2011年 記憶に残るもの 藤原えりみ

「2011年記憶に残るもの」は何かと問われれば、なにをおいても東日本大震災。地震と津波の被害に加えての福島第1原子力発電所の事故。極東の最果てのこの島国で近代的思考の臨界が炸裂したという事実を反復しつつ、悶々と模索する日々が今も続いている。何を語るべきか、あるいは語りうることがあるのか否かを念頭に置きつつ、まずは震災通過後の「記憶に残るもの」から体験記憶を遡っていくことにする。


「TWENTY-FOUR BLASTS 2011」(展示風景) (2011). 東京都写真美術館 2011年, Photo: ART iT
畠山直哉展 『Natural Stories』
10月1日–12月4日 東京都写真美術館

自然と人間の息詰まるような関係性を冷徹な眼差しで追求してきた写真家が、直視しなければならなかった故郷・陸前高田市の風景に慄然とした。初期の「ライムワークス」から畠山が捉えてきたのは、「そこにある自然」に「いかに人類が介入し、その恩恵を受けながら文明を築きあげてきたのか」を問いかけるような、人為の痕跡を留めた風景であった。しかし今回の震災において、彼が直視しなければならなかったのは、自然は自然としての現存を人間に譲り渡すことはないという冷酷な事実。この事実を前に、「写真家としての表現コンセプトの統一性」など一体誰が問えるというのだろうか? いや、むしろ彼のコンセプトは一貫していると言うべきだろう。
出品作の中でも圧倒的だったのは、震災以前に制作されたと思われる「TWENTY-FOUR BLASTS 2011」。発破をコマ撮りした静止画像を連続して動画に仕上げた映像が展示壁面一杯に展開する。動画撮影ではないがゆえに、一瞬一瞬が網膜に刻印されていく。その連続画面を見ているうちに、メディアで流された津波の映像が脳裏に蘇ってきた。いずれも、常態としての物質の均衡状態を破る過剰なエネルギーが引き起こす現象だ(一方はダイナマイト爆発による人為的エネルギー、一方は地殻プレートの移動による(人間にとっての)破壊的な自然エネルギーなのだが)。
畠山の本意ではないかもしれないが、これは震災を経たことによって見る側の意識が変わってしまう事例の一例だと言えるだろう。「発破技師は岩石のネイチャーを深く理解している」と畠山は語っていた。自然は、その「ネイチャー」の非情な力を、今更ながら我々に突き付ける。陸前高田市の写真の対面に展示されていた震災以前の気仙川周辺ののどかな風景に、我々のささやかな日常が何によって支えられてきたのかを改めて思う。失われた多くの命に合掌。

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岩井俊二『friends after 3.11』
10月1日 24:00–26:00放映(スカパー!)/11月12日19:30–21:30放映(スカパー!)/12月30日以降、CS朝日ニューススターで4時間バージョンの放映予定あり
iwai shunji film festival:http://iwaiff.com/

仙台市出身の岩井俊二監督のドキュメンタリー映画。監督自身とナビゲーターの松田美由紀が、今回の震災以前から原発問題に言及している研究者・評論家・映画監督などを含め、震災を期に発言開始したタレントなどへのインタビューを中心とする内容。出演者は、小林武史、山本太郎、上杉隆、北川悦吏子、小出裕章、藤波心、岩上安身、武田邦彦、後藤政志、飯田哲也、田中優、鎌仲ひとみ、吉原毅、清水康之。取材される個々の人物の事前情報や監督自身の解釈は一切なし。映像は、今回の震災をめぐるさまざまな側面を淡々と伝える。 
果たして、ここに登場する人々が誰にとっての「真のfriends」でありうるのか。そんな疑問を抱きはしたのだが、ひたすら人々を追いかけ、発言を求める監督の姿勢は評価しておきたい(シンプルなインタビューでありながら、いやそれゆえに、語り口や語る視点が「その人物」の品格まで映し出してしまう点も含めて)。震災からさほど時を置かずに発信された藤波心のブログに心動かされた者の一人として、セーラー服で被災地に立つラストシーンの彼女の姿に違和感を覚えたことだけは記しておかねばなるまい(セーラー服は彼女の日常着であるのかもしれないが、岩井映画独特の思春期の哀しみ礼賛的な演出を感じてしまうがゆえに)。

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藤原敏史『NO MAN’S ZONE 無人地帯』
11月25日、東京フィルメックスコンペティション部門出品作品として上映/来年のベルリン映画祭でインターナショナル・プレミア上映の予定(現時点では国内配給は未定)

