APT 6

第6回アジア=パシフィック・トライエニアル
2009年12月5日(土)〜2010年4月5日(月)
クイーンズランド・アートギャラリー、ギャラリー・オブ・モダン・アート(ブリスベン)
http://qag.qld.gov.au/exhibitions/current/apt6

文:小崎哲哉(編集部)


主会場のひとつ、ギャラリー・オブ・モダン・アート

1993年に始まり、今回で6回目。アジア太平洋地域のアートに特化したフェスティバルは成熟した姿を見せている。

ほとんどの国際展と異なり、アジア=パシフィック・トライエニアル(以下、APT)は特定のテーマを表立って掲げてはいない。だがそれは、例えばトレーシー・モファットとゲーリー・ヒルバーグによる映像作品に明らかである。作品名は「OTHER」(他者)。これこそがAPTの変わらぬ主題にほかならない。

それは、開催地オーストラリアが移民国家だからという理由のみに因るものではない。国を超え、アジア=パシフィックという地域を超え、異文化の理解と他者との共生は地球規模の課題となっている。モファット&ヒルバーグは、古今東西の映画の断片をモンタージュするというお得意の方法を用いているが、作品には『戦場のメリークリスマス』におけるデヴィッド・ボウイと坂本龍一のキスシーンを含む、異文化の軋轢と受容、そして和解の情景が多数含まれている。それを「現実の反映」と見るか、「理想化された虚構」と受け取るかは、観る者が楽観的か悲観的かによって異なるだろう。コップの半ばまで入れられた水は「まだ半分も残っている」のか、「もう半分しか残っていない」のか?


トレーシー・モファット、ゲーリー・ヒルバーグ「OTHER」2009年 DVD Courtesy the artists

同じ疑問は、参加国の数に対しても呈されうる。計25ヶ国(総勢100作家以上)。チベットや北朝鮮ばかりか、トルコやイランの作家、さらにはヴァヌアツの集合的な「彫刻家」までが紹介されている。これだけの「他者」を一堂に集めることによって、地域の多様性が表されると言いうるか。むしろ、ひとくくりにすることが不可能であるがゆえに、「他者」の「他者性」ばかりが強調され、展覧会はばらばらで一貫性のないものに映りはしないか。

だが、この心配は杞憂と言うべきだろう。少なくとも筆者は、APTの方向性を楽観的に捉えている。強いて言えば、上述したヴァヌアツの「彫刻家」の「作品」が、あるいはパシフィック・レゲエという「地域の音楽」が、現代美術という枠組に収まりきらないことにかすかな違和感を覚えた。オセアニアで開催される現代美術展にこうした展示/公演が含まれるのは、アファーマティブアクション(マイノリティーに対する差別の撤廃措置)的な配慮によるものと思えなくもない。とはいえ、これも最終的には楽観的に捉えたい。「非欧米地域における『アート』とは何か?」という疑問を引き出すきっかけとなりうるからだ。APT6の主任キュレーター、スハニャ・ラフェルは「私たちは地域の歴史から生まれた地域の芸術形態を尊重している。何がコンテンポラリーであるかについて特定の定義を強要したりはしないんです」と語っている。


ヴァヌアツの彫刻群

17作家が参加した、子供のためのプログラム『Kid’s APT』の充実ぶりもすごい。入場料は無料だし、260ページでCD付きの展覧会図録もよくできている。ラフェルが「地元の観客のためにキュレーションを行っている」と語るように、地元に完全に定着した啓蒙普及型のフェスティバルだと言えるだろう。一方でそれは「カッティングエッジなものが少ない」という批判を産みかねないが、そんな批判をものともしない強さが、展示の全体から感じられた。


キッズプログラム会場風景

それは、十数年に及ぶ経験値とノウハウが確実に蓄積・継承されているからだろう。開催前のリサーチ期間が場合によっては3年以上に及ぶ(すなわち、次のフェスティバルが始まる前に「次の次」の準備が進められている)という、贅沢な手法に因るところももちろん大きい。クイーンズランド・アートギャラリーの客員キュレーターで、APTの業務にも関わった飯田志保子は「リサーチの結果はすべてレポートを書いて残されている。学芸的にきちんと精査されていると感じた」と語る。コミッションワークや、展示後に作品を買い取るケースも少なくない。展示設営技術もきわめて高い。好調な地域経済に助けられていることは事実だが、ともあれ他の都市が範とすべき「フェスティバルの作り方」だ。

個人的に最も感動したのは、会場のいちばん端にひっそりと展示されていたシュシ・ スライマンの作品だった。家族を写したファウンドフォトに、葉っぱや昆虫の死骸を貼り付けたり、水彩でドローイングを施したりした数十点のコラージュ。マレーシアの近過去の写真だろうから、共同体を異とする観客にとって、被写体は「他者」であるにちがいない。

それでも、観る者はそこになにがしかの郷愁と共感を覚えうる。それは、他者が他者でありながらも、「完全には」他者となりえないからではないか。我々自身の中にも「他者」は存在する。そしてその「他者」は、実はコップの半ば以上あるのかもしれない。


右:シュシ・ スライマン「Masculine moth’s eye」2009年
紙、油彩、写真 6.9 x 8.9cm Image courtesy the artist
左:上記展示風景

ART iT公式ブログ:飯田志保子
※飯田さんが14回に渡って詳細なAPTレポートを記しています。ぜひご一読下さい。

Copyrighted Image