2010年記憶に残るもの ART iT

マルレーネ・デュマス 『Against the Wall』
『マイ・フェイバリット——とある美術の検索目録/所蔵作品から』
『Rehabilitation』
森村泰昌『なにものかへのレクイエム』
石上純也の活躍
木村友紀『無題』
クリスチャン・マークレー 『The Clock』
『FRESH HELL』
フェスティバル・トーキョー10
ウィリアム・ケントリッジ

マルレーネ・デュマス 『Against the Wall』
デイヴィッド・ツヴィルナー、ニューヨーク
2010年3月18日–4月24日


Marlene Dumas – installation view of “Against the Wall” at David Zwirner, New York, 2010, photo ART iT.
ニューヨーク、デイヴィッド・ツヴィルナーにおけるデュマスの初めての個展『Against the Wall』における「wall」は、イスラエルとパレスチナの間に横たわる壁をさす。壁の前で行われる様々な出来事、壁につなぎ止められたかのように存在する武装した兵士、さらには壁そのものを描いた絵画作品が展示された空間はあたかも壁がそこにあるかのような緊張感を生み出していた。その一方で壁の前を歩くアーティスト本人を描いた作品およびセルフポートレートも、共に展示されており、忌避したい事実を描くことしかできない立場におかれたアーティスト自身の姿と、それを見ることしか出来ない鑑賞者である我々がどちらも力のない第三者であるという顕然たる事実を突きつける展覧会であった。

『マイ・フェイバリット——とある美術の検索目録/所蔵作品から』
京都国立近代美術館
2010年3月24日–5月5日


『マイ・フェイバリット——とある美術の検索目録/所蔵作品から』展
(2010) 展示風景 画像提供: 京都国立近代美術館

京都国立近代美術館の所蔵作品といくつかの寄託作品のみで構成された大規模な所蔵作品展。同美術館が所蔵作品を分類する際に用いる【その他】という種別に焦点を当て、約1万点の所蔵作品の中からおよそ300点の作品と資料を展示した。作品を時代・分類・作家などの区分ではなく、全作品を熟知する者ならではの明記されないテーマに沿って展示したことにより、ひとりひとりの鑑賞者が各々の視点から作品間の関係性について考えることを積極的に促し、企画した河本信治の言葉を借りれば、各々が「近代美術史とは別の物語」を発見することを展覧会の目的としている。会場のキャプションには技法の代わりにその作品の分類が記されており、その作品はなぜその分類なのかという議論など、美術館における作品の分類についての考察も促した。この姿勢は序文以外の文章を一切排除し、ただひたすら詳細データを並べインデックスに徹する展覧会カタログにも見られる。同カタログは所蔵作品目録も兼ねており、過去の展示風景写真なども収録されている。
鑑賞者自身の考証を求める展覧会故に「敷居が高い」と一部から批判の声も向けられたようだが、複数回足を運ぶ来館者も多く、ツイッター上でも感想などの活発なやり取りがあらゆる背景の人たちの間で行われた。また、出品作品には大掛かりなビデオインスタレーションやこまごまとした資料など、展示される機会の少ないものが多く含まれ、京都国立近代美術館のコレクションの奥深さを知る機会にもなった。何よりも、所蔵作品展のあり方について再考させられる展覧会であった。