福島第1原発から半径20km圏内が立ち入り禁止になる直前に20km圏内に入り、その後も原発被災地に生きる人々を継続して取材したドキュメンタリー映画。アルメニア系レバノン系カナダ人の女優、アルシネ・カーンジャンの英語のナレーションをベースに、早春の福島の風景、津波の被害を受けて仮設住宅に移動した人々や、原発の恩恵をまったく受けずに農業に携わってきたものの避難勧告によって移住せざるを得ない人々、飼い主を失って彷徨う牛や犬が描き出される。こちらも淡々とした描写ながら、加藤孝信の精緻なカメラワークとバール・フィリップスの音楽によって、ナレーションや取材された人々によって語られる言葉以上のコノテーションが、抑制されたトーンのうちに潜む暗黙のメッセージとして伝わってくる。
ただし……。あまりにも福島の自然とそこに生きてきた人々を美しく描き過ぎてはいないか? 農耕民文化を日本の原風景として語る言説には明治以降に捏造された日本文化論(日本民族論・日本国家論)の罠が仕掛けられている。監督自身がどこまでそのような歴史の闇の消息を射程に入れていたのか、、、。現時点では、国内配給は未定だが、「日本人」に観て欲しい映画のひとつである。

『無人地帯』無料試写
2012年1月14日 13:30〜
いわき市 磐城緑陰中学校 視聴覚室
問い合わせ:錦つなみ基金(http://nishiki-tsunami.com/main/
※同時期に、郡山市、福島市などでの試写も検討されている

五十嵐太郎著『被災地を歩きながら考えたこと』
みすず書房、11月15日刊

著者は東北大学大学院工学研究科教授。東北大学は地震により甚大な被害を受けた。その実情と震災後の数ヶ月間精力的に各地の被災地を歩き撮影した写真とともに、さまざまなメディアに発表したテキストをまとめた一冊。建築史および建築評論という立場から、各被災地が抱える問題や復興に向けての行政の取り組みなどが詳細に検討されている。
なかでも、第3章「記憶」に収録された岩手県田老地区をめぐるテキストが興味深い。海面から10mを超える二重の防潮堤と陸側の防波堤という三重の防御壁によって守られていた地区だが、三重の防御壁は今回の津波に耐えることができなかった。著者は言う。「諫山創の人気漫画『進撃の巨人』(講談社、2010年)を思い出す。…中略…当初筆者は冷戦下の日本と自衛隊のアレゴリーとして読んでいたが、東日本大震災の発生は漫画の意味を変えてしまった」と。三重の壁によって巨人達の襲撃から守られ、100年間平穏な暮らしを送ってきた人類は、その壁を越えるさらに巨大な巨人の出現によって存続の危機を迎えるという筋立てだ。
土木工学の限界がフィクションと現実を媒介する。破壊された海辺の防潮堤の残骸とその周囲を無数に飛ぶカモメを捉えた著者による写真(p. 104–105)は、近代テクノロジーの限界が生み出したこの世の終末を思わせる風景でもある。3月11日、筆者は横浜トリエンナーレ記者発表東京会場である有楽町電気ビルの海外特派員記者クラブにいた。記者会見発表直前の揺れ。以後2時間ほどはビルの外に出ることを禁じられたのだが、フロントカウンターの上に設置された3台のTVモニターに次々と被災地の映像が映し出されていく。津波が襲う沿岸の上空を舞う鳥たち。重力の軛から解放された栄光の爬虫類を、これほど羨んだ経験はなかった。その記憶がまざまざと蘇る。

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やなぎみわ演劇プロジェクト vol.2「1924海戦」2011年, KAAT神奈川芸術劇場
やなぎみわ演劇プロジェクト 1924
第1部『1924 Tokyo-Berlin』 7月29日–31日 京都国立近代美術館
第2部『1924 海戦』 11月3日–6日 KAAT神奈川芸術劇場

