奈良美智氏の反論:ブログ記事「ビジネスマンとしての奈良美智」に対して

2012年8月14日
ART iT 公式ブロガー、Adrian Favell氏による「ビジネスマンとしての奈良美智」に対し、アーティスト奈良美智氏より反論がありました。
以下に、本人より事実誤認とする部分について、訂正をいただきましたので掲載いたします。
(この反論の英語訳についてはこちらから Please Click here for the English translation)

Favell氏自身が当初掲載していた日本語訳は、日本語と英語のニュアンスの違いから、一旦ご本人がブログ記事から削除しましたが、奈良氏からの要請を受けて、この訂正注釈公開にあわせて、再掲載します。しかしながら、Favell氏は、英語の原文が持つニュアンスが伝わりにくいことに対し、懸念しておりますので、読者におかれましては、その点をご考慮頂くようお願いいたします。

尚、ARTiT公式ブログに書かれた内容は、個人ブログ同様にブロガー自身の見解を示すものであり、通常、編集部による内容チェック、編集は行なっておりません。

2012年8月 ARTIT編集部

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上段イタリック体がFavell氏による当該ブログ記事からの抜粋、
下段緑字が奈良氏による指摘です。

事実は、「クール・ジャパン」の後、彼らはお互いしか話し相手がいないことだ。両者は明確に独立を維持し時に東京アートシーンの主流に対し非友好的な姿勢を見せており、ギャラリーやメディアから独立性を守っている。
具体的にどのようなことでしょうか?それと、タイムライン的に僕は東京のアートシーンにいないのではないかと思っています。

彼らはUCLAでただ同じ日本人ということで同室にされたが、彼らが育んだ友情や相互の尊敬心はそれぞれの野望の深みに見出される。
村上さんと僕が同室になった理由は、ただ単に日本人同士だからということではなく、2人ともポール・マッカーシー教授より1学期間の授業を依頼されたからと、2人に共通のLAのギャラリーであるBlum & Poeが日常生活をいろいろサポートしてくれたからです。また、それ以前から村上さんとは、馬鹿な話をして笑い合えるくらいの交流はありました。

村上は今でも奈良に電話をかけ、戦略を比較したり、次の大きな(若しくはばかげた)行動について議論する。
ここ10年で、村上さんからもらった電話は2、3回ほどだと記憶しています。僕がかけたのもそんなもんです。文中に「今でも」とありますが、昔は電話とかしたことはないので、その表現もおかしいです。
村上さんは、想像以上に忙しい人で、簡単に会うようなことも、電話することもありません。彼に会ったのは、それぞれのオープニングでの少しの立ち話、彼の組織する『GEISAI』で審査員を頼まれた時くらいです。そういう時でも、数人の彼の知人や友人と一緒に話すわけで、2人だけで話すようなことはこの10年間ではなかったと思います。また『美術手帖』の最新号(2012年9月号)に対談が載りますが、そういう時でも編集スタッフやギャラリーの人など、数人(あの時は7、8人?)の人たちがいました。したがって個人的に戦略について話し合うような機会はありません


奈良のナイーヴなイメージは見せかけだけだろう。展覧会を繰り返し、国際的に有名で、今や50歳を越すアーティストにしては、そうとしか思えない。
僕はたぶん、ほんとにナイーヴ=馬鹿だから、黙っていればいいことでもこうして反論するし、こうやって言わなくてもいいような事実を述べるのだと思います。また、筆者が以下に述べる「冷静な商才」は、事実関係を知れば、馬鹿な商才という認識に変わると思います。

彼の作品の幅は、オークションで100万ドルを越す有名な絵画から野外市で数ドルで売られる大量生産された商業的な商品にまで及んだ。しかし、大きな儲けは大量の在庫商品がある中間クラスの蒐集品からであった。
大量の在庫作品を、僕は持っていません。正直、発表するたびに、作品は売れて行きました。各ギャラリーにセールス状況を聞けば簡単にわかるはずです。「大きな儲け」という言葉を使っていますがいかに大量に版画があったとしても、その収益は絵画作品2,3点に及びませんもしかして筆者は、作家自身には1銭も入らないセカンダリー市場のことを言っているのでしょうか?