Lecture @ Museum
『マイ・フェイバリット』展関連企画 やなぎみわ×河本信治対談

『Rehabilitation』
2010年5月29日–8月15日
WIELS、ブリュッセル


Alexandra Leykauf – installation view of Untitled (2010)
2007年にブリュッセルにオープンした現代美術センター、WIELS(ウィールズ)は1930年頃に建てられたモダニズム建築である元ビール工場の建物を再利用している。『Rehabilitation』はそうした元工場という工業的建造物を使った美術空間に対する考察となる展覧会であった。
同じスペースで工業と芸術というまったく異なる機能を果たすことを通して、空間に対する問題意識や疑問からスタートしたこの展覧会は、モダニズムの理論や形式、建築物などにインスピレーションを受けた若手アーティストによるグループ展である。建築物がどのように再生可能か、また改装できるのか、異なる目的で使用可能かということを、鑑賞者自身が作品を通して身体と頭を使って検証していく。この展覧会に先立って行われたフェリックス・ゴンザレス=トレス展のインスタレーションビューをモノクロで等倍に引き延ばしたアレクサンドラ・レイコフの巨大ビルボード作品は、同じ空間の過去/現在ふたつの時間を共存させるものであった。アルマンド・アンドラデ・トゥデラの小さな彫刻作品は、しばしば建築資材としても使われるコンクリート、色のついたアクリル、アルミ棒を組み合わせており、少しだけデザインされた商業建築の簡易模型にも見える。
『Rehabilitation』は、建築やインスタレーションについての展覧会でありながら、そうした展覧会にありがちな説明的な要素は一切ない。ほとんど空にも見える展示空間に同化して、もしくは不自然に存在する作品は、装置のないインスタレーションであり、メカニカルであるが装飾的でなく、建物の特性を最大限に生かしながら、まるで影のようでもあった。オリジナルで身体的な作品でありながら、シミュラークルにも見える。折しも同時期、パリ、ポンピドゥー・センターで開催されていた『Dreamlands』が、都市計画についての情報に溢れた極めて啓蒙的かつ実証的な展覧会であったため、学ぶというよりは感じる、空間再生の展覧会にこれまでに見たことのない、新しい可能性を感じた。

出品作家: レオノール・アントゥネス、オスカー・トゥアゾン、アルマンド・アンドラデ・トゥデラ、ファルケ・ピサノ、トビアス・プトリー、マンフレッド・ペルニース、デヴィッド・マリコヴィッチ、アレクサンドラ・レイコフ、Up(クーンラード・デドベレールとクリス・キンペ)

image credit: Alexandra Leykauf – installation view of Untitled (2010) in the exhibition “Rehabilitation” at Wiels, Brussels, 2010, photo © Michael De Lausnay, courtesy the artist

森村泰昌『なにものかへのレクイエム』
2010年6月26日–9月5日
豊田市美術館


森村泰昌「独裁者を笑え/スキゾフレニック」(2007)写真 福永一夫 画像提供 豊田市美術館
2010年3月に東京都写真美術館で行われ、現在広島市現代美術館に巡回中の森村泰昌の個展。美術館の空間と作品の組み合わせにより豊田市美術館での展示が最も印象に残った(現時点では兵庫県立美術館での展示はまだおこなわれていないため、比較対象にはしていない)。ひとつの展覧会である以上、展覧会としてピックアップすることも検討したが、展示空間に明らかな差があったこと、また鑑賞者に配られるレクイエムシリーズ、女優シリーズ双方についての詳細にわたる解説シートが、鑑賞者の解釈を拡張しようとするキュレーターの熱意が感じられたため、ここでは豊田市美術館の展示を取り上げる。
豊田での展示について、印象に残る点はいくつもあるが、大きな空間を十分に生かしうまく作品を点在させた展示、暴力性を強調する「独裁者を笑え」の巨大プロジェクション、また豊田市美術館の展示だけとなった女優シリーズとの同時展示も、森村が如何にレクイエムシリーズに行き着いたかというプロセスを理解するうえで極めて有効であった。
自身の個人史に基づいていることから、元となる写真の選択は決して普遍的なものではない。しかしながら、その選択は美術史を通して常に歴史という時間軸を写真や映画といったメディアを通して考察してきた森村ならではの視点とも言える。三島由紀夫という強烈な個性を持つ人物になることからスタートしたシリーズが、最後に無名の兵士で終わる作りはいささか政治的正義がすぎる感も否めぬが、アーティスト自身にとっても大きく意味を持つシリーズを進めていくうちに生じた心境の変化と捉えると、作品の主題となっている歴史の時間とはまた別の、現代に生きる作家の現実時間も感じられ興味深い。