第53回ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館代表作家であるやなぎみわによる演劇公演。築地小劇場とマヴォの活動に焦点を当て、近代演劇とアバンギャルドアートという西欧からもたらされたモダニズムの日本における受容の軌跡を問う野心作。
第1部は京都国立近代美術館で開催されていた『モホイ=ナジ展』の展覧会場を活用し、常設展示室に設けられたブースで上演。案内嬢によるモホイ=ナジの作品鑑賞ツアーから始まり、ブース前では、京都国立近代美術館所蔵のデュシャン作品(「折れた腕の前に」)を揶揄する案内嬢の見せ物小屋的前口上で観客を笑わせる。芝居そのものは、村山知義が築地小劇場立ち上げ準備中の土方与志を訪ねるところから始まる。土方がモホイ=ナジから村山に作品制作を依頼する手紙を預かってきたというフィクション設定を軸に、村山が新しい芸術に夢を託し邁進する様が描き出される。モホイ=ナジが発注芸術的な制作を行なっていたらしいという推定に基づいて、村山が電話で色彩配置の指示を出すシーンもある。その相手とは……岸田劉生(もちろんこれもフィクションである。客席にどっと笑いが広がった)。
本格的な舞台公演となる3部作のシナリオ執筆中に東日本大震災が起こり、やなぎの筆はしばらく止まったままだったという。想定外のシンクロニシティがやなぎの構想に与えた影響は大きかっただろう。築地小劇場は、関東大震災の翌年にオープンした。瓦礫の街に新しい芸術の場を創造する第2部の主役は、「赤い伯爵」と呼ばれた土方与志と、築地小劇場立ち上げに参画した小山内薫。旗揚げ公演の一演目であったラインハルト・ゲーリングの『海戦』の舞台を再現しつつ、芸術における前衛運動とプロレタリア運動の同時並行的展開、プロレタリア運動弾圧を強める国家、前衛演劇を通して社会の変革を図る土方の意志がめまぐるしく交錯し、築地小劇場の分裂や土方の行く末までもが暗示される。
第1部ではモホイ=ナジの村山宛の手紙がドイツ語で朗読されるが、第2部でも苦悩する土方に向かってメイエルホリドがロシア語で語りかけるシーンがある。ベルリンとモスクワ〜東京間の架空の対話が、西欧と日本/理念と現実/憧憬と絶望の間の果てしなき距離を浮き彫りにする。第2部は、切り絵によるタトリンの「第三インターナショナル記念塔」をホリゾントに映し出す土方の姿で幕を閉じる。その後の土方の人生を脳裏に浮かべるならば、この実現しなかったロシア革命期の理想的建造物の幻影がはらむ意味合いは複雑だ。西欧モダニズムは果たして日本に定着し得たのか否か——。
第3部は、来年開催される村山知義展の会場で行われる予定だという(「すべての僕が沸騰する 村山知義の宇宙」展@神奈川県立近代美術館・京都国立近代美術館)。モホイ=ナジ展〜築地小劇場〜村山知義展という円環が完結する。演劇界でどのように評価されているのかはわからないのだが、現代美術から演劇へと領域横断したことが、今後のやなぎの活動にどような影響を及ぼすのか、第3部の展開を含めて注目していきたい。

関連記事:インタビュー


エジプト館『30 Days of Running in the Space: Ahmed Basiony』 Photo: ART iT.
第54回ヴェネツィア・ビエンナーレ、エジプト館『Ahmed Basiony』展
6月4日–11月27日 ジャルディーニ、ヴェネツィア 