計算上では、2007年にもし私が銀行口座を空にしていたら3年間で5000ドル得られていた筈だった。そこには明らかに完全な作戦が展開されていた。
文中に頻出する「作戦」というものを考えた人がいれば、僕ではなくギャラリーです。そして、ギャラリーにとってその作戦を考えるのは普通のことかもしれません。事実、僕自身はずっと版画制作に反対でした。当時、版画を作ったKido Pressの木戸さんに、その後何回も版画制作を誘われては断っています。しかし、最近は木版画という技法に出会って版画制作を再開しました。注・自分のブログより「版画の話」 あるいは『NARA LIFE』(2012年 フォイル刊 版画の話 pp.54~57) 

2000年代の奈良の在庫商品のほとんどは事実、大部分は未記録だった
記録で曖昧なところがあるのは90年代前半に売られたもので、90年代後半からは確実に在庫は記録されています。

2人には販売戦略において意見の相違があったのだ
自分としてはなかったと記憶しています。

2009年には、奈良は商業ギャラリー組織から完璧に独立しようとし、自分の独立した会社の為にスタッフを探していた
そのような事実はありません。全くの事実誤認です。

小山登美夫に対し指示することにいつも異常なほどの力を持っていた
小山さんとはお互いに言いたい事を普通に言い合う関係を築いてはいますが、両者に不均衡な力関係があるわけではありません。

愛知県立芸術大学の櫃田伸也に学んだ数名を含む、何人かの独創性のない漫画スタイルで「カワイイ」アーティストをこのギャラリストに押し付けた。
僕が紹介したのは杉戸洋と福井篤の2人だけです。その他の人については、小山さん自身が決めたことであり、僕にアドバイスを求めることもしていません。

彼は80年代の商業デザイン/イラストレーションのブームの時から既に活躍しており、自身をこの分野で紹介しようとしていたが失敗に終わっていた
1981-88年春まで名古屋にいましたが、筆者がいうようなイラストの文脈に入ろうと思ったことはなく、イラストのコンペなどにも応募したことはありません。実際に僕の絵がイラストとして使われた商品もありません。僕が日本の美術シーンで知られるきっかけは、1995年7月号の『美術手帖』「快楽絵画」特集で表紙になって紹介されてからです。それまでは、まったくの無名であったことは美術関係者であれば頷くことだと思います。そもそもデヴューする意思は無く、ドイツで学生をしたい、という理由で88年に名古屋からドイツへ引っ越します。

しかし、奈良の基本的なポイントは商業的であり、彼の素晴らしい表面的な技術とは関係ないのだ。
事実が関連付けられていないのに、そのポイントはどうやって導き出されたのか?

ファンは蒐集する必要がある、と彼は言っていた。
どこで言っていたのか、その僕の発言の前後も含めておしえてほしい。

そこで、彼は代々木をベースに彼の商品を抱えるラムフラム、原宿で「メード・イン・チャイナ」の犬を製造するワーカホリックス株式会社、そしてサンフランシスコのクロニクル・ブックスという世界規模で仕事をしている出版社に彼の商品を取り扱わせた。
ラムフロムとワーカホリックスは同じ会社です。メード・イン・チャイナの犬を製造しているのは、ジブリのぬいぐるみなども作っているサン・アローという日本の会社です。文脈上だと、僕が取り扱わせたように聞こえるのですが、そのような事実はまったくありません。僕はクロニクル社がカタログレゾネを扱うことにさえ反対でした。最近では『NARA48GIRLS』(2011年 筑摩書房刊)の英語での出版を断ったばかりです。(日本での発売元である筑摩書房に依頼が来て、筑摩書房経由で断りました。詳しくは筑摩書房に聞いていただければわかると思います。)また、以前より、自分から「グッズを作りたい!」と言うことはなく、ほとんどが向こうからの提案でした。

一度、奈良が3Dのおもちゃを作り始めてから、彼は自身を2000年代の大人用ビニールトイ収集ブームの重要人物に位置づけた。
どこで位置づけたのでしょうか?情報をおしえてください。

