「きんざ」の家を眺めると、中にいる人が何を見て何を思っているかは誰も知ることはできず、観終えた後も、あえてお互いに聞かなかったりする。そういった、ひとりひとりの心の中で起こったことの儚さ、壊れやすさみたいなものを、そこに居合わせた人たちも、一緒に大事に記憶に残していく、というような共有でしょうか。みんなと仲良く一緒にいるときの共有とは違う種類の、静かな共有なのだと思います。

――2005年の作品「地上はどんなところだったか」は、死者や他の生き物の眼差しで地上を見るというコンセプトですね。他者である死者が考えていることを我々が想像するのか、あるいは、我々が自分の死後に未来から振り返っているのか、どちらでしょうか。

どちらも同じだと思います。でも、生きていながら死者になること、自分というものの幅を遠くまで広げていくことが大切なんじゃないかな。例えば、テレビでクジラの泳ぐ映像を見ているときに「いま私は、あのクジラなんじゃないか」と、瞬間的にそれがリアルに感じられたり、考えることって自分次第で無限にできるんです。

地上の生は祝福されているのか、ということは、私の中でずっとテーマとしてあり、答はないのですが、「どんなところだったか」と思うことは、このテーマにとってふさわしい方法のひとつであるような気がして。物理的な距離だけでなく、意識や時間を遠くに飛ばし、自分がここにいながらにして自分を離れて生の全体を外から見つめるということです。

――その後に続く作品も、やはり同じ考え方の延長線上にあるんでしょうか。

「このことを」で、光や風景のような動くものに身を任せて、自然をそのまま受け入れるということの豊かさ、幸福感を感じました。変化して次に何が起こるかわからない偶然が入り込むことに、注目をしはじめて。「アニマ」、つまり、私の中では魂というよりは生気と感じるものを、作品の中に重要な要素として取り入れていきました。

06年、愛知県の佐久島での個展では、作品「タマ/アニマ(わたしに息を吹きかけてください)」で初めての野外展示をしました。海辺の岩礁で水路に海水をすくい、息を吹きかける。海や空へ向けて息を「送り返す」という、与えられたことの返礼と、生気についての作品です。また、その島に伝わる貝紫染(かいむらさきぞめ)という、貝で染色する技法を知り、作品に使いました。死んでしまった貝の分泌液から、美しいピンク色が他のものに乗り移る。昔の人はこういうときにアニマ、精霊を感じたのではと実感できて、うれしかったんですよね。

私にとって制作とは、自分のいる世界を、そういう風に実感を持って知っていくということなんです。地上はどんなところだろう? と。言葉は知っていてもそれが何なのかは、自分で腑に落ちていかないと私に世界はないようなもの。これまで生きてきた人々が感じたからこそ言葉になって残っている、と考えると、自分がそれを実感できたら、これも静かな共有だと言えると思う。自分の中にたくさんの人がいると感じられることは、地上の幸福のひとつかもしれません。


左:「tama / anima」2006年 右:「the spirit / tsubute」 2005年佐久島弁天サロン、愛知
写真:畠山直哉

世界につながっていることを感じたい

―― 07年に富山県、発電所美術館で開かれた個展『母型』で、どこかに書かれているというアルファベットを探しても見つからず、先ほど伺ったら「本当はなかったかもしれない」とおっしゃっていましたよね。内藤さんは実は「意地悪な」作家なんじゃないかとも思えてきます(笑)。

その「意地悪な」作品は、しずくが天井から滴るメインの作品を設置しているときに、ふと思いつきました。その瞬間は、いまでも忘れられないくらいものすごくハッピー(笑)。ある言葉が生まれて、それをアルファベットにしてバラバラにわからないくらいに書いてみようと。いろんな痕がすでにたくさんあるその床に書いたかどうか、本当のことは私しか知らないし、何が書かれたかは明らかにしていませんが、作品としては存在しているんです。子どもが見つけたとも聞いたけど、それは見間違いかもしれないよ、と。

なぜ、そんな作品を作ったかというと、すぐには気づかないことや、よくわからないことを大事に思っているからです。人は何でも把握できる、と思うのは違うんじゃないかという批評的な態度からきているかもしれないけれど(笑)。世界はそんなに単純なものでは絶対にないし、時間をかけて気づいたり気づかなかったりする、そのすべてに自分は包まれているわけです。さっきまでの話ともつながるけれど、自分は世界とつながっている、無縁に、遊離してここにいるわけじゃないんだということを、逆に感じたいのだと思います。

――『母型』は、最初の内はそこに何があるかすらわからない空間内で、時間をかけて「気が付いていく」という作品。見つけられないものがあっても、「私は内藤礼が創った世界の中に暖かく迎えられたんだ」と感じました。観客がその中に入って全部わかる必要はないんですね。

私の作品は、意味を読み解く作品ではないと思っています。ひとつひとつを読み解いて、「了解、了解」って思って展覧会から帰っていくものではないところにあるアートというものを、たぶん探しているのです。

―― 近年はインスタレーション作品が多いですね。作品が残されているのは「このことを」ぐらいで、あとは会期終了とともに解体されてしまう。作品を残したいという気持ちはありますか。

展覧会の形式で発表するからには、一定期間だけしかそこにない、ということに、私の意図は入り込めないのです。目の前に存在しているものを解体していくときは、いつも理不尽だと感じますね。とても良いものがそこにあると思っているわけだから、非常にむなしいです。音楽のように楽譜があると後世の人が関わっていけるし、演劇や文学にしても、時代が変わっても多少なり近い体験ができるけれど、美術作品は本当に儚いですね。その儚さをよく知っているのに、私の作品は、人が気づくか気づかないか、見えるか見えないか、明らかではないギリギリのかたちをしている。儚くてどうしようもない気持ちになるようなものをつくっているのです。


「untitled (matrix)」2008年 インスタレーション(横笛庵、三渓園、横浜)
写真:畠山直哉

※このトークは2008年11月26日、京都造形芸術大学で、同大ASPコースの主催により行われた。

ないとう・れい

1961年、広島県生まれ、東京在住。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒業。ドローイングや写真などのほか、繊細な素材による造形作品を配置し、空間全体を取り込んだインスタレーションを制作する。97年、第47回ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館代表として「地上にひとつの場所を」を展示し、ひとりずつ鑑賞させる方式を取り、議論を呼んだ。横浜トリエンナーレ2008では、三渓園内の茶室を舞台に、コンロの熱による空気の対流で天井から吊った糸とビニールが動くインスタレーションを発表。現在、神奈川県立近代美術館鎌倉で個展を開催中(1月24日まで)。2010年の「瀬戸内国際芸術祭」開催に合わせ、瀬戸内海の豊島(てしま)に新たな作品空間をオープンさせる。

初出:『ART iT 第23号』(2009年3月発売)

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