関連記事: レビュー(東京会場)フォトレポート(愛知会場)森村泰昌とのインタビュー仲正昌樹「『私』を構成する映像」

石上純也の活躍


石上純也展「建築はどこまで小さく、あるいは、どこまで大きくひろがっていくのだろうか?」
資生堂ギャラリー 写真 ART iT

今年は建築家にとって最高の栄誉のひとつであるブリツカー建築賞の受賞に始まるありとあらゆる称賛を手に入れた妹島和世と西沢立衛の年と言えるかもしれないが、妹島のもとで働いた経験を持つ石上純也の飛躍の年であったとも言えよう。資生堂ギャラリーと豊田市美術館でのふたつの個展でスケール感の大きく異なるプロジェクトに取り組み、またヴェネツィア・ビエンナーレで発表した「Architecture as air: Study for château la coste」で企画展示部門の金獅子賞を授賞した。建築の可能性に対する貪欲なまでの追求は緩むことなく、失敗を恐れず、非難に対しても動じないその姿勢が印象に残った。

『建築の新しい大きさ』豊田市美術館, 2010年9月18日-12月26日、フォトレポートpart 1, part 2

『石上純也展 建築はどこまで小さく、あるいは、どこまで大きくひろがっていくのだろうか?』

資生堂ギャラリー, 2010年8月24日-10月17日、フォトレポートpart 1, part 2

ニュース
石上純也個展 資生堂ギャラリーで開催 (8月23日)
石上純也 金獅子賞授賞 第12回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展(8月29日)

インタビュー
「拡張する透明性」(9月6日)

木村友紀『無題』
2010年9月5日-2011年1月11日
IZU PHOTO MUSEUM


木村友紀「無題」インスタレーションビュー 写真 市川靖史
画像提供 IZU PHOTO MUSUEM

昨年、杉本博司の個展を杮落しとして開館したIZU PHOTO MUSEUMは、今年も写真史家のジェフリー・バッチェンをゲスト・キュレーターに招いた『時の宙づりー 生と死のあわいで』を企画し、国内における写真に関する展覧会で独自の地位を築き始めている。そして、ヴァナキュラー写真を重点においた展覧会に続いて企画されたのは、次世代の注目すべき若手作家の美術館初個展であり、そこに抜擢されたのが木村友紀であった。

2009年の『POSTERIORITY』(大和プレス・ビューイングルーム)ではファウンド・フォトを脱構築するかのように引き延ばしたり、分割したり、写真の一部を彫刻(オブジェというべきだろうか)や絵画へと変換するといった試みを通して、ある種のコンセプチュアルな分析のための言語を築き上げようとしていた。
一方、本展ではそうして築き上げた言語自体を脱構築する方向へと向かっているようであった。従来と同じく中心的素材として扱われているファウンド・フォトは引き延ばされ、特異なテーブルなどに用いられている。それらは異なるオブジェや植物との接触を通して新たなイメージの位相へと鑑賞者を導き、慣習的な「見る」という行為に対しての抵抗をみせる。

すでに来年以降も水戸芸術館現代美術センターや国立国際美術館でのグループ展への参加が決まっている木村にとって、本展がある種の転換点となるかどうかは事後的にしか語ることができないが、展覧会および関連企画として行われた小説家の多和田葉子との対談を通して、木村の今後の展開も注目すべきだと思われる。また、首都圏や関西圏の美術館に比べ、地理的不利な条件はあるものの同美術館の今後の企画にも注目していきたい。

