ビル・ヴィオラ インタビュー

地平線の彼方へ
インタビュー/アンドリュー・マークル

ビデオアートの先駆者のひとりとして知られるビル・ヴィオラは、今年度第23回高松宮殿下記念世界文化賞の絵画部門を受賞。ヴィオラの作品はしばしば「動く絵画」といわれるが、人間の振舞いや表現を動かしているものへの興味や、メディウムの特質や場所、アート作品と鑑賞者の関係への考察から生じる幅広い関心事に向き合うものである。絵画かと見紛うような記憶に残る、象徴的でさえあるイメージではあるが、近年のビデオ作品は時間性を巡るものとなっている。スローモーションの使用により、永遠のように感じられるものがモニタ上で拡張していったり、不変のイメージだと思われたものが、突然導入されるつかの間の行為によって、劇的に再定義されたり、時間に対する深い経験を促進するイメージの使用法により、鑑賞者に強烈な印象を残している。


Tempest (Study for The Raft) (2005), color high-definition video on flat panel display mounted on wall, duration 16 min 50 sec, screen 109 x 66 x 10.2 cm. Performers: Sheryl Arenson, Robin Bonaccorsi, Rocky Capella, Cathy Chang, Liisa Cohen, Tad Coughenour, Tom Ficke, James Ford, Michael Irby, Simon Karimian, John Kim, Tanya Little, Mike Martinez, Petro Martirosian, Jeff Mosley, Gladys Peters, Maria Victoria, Kaye Wade, Kim Weild, Ellis Williams. Photo Kira Perov. All images: Courtesy Bill Viola Studio.

ART iT 最近のあなたの作品はすべて、ある単純な構造に従っているように思われます。それは一台のカメラを固定した位置に据えて、ワンショットで撮影するという方法のことですが、同時にそのようなアプローチの一貫性は、どのようにイメージが構築されているのかに対する本質的な関心や、カメラとその対象の関係性に対する関心を示唆します。最近の実践では、こうしたことに重点が置かれているのでしょうか。

ビル・ヴィオラ(以下、BV) いえ、どのようにイメージが構築されているのかについてはまったく考えていません。私が最も関心を持っているのは、人間がどのように構築されているのかということです。我々が世界の中でどのように物事を認識し、どのように世界と関わり合うのか。世界における我々自身の立ち位置や、そのほかにも、我々が正確に理解しているわけではない物事に直面したときに経験する精神状態といったものを含む、巨大な全体の一部としての我々について興味を持っています。私の作品の多くが目的とするのは、自己認識や自意識であり、外部からの視点、もしくは観察という立ち位置ではありません。科学的見解だと私が思う、「デカルトに帰れ」というようなものには興味はありません。そうではなく、自己の内面や自己の現れ方に興味があるのです。
たしかに最近の作品、とりわけ「Ocean Without a Shore」(2007)や2000年頃から制作している「The Passions」のようなシリーズは、ある科学的基盤を持っているようにみえます。制作時に考えていたのは、なんらかの形で制御された状況下の人々の振舞いを観察することに焦点を当てることでしたが、実際に私が取り組んでいたのは、我々の感情そのものの本質を理解することだったのです。
そうしたことを扱うための私にとっての最良な方法は、すべてを減速させて、何が起きているのかを注意深く見ることができる状態にすることでした。そうすることで、論理的な結論を導くのでも、ダーウィンが『人及び動物の表情について』(1872)でみせたような、人間の感情の研究に関する発言をするのではなく、むしろ、パフォーマンスや内発的な動機という観点からそれを理解できるのです。何が我々を演じさせるのでしょうか。例えば、ちょうど今あなたがとっている姿勢。それはあなたにとって、くつろげる姿勢に違いありませんが、私にとってはくつろげる姿勢ではありません。何があなたにそのような姿勢をとらせているのでしょうか。このような精神的、知的秩序とはまったく異なる、無意識的、潜在意識的な秩序感覚に強く興味をひかれるのです。
1992年初頭に母が亡くなり、2000年初頭には父が亡くなりました。こうした出来事からそれ以降の作品が生み出されているということを言っておくべきですね。悲しみのあまり、すべてが変わってしまいました。私の作品はもはや知的プロセスに関するものではありえず、生き続けようとすることに関するものとなりました。


