高嶺格:[大きな休息]明日のためのガーデニング1095㎡
2008.11.29 - 12.24
せんだいメディアテーク ギャラリー4200
文:山岸かおる(編集部)

Big Stop, 2008
Installation view and scene from tour
巨大なチューブの柱が突き抜ける広大なギャラリーに、「大きな停止」という異空間が立ち現れた。このインスタレーションは、目の不自由なボランティアの人たちを案内人とするツアー形式でのみ鑑賞を許される。暗闇にリコーダーの単調な音色が響き、ゆっくりとした太鼓の打音に合わせて点滅する光に浮かび上がったのは、屋根と柱だけの小屋、錆びた自転車やトタン、着物、そして古びた家財などを組み合わせたもの。目を凝らしてそれらが何なのかを見出そうとするが、意味や記憶は抜き去られ、みな等価で単なるモノと化している。案内人に促され、油粘土や古い毛布の表面に触れてみると、かつて子どものころに感じた、純粋に快い感覚が蘇る。目の見えない人が対象を認識するのにはまず「触る」ことなのだ、と気づいた瞬間、意味を読み取るのをやめ、未だ名付けえぬ世界に身を委ねた。展示が終わりに近づくころ、案内人は1本のビニール製の水道管に刻まれた点字に触れながら、ある民家の歴史――竣工、増築、そしていつ解体されたかを、読み上げてくれた。そこでやっと、この作品が民家を解体して出た廃材や家財を組み合わせてできていることがわかる。そして最後に我々を民家の基礎を配した一角へと導き、秘儀のように、コンクリートの表面に刻まれた何かを読み取る手つきでなぞった。だが今度はそこに何が書かれていたのかは知らされることなく、無力感ともどかしさを抱えたままツアーは終了した。
企画の趣旨は、システム化された現代社会において、アートもまた消費サイクルの中に組み込まれているという側面に目を向け、改めて現在におけるアートの役割を問うものだ。アートを自明のこととしない姿勢は、ファインアートを常に扱うわけではないこの施設の性質にも因る。別スペースに展示された「God Bless America」「Baby Insa-dong」など過去の作品にも見られるように、高嶺はアメリカの独裁主義や在日韓国人との関係など、向き合うには痛みを伴う問題を(後者においては当事者として)血肉化し、作品へ昇華させてきた。今回は物質過多な現在において、作家として作品を作るという根源的な意味を自問しているようだ。視覚と、触覚や聴覚などその他の感覚を等価にし、見てわかったつもりになりがちな、視覚偏重の認識のあり方を自ら問い直す機会となった。
初出:『ART iT』 No.23 (Spring 2009)
せんだいメディアテーク ギャラリー4200
文:山岸かおる(編集部)

Big Stop, 2008
Installation view and scene from tour
巨大なチューブの柱が突き抜ける広大なギャラリーに、「大きな停止」という異空間が立ち現れた。このインスタレーションは、目の不自由なボランティアの人たちを案内人とするツアー形式でのみ鑑賞を許される。暗闇にリコーダーの単調な音色が響き、ゆっくりとした太鼓の打音に合わせて点滅する光に浮かび上がったのは、屋根と柱だけの小屋、錆びた自転車やトタン、着物、そして古びた家財などを組み合わせたもの。目を凝らしてそれらが何なのかを見出そうとするが、意味や記憶は抜き去られ、みな等価で単なるモノと化している。案内人に促され、油粘土や古い毛布の表面に触れてみると、かつて子どものころに感じた、純粋に快い感覚が蘇る。目の見えない人が対象を認識するのにはまず「触る」ことなのだ、と気づいた瞬間、意味を読み取るのをやめ、未だ名付けえぬ世界に身を委ねた。展示が終わりに近づくころ、案内人は1本のビニール製の水道管に刻まれた点字に触れながら、ある民家の歴史――竣工、増築、そしていつ解体されたかを、読み上げてくれた。そこでやっと、この作品が民家を解体して出た廃材や家財を組み合わせてできていることがわかる。そして最後に我々を民家の基礎を配した一角へと導き、秘儀のように、コンクリートの表面に刻まれた何かを読み取る手つきでなぞった。だが今度はそこに何が書かれていたのかは知らされることなく、無力感ともどかしさを抱えたままツアーは終了した。
企画の趣旨は、システム化された現代社会において、アートもまた消費サイクルの中に組み込まれているという側面に目を向け、改めて現在におけるアートの役割を問うものだ。アートを自明のこととしない姿勢は、ファインアートを常に扱うわけではないこの施設の性質にも因る。別スペースに展示された「God Bless America」「Baby Insa-dong」など過去の作品にも見られるように、高嶺はアメリカの独裁主義や在日韓国人との関係など、向き合うには痛みを伴う問題を(後者においては当事者として)血肉化し、作品へ昇華させてきた。今回は物質過多な現在において、作家として作品を作るという根源的な意味を自問しているようだ。視覚と、触覚や聴覚などその他の感覚を等価にし、見てわかったつもりになりがちな、視覚偏重の認識のあり方を自ら問い直す機会となった。
初出:『ART iT』 No.23 (Spring 2009)
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