そして、奈良はたくさん寄贈し続けていた。
たくさんではありません。僕自身が寄贈したのはソウルのリウム美術館「ドローイング小屋」と台北現代美術館「台北プロジェクト」の2館だと思います。そのほかでは、東日本大震災時や、自分の個展を開催した美術館のファンドレイジングのための、チャリティーオークションにはドローイング作品を寄贈や、その売却益を寄付しています。

彼がソウルの美術館に彼の作品を全て所蔵させたとき、小山登美夫とセールスにおける危険性について議論になった
小山さんにも確認しましたが、僕にも小山さんにもそういう記憶はありません。

奈良は、自分の名前を冠した常設展コレクションとして作品が美術館に残るとわかっていたのだ。
所蔵されれば残ることは、誰でもわかっていることではないでしょうか?筆者のような立場の人にはわからないかもしれませんが、2005年にリウム美術館と同じ経営母体が運営するソウル、ロダンギャラリーで行なった個展『From the Depth of My Drawer』が、現地の人の助けでもって苦労の上に大成功に終わり、関わった学芸員、施工業者、掃除のおばちゃん、毎晩食べに行っていた南大門市場の食堂のおばちゃんたちともその感動をわかちあいました。その個展は、専門誌でその年の韓国内の展覧会ベスト1に選ばれました。日本人作家がそのようなものに選ばれるのは、韓国では非常に珍しいことでした。結果、お礼としての作品寄贈を思いついたわけです。美術館側は購入を検討しましたが、僕が寄贈を希望しました。小山さんによれば、リウム美術館は、この寄贈を受けるのとは別に、ペインティングを2点、セラミックの彫刻を1点、ギャラリーから購入しているようです。

奈良はセールスについて心配することはないかもしれないが、カタログやウェブサイトに間違いがあったときには会議中でも電話でもキュレーターに向かって怒鳴ったりする。
会議中とは?どのように怒鳴ったのか知りたいです。僕が声を大きくするのは、今現在の状況のような場合です。

小山はまた、「A to Z」展の常設インスタレーションとして奈良がパートナーと開いた表参道のカフェについても激怒していた。ファンのために巡回展の雰囲気が再現された小さな「小屋」と一緒に、有名な弘前での展覧会の一部がそこでは設置され、そこで700円払ってカフェラテを飲む。どちらが優れたビジネスマンだったかは疑問である。
パートナーとはgrafのことでしょうか?彼らとは一緒に内装を手掛けただけです。また、僕はまったくの無報酬で内装に協力しただけで、経営には関わっていません。他の施工者はgrafを含め、きちんと報酬を受け取っています。オーナーは飲食店経営を専門にしている貞廣さんという方です。僕にとっては、まったくビジネスになっていないですよ。無報酬なのだから。小山さん本人に聞いても激怒したことはないとのことです。そもそもこれは、オーナーの貞廣さんのご厚意で弘前の『AtoZ』展のサテライトとして作ったものです。

「A to Z」展が、様々な国で多数のバリエーションがあるほぼ終わりの無い世界巡回展として続くにつれ、村上の独裁主義的な会社モデルに比べると奈良はビジネス組織を、より効果的で処理しやすく完璧にした。彼と一緒に働いたことがある人々によると、奈良は並外れて人を巧みに扱い要望が多い人でありながら完全なる怠け者CEOとして君臨していた。
ビジネス組織というものが存在していないのです。CEOとか初耳です。僕は自分自身の組織を持ったことがないのです。もしも、筆者が大阪のクリエイタ―チーム「graf」のことを言ってるのであれば、『A to Z』においては平等な関係にあったはずです。彼らは地元の人たちが中心となって立ち上げた実行委員会(僕が組織したものではありません)から、きちんと日当を含め滞在費を貰ってました。僕はボランティアとの絆を自分の中で高めるために、無報酬で参加しました。あの展覧会で金銭を受け取っていないのは僕とボランティアだけでした。開催に必要な資金は、人々から「収益があった場合に返還する。そうでない場合は返還無し」ということで、募りました。会期終了後に入場料やグッズによる多くの収益がありましたが、その収益から、預かった金額と同金額が、小さなドローイングと共に全ての出資者に返還されました。が、それでも多くの収益が残りました。後に、タイの孤児院、日本ユニセフ、国連世界食料計画などに寄付し、余ったTシャツはカンボジアの地雷のある村落で暮らしている子どもたちに送り、それでも余ったお金をもとに、翌年に大きな犬の彫刻作品を作って開催地に寄贈しました。実際には、述べ10,000人というボランティアがいたため、その集団の中での人間関係による問題は、いかような程度かはわかりませんが、もちろんあったはずです。そして、運営について否定的な意見を言う人もいると思ってください。できれば、否定的な意見とポジティブな意見との比率を調べ上げてくれることを望みます。