ヴェネツィア・ビエンナーレでは、未知のアーティストに出会う楽しみと醍醐味が味わえる。毎度のことながら、今回もさまざまなアーティストの作品に出会い、さまざまなアプローチやテーマ設定についてあれこれ考えながら走り回った。国際展では政治的なメッセージ性の強い作品が多いのだが、今回のヴェネツィアは特にその傾向が強かったという印象がある。
しかし、エジプト館に足を踏み入れたとたんに「アートにおける政治性」などという安直なフレーズが吹っ飛んでしまった。アハメド・バショーニー。海外アート情報に疎い筆者にとっては初めて知るアーティストだが、インタラクティブアートやサウンドアート制作活動を展開し、エジプトではデジタルメディアを駆使する現代美術家として知られている。
展示されていたのは2種類の映像のみ。横に長い壁面に、昨年このアーティストが行ったパフォーマンスの記録映像と、群衆で溢れたカイロのタハリール広場の映像が並列して交互に映し出されている。パフォーマンスは、「Thirty Days of Running in Place (interactive multimedia project))と題されたもので、透明プラスティックキューブの中で、センサーを装着したプラスティック製のスーツをまとったアーティストが1日1時間走る行為を30日間続けるというもの。発汗や歩数が記録され、そのデータが映像として壁面に映し出される。もうひとつの映像は、政権打倒のために立ち上がった人々の姿をアーティスト本人が撮影し、彼のパソコンに残されていた画像データによる未編集の映像だ。1月25日からデモに参加し、タハリール広場の出来事を記録していたアーメドは、1月28日、軍警察の狙撃手による銃弾を受け亡くなった。
エジプト館入り口の壁面には、彼がフェイスブックに最後に書き残した一文が書かれていた。”If they want war, we want peace, and I will practice proper restraint until the end, to regain my nation’s dignity.”(メモを取り忘れるという失態を侵したゆえに、正確ではないかもしれないが…。)ビエンナーレのプレビュー期間中、各国パビリオンはアーティストに関するプレスキットやカタログ、書籍などを用意して積極的に広報活動する。入り口カウンターの係員は総じてにこやかにプレスキットを手渡してくれる。だが、ここは違った。カウンターの上には何もない。「英語のプレスリリースはありますか?」と訊ねると、男性は黙って机の下からテキストのみのコピープリントの束を差し出した。にこりともしない。
記録映像を投影するだけの展示が果たしてアート展示といえるのかという批判もあるだろう。しかし、ポリティカルなメッセージを伝える作品がアートマーケットで商品として流通する現状とは明らかに相容れない位相が露出していた。エジプト館を出てからしばらくは頭の中が空白だった。「革命と美術」というフレーズが脳裏を過ぎる。しかし、このフレーズはロシア革命時の過去のものではなく、また「SNS革命とアート」などと安易に結びつけてはならないという思いがグルグル巡っていたことを覚えている。

関連記事:第54回ヴェネツィア・ビエンナーレ: インデックス


『彫刻家 エル・アナツイのアフリカ』. 神奈川県立近代美術館 2011年, Photo: ART iT.
『彫刻家 エル・アナツイのアフリカ』
2010年9月16日–12月7日 国立民族学博物館 / 2011年2月5日–3月27日 神奈川県立近代美術館 葉山/ 4月23日–5月22日 鶴岡アートフォーラム / 7月2日–8月28日 埼玉県立近代美術館

アナツイの作品を初めて見たのは、第52回ヴェネツイア・ビエンナーレのアルセナーレ会場だった。遠くにキラキラと輝いている大きな構造物に「あれは何だろう?」と思いつつ近づいていき、その前に立ったときの驚き。夥しい数のリカー類のキャップやシールを繋いで作られた巨大な織物状のメタルワークだった。同時期に、パラッツォ・フォルチュニーのファサードを覆う作品も出品されていて、二度美味しいアナツイ初体験となる(それ以前に、日本で木彫作品などが展示されていたことを後で知るという情けない有様ではあるが)。
ゆえに、国内で個展が開催されると聞いて楽しみにしていた。織物状の作品は、展示スペースによって天地が変わることもあるというフレキシブルな展示がなされるため、本来は全会場を訪れてみたかったが、足を運ぶことができたのは葉山展のみであったことが返す返すも残念である。ミニマルな造形感覚の窺える木彫作品、新聞の印刷用原版を用いた巨大な袋状の作品、そして、プルトップリングやキャップなどを用いたメタルワーク。加えて、アナツイの出身地ガーナの伝統的な織物ケンテクロスや部族彫刻、廃物利用したブリキのおもちゃなども展示され、制作のバックグラウンドまで丁寧に紹介されていた。
ただし、旧宗主国のイギリスふうの教育を受け、美術もまた西欧古典からモダニズムへの流れを学んだ彼にとって、アフリカの民族芸術というフレームに収められてしまうことへの抵抗感は強いようだ。「伝統的な造形に関心を持つようになったのは随分後のことで、自分の作品は織物から発想したのではなく、あくまでも彫刻である」と言い切る。こうした発言ゆえに、「工芸を低く見ているのでは」という批判を耳にしたが、とはいえ、このジレンマは現代日本人アーティストにとっても無縁ではあるまい。西欧の規範は頑強である。作品もアーティストも自由に移動し評価軸も多元化していながら、日本人作家の作品にしても「禅」「神道」あるいは「オタク」という単純なカテゴリーで語られることが多い。アナツイもまた西欧と非西欧の狭間の現実を生きるアーティストの一人なのだ。「瓶入りの酒類はヨーロッパがアフリカに持ち込んだものだ。だからそれをアート作品としてヨーロッパに送り返すのだ」というアナツイの言葉が強く印象に残る。

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2011年 記憶に残るもの インデックス

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