フォトレポート

クリスチャン・マークレー 『The Clock』
2010 年10月15日–11月13日
ホワイト・キューブ、ロンドン


Christian Marclay – The Clock (2010) © Christian Marclay, courtesy White Cube.
「Clock」(2010)は、数千にもわたる映画作品から、時計が映っている映像の断片を抽出し、現実の時間軸と対応するように編集した、24時間におよぶ映像作品である。2年間かけて制作されたこの作品は、作品中に現れる時間と現実の時間がまったく同時に進むように上映が行われるため、観客はつなぎ合わされた物語の断片を見ながら同時に現実の時間について常に意識することとなる。時計の画像を見ながら、映画の中で時がどのように使われているのか、映画というファンタジーを作り上げる脚本の中で時間や時間の経過にどのような役割があるのかといった映画における「時間」の考察ともなっている。秒刻みの映像編集に加え、効果音やサウンドトラックなど、映画のオリジナル音源を使って行われた音響編集も見事であった。
誰もが知っているハリウッド映画の有名作品から中東、インドを含むアジアのインディペンデント映画まで世界中の映画をほぼ網羅しているため、観客それぞれの出自に関わらず、誰もが個人的記憶を呼び起こされる。そのため、現実の時間にありながら過去の時間へと繋がる、重層的な時間を過ごすことができる。
マークレーは、すでに「Telephone」(1995)および「Video Quartet」(2002)などの作品で、映画を使ったエンタテインメント性の高い作品をこれまでにも発表している。今回の「Clock」はその集大成とも言える作品であり、コラージュの手法や、映画に対する考察と言ったこれまでに追求してきたテーマをより深め、映画の、さらには現実の時間考ともなる作品となった。
この作品は2011年、横浜トリエンナーレ2011に出品予定である。

クリスチャン・マークレーの「Clock」についてのインタビューはこちら

『FRESH HELL』
2010年10月20日-2011年1月16日
パレ・ド・トーキョー、パリ


Michael Landy, Market (1990) in the exhibition “FRESH HELL” at Palais de Tokyo, Paris, 2010, photo ART iT.
パレ・ド・トーキョーは、『Carte Blanche』(白いカード)というプロジェクトで若手アーティストに展覧会のキュレーションを依頼している。これまでにウゴ・ロンディノーネ(2007)、ジェレミー・ディラー(2008)がキュレーターを務め、3回目となる今回はニューヨーク在住のイギリス人アーティスト、アダム・ マキュエンがその任にあたった。
『FRESH HELL』と題された今回の展覧会は直接的に「死」や「地獄」を想起させる作品はあまり多くない。しかし読み解くにつれ怪談のようにじわりじわりと怖さが湧いてくる展覧会であった。第1室に展示されていたユダ王の頭像は、ノートルダム寺院にあった全身像からフランス革命時に首を切られた後、行方不明になり1977年にパリ市内で地下から発見されたという曰く付きの彫刻であり、その向かいにはルドルフ・スティンゲルのシルバーシートで覆われた壁作品「Untitled」(2003)が対峙する。スティンゲルのこの作品は観客にグラフィティを行うことを促すものであるが、革命時に行われた芸術に対する破壊行為が現代においては作品になりうること、民主主義の始まりが破壊行為に結びついていたことなどを暴きだす。その他にも亡くなった(もしくは行方不明になった)作家ジーノ・デ・ドミニチ、アナ・メンディエッタ、バス・ヤン・アダー)による、自らの死を予感させるような作品の展示も展覧会の文脈をうまく作り上げていた。ネット・ローマン、アガタ・スノウなどの若手作家の作品を組み入れながら、デビッド・ハモンズやマルティン・キッペンバーガー、サラ・ルーカスなど存在感のある彫刻を巧く配し、視覚的にも美しいインスタレーションを行った。美術史の知識に裏打ちされながらも、アーティストながらの新鮮な視点でいくつもの解読の可能性を秘めた見事な展覧会であった。