彼らはそれら全てを「共同作業」と呼んだ。奈良は魅力的な笑顔で『だんだんワクワクしはじめた。自分が100人いるような感じだった』と言っていた。彼を奮起させたのは共同精神だったが、全て彼の名前の下でだった。
『A to Z』は、自分の名の下、という感じにならないように努力した。出来るだけそれを払拭したので、それは当時のメディアインタビューや記事を読めばわかるはずです。中には『A to Z』をプロデュースしたのは自分だと公言する人(当時の実行委員ひとり)も出てきた(笑)。

弘前や青森県立美術館を訪れる人たちは皆奈良目当てだった。この寂れて薄暗い日本の片隅で、の地方で有名な漆器や海産物と同様に、彼は地元の観光産業の一部となった
「寂れて薄暗い日本の片隅」という表現に田舎への悪意を感じます。弘前という町は観光(さくらまつり、ねぷた祭り)と農業(りんご)で知られているはずです。日本のゴールデンウィークの人出をリサーチしてください。弘前はベスト3に入っているはずです。『A to Z』の時は確かに観光産業の一部になったとも言えるでしょう。人口18万人(繰り返し言いますが、この人口は「片隅」ですか?県庁所在地ではありませんが、県で唯一の国立大学もあります。)の町での展覧会に、8万人ほどの入場者があり、会場周辺の商業は期間中うまくいっていたと思います。

奈良の大規模な活動は、大きく楽しいファンクラブ的なもの以外には感じさせなかった。だが、弘前では誰もが満足したわけではなかった。何人かのファンは、きつい労働の後もう戻ってこない事を誓っていた。
ボランティアの参加者の人数をみれば、何人かはそう思うはずです。けれども、労働内容や参加する日数に強制はなかったはずです。

奈良は自分のお金を厳しく管理し、仕事後の飲み会や打ち上げなどの時、皆に自分の分を払わせた。
僕はお金を管理する様な立場ではありませんでした。お金を管理していたのは実行委員会で、みなが払う時は、自分も払っていました。実行委員会からも確認できると思います。あるいは、不特定多数のボランティア参加者で、そういう場にいた人々に聞いてください

横浜の展覧会の前に彼がブログを書き始めたとき、それは天才的なアイデアであったが、
その前から、なにかしらの形でブログは書いていました。

彼のスタイルにちょっとした変化が見られた。ギャラリー絵画からインスタレーションアーティストへと変わったのだ。
いや、今はインスタレーションから離れて行っています。横浜での展示はそうですし、これからのgrafとのコラボレーションの予定もありません。

しかし、彼は1人で観客を奈良の購買者と同時に奈良の製作者へと変えたのだ。他のどんな有名な現代美術家が、一声かけるだけで横浜と弘前のように、奈良の為に何千人ものファンにアートを製作させることができるだろうか。
今は、純粋に協力してくれる人ばかりではないとわかったので、そのようなことはしないでしょう。そういう意味では、(僕はそう思わないが、筆者の言う)カルトスターから、(やっぱり、僕はそう思わないが、筆者の言う)文化人に変わったと思われるのも自由ですが、僕は逆に80年代や90年代初頭に持っていた自分自身だけの力を再び手にすることが出来たのではないかと思っています。