マーティン・クリード

2009.5.23-7.20
広島市現代美術館
http://www.hcmca.cf.city.hiroshima.jp/web/index.html

文:大島賛都(サントリーミュージアム[天保山])


『マーティン・クリード』展示風景 2009年
Courtesy 広島市現代美術館 撮影 表恒匡

よくぞこの展覧会を実現できたな。これが会場に入って数歩歩いた時点での私の正直な感想である。なにしろ、空間がスカスカ。正方形のパンチカーペットを積み上げただけの「作品番号100」、サボテンの植木鉢を背の高い順から低い方へと並べただけの「作品番号960」、あるいはA4の紙をくしゃくしゃに丸めただけの「作品番号126」などが導入部に並ぶ。「国際的に重要な英国ターナー賞受賞者の個展」に惹かれて足を運んだ人は戸惑いを覚えるかもしれない。それは次室での作品において決定的となる。「作品番号227」では、何もない部屋の照明がただ、点いたり消えたりするだけ。作品が示す意味や表現性はそれにつぎ込まれた作家の労力と時間に比例する、と思い込んでいる人がいたならば、作家の「手抜き」を間違いなく感じるはずだ。だがしかし、しばらくするとある驚きが沸き起こってくる。この「作品密度」が低い空間に身をおきながらも、不安や居心地の悪さを感じることがないのだ。美術館の大きな展示空間が、明確な方向性をもった意思に満たされ、緊張感を帯びている。違和感は快感となり、そして感動となって心をつつみこむ。必要最小限のささやかな方法によって、最も適切な効果をもたらしむること。その核心は、あらゆるものの平等と規則性への言及だ。そこには「加えること」への誘惑とは無関係な、達観した禅的な境地のようなものさえ垣間見える。

 クリードの手法は、かつてのミニマルアートとは似て非なるものだ。ミニマルアートが形態の純化と繰り返しによって客体化された美を求めたのに対し、クリードの手法は、いわば水の中にインクをポトリと落としたようなものか。インクが水の中を拡散し、その「場」に作用を及ぼす。ポツンと空間の隅におかれた格好の作品は、それが対面するあらゆるもの、鑑賞者、空間、社会、倫理規範、はたまた美術の価値観といったものとかかわりを持ち、それらに対して意味作用を及ぼす。それは空間の物理的な変容によるものではなくて、鑑賞者が自らの意識のうちに作家の呼びかけを受け止め、その影響の下、その場にたたずむ自身のありのままの状態を受け入れることによって成り立っている。そして、嬉しいことに、それは、穏かな優しさと美しさに満ちていて、とても心地良いのだ。このクリードの芸術を評価することができる主体の存在(鑑賞者などの受け手および美術館やメディアなどの送り手の双方)を、私は素直に素晴らしいと思う。そしてこの展覧会を日本で実現させた広島市現代美術館のキュレーター・チームに心から賞賛を送りたい。

ART iT 動画インタビュー:マーティン・クリード1・2・3

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