フェスティバル・トーキョー10
『わたしのすがた』
考案:飴屋法水 
2010年10月30日–11月28日

演劇と美術の領域横断的な取り組みはここ数年増加している。日本国内で行われた美術の国際展だけを見ても、横浜トリエンナーレ2008、今年行われたあいちトリエンナーレ2010、瀬戸内芸術祭などがこぞって演劇公演やパフォーマンス公演を会期中に行っている。
演劇側の取り組みとしては、2009年春より始まりこの秋、第3回を迎えたフェスティバル・トーキョー10の試みは素晴らしかった。やなぎみわの「カフェ・ロッテンマイヤー」、およびそこで行われた演劇公演、観客参加型のロジェ・ベルナットの『パブリック・ドメイン』、高山明の『完全避難マニュアル 東京版』他、劇場という箱を飛び出して行われた意欲的な公演が多く、充実したプログラムであった。
そのなかで特に印象に残ったのが飴屋法水による『わたしのすがた』である。配られる地図を手に空き家となった場所を訪れ、それぞれの場所が持つ物語を鑑賞者自身で読み解く/体験する、という作品である。振り返れば、こうした演劇と美術双方の領域横断の動きが始まる遥か以前より、飴屋は東京グランギニョルやその後の活動を通じて、演劇ファンだけでなく美術ファンを取り込んでいた。大崎の工場跡地に三上晴子と巨大なインスタレーションを作り上げておこなった公演『バリカーデ』(1987)にも見られるように、常に舞台装置の拡張を考え、演劇と美術に共通するある種の「一時性」を視覚的/聴覚的な仕掛けーー装置/インスタレーションーーを通して、観客に体験させていた。今回はそれがさらに場所の境界を飛び越えて物理的に拡張した公演(と呼べるかは不明だが)であった。
小さな運営上の不備(観客が予想より長く滞在することによる発生する行列や混雑など)、日本語に限定された資料が多いため鑑賞者が限定されるという側面はあったものの、総合芸術としての装置/インスタレーション、さらに主役が演者から鑑賞者へ、というどちらかと言えば美術的に見えるその装置は大胆でありながら繊細であり、手を加えた場所もつけていない場所も同じ緊張感で貫かれていた。天候や時間により見え方が変わるため、何度でも見なくてはいけないような気にさせる「展覧会」でもあったように思える。

ウィリアム・ケントリッジ
第26回京都賞記念ワークショップ思想・芸術部門『2, 3, 4次元パフォーマンスとしての多視的なドローイング』
京都国際会館
2010年11月12日


画像提供: 稲盛財団 2010.
『ウィリアム・ケントリッジ——歩きながら歴史を考える そしてドローイングは動き始めた……』展は2009年に京都国立近代美術館で開催された後、東京国立近代美術館、広島市現代美術館に巡回した。その際、京都と広島でレクチャー/パフォーマンスを上演、また、2008年にも京都と東京で展覧会準備のため来日した際にレクチャーを行っている。いずれもすばらしいものであったが、2010年の出来事として、11月12日に行われたワークショップを取り上げる。
ワークショップと謳っていたが、実際はアーティストによるパフォーマンスとも言える内容であった。映像作品で見られる手の動き、作品制作のマテリアルであるリサーチ用の映像資料、そして現在制作中の新作の一部の世界初公開をリアルタイムで目の当たりにすることで、彼の活動(アクティヴィティ)のすべてが作品となること、それはナラティブであってもフィクションでないこと、世界の歴史の一部でありながらも誰にでも起こりうるという意味で個人の歴史と交差するという事実がよりクリアに、鋭さをもって伝わった。さらには身体的な活動としてのドローイングといった言葉が現実に彼の身体を使って目の前でくりひろげられることにより、非常に重層的に、観客にとっても身体的に理解できるものであった。一流のアーティストであるとともに一流のパフォーマーでもあること、特別でありながら特別でないこと、そして個々人が抱え持つ矛盾は同時に両義的でもあり、そうした人間の本質が作品を作り上げているという美術の核心について掘り起こし提示してくれた希有な体験であった。パネリストの介入により、言語の問題、文化的背景を超えた相互理解の可能性も示した、長時間にも関わらず時間の経過を感じさせない非常に質の高いワークショップであった。

ニュース
京都賞にウィリアム・ケントリッジ(6月19日)
第26回京都賞 ウィリアム・ケントリッジ 記念講演会・ワークショップ開催(9月22日)

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