Left: Isolde’s Ascension (The Shape of Light in Space After Death) (2005), color high-definition video on plasma display mounted on wall, duration 10 min 30 sec, stereo sound, screen 155.5 x 92.5 x 12.7 cm. Performer: Sarah Steben. Photo Kira Perov. Right: Installation view of Ocean Without a Shore (2007) at San Gallo, Venice, high-definition color video triptych, two 65-in plasma screens, one 103-in screen mounted vertically, continuous running, six loudspeakers (three pairs stereo sound), room dimensions variable. Performers: Luis Accinelli, Helena Ballant, Melina Bielefelt, Eugenia Care, Liisa Cohen, Darrow Igus, Page Leong, Oguri, Larry Omaha, Jean Rhodes, Chuck Roseberry, Lenny Steinburg, Julia Vera, Blake Viola, Ellis Williams. Photo Mike Bruce.

ART iT しかし、「Isolde’s Ascension (The Shape of Light After Death)」(2005)のような作品は、複雑な形で演劇性という要素に関係しているのではないでしょうか。モニタに映るのは、碧い幻想的なイメージ、モニタ下方の水面、そこから上方へと移動していく空気の泡。最初はそこがどこなのかもわからず、霧のような自然現象の兆候や水平線のようなものから、屋外を想像したり、海辺ではないかと考えたりします。そこへ突然、モニタ下方から女性の身体が水飛沫を上げて飛び込み、上方へと沈んでいく。イメージの方向性や尺度を根本的に反転、圧縮し、すべてが物理的法則とは真逆の動きをとります。その幻想が頂点に達するまさにその瞬間に、作品の構造もまた明らかになります。そうしてようやく、屋内のプールで撮影されたことやカメラが上下逆さまに据えられていたことを繋ぎ合わせることができます。

BV そうですね。そうしたことは私がこれまでずっと取り組んできたことです。最小限の操作によって、最大限の効果を獲得することにずっと興味を持ってきました。あの作品で私がしたことといえば、カメラを上下逆さまにしたことだけですが、あのような光に照らされた水中を見て、これは宇宙だろうか、それとも空中だろうかと、鑑賞者は様々なことを考え始めるでしょう。それが一体なんなのかわからない。けれど、作品が展開していく中で次第になにかを知り、ヒントを得ていき、やがて女性が飛び込んでくる。とはいえ、女性が現れてもなお、なにかがわかるということはありません。本当に多くの人が、水泡が不自然な方向、つまり上下逆さまに動いていったことに気がつかなかったそうです。これは、我々が如何に普段、イメージを見ていないのか、また、イメージに慣れてしまっているのかを示しています。
あの作品は謎めいていて、どこにいるのかわからなくさせるということもあり、気に入っている作品です。女性がフレームに飛び込んできて、浮かんでいくのだけれど、実は彼女が沈んでいることがわからない。モニタを掴んで、上下逆さまにすることで、ようやく真の位置関係がわかります。最小限の変化で最大の結果を作り出そうと、私自身、しばらくモニタを逆さまにして見てみました。今ではほとんどやることはなくなりましたが、あの頃しばらく続けていたちょっとしたゲームでしたね。

ART iT その一方で、初期作品やインスタレーションでは、ビデオの技術的側面や展示方法に直接的に関係していたように思われます。そこには、ビデオを使った最初の世代として、その使用法という観点から、ある一定の再帰性が求められていたと想像しています。

BV 再帰性、まさにそれを追求していましたね。成功したと考えている最初のビデオ作品は、自己の本質の理解に関するものでした。作品のタイトルは「Tape I」(1972)で、”I”はローマ数字を意味するのではなく、”私(自己)”を示しています。鏡の掛かった部屋にカメラが設置されているという単純な状況を用意し、そこへ私がドアを開けて入っていきます。その時点では、鑑賞者はひとりの男が部屋に入ってきて、そのまま前進してくるのを見ていますが、その後、奇妙なことが起こります。突然その男が画面の手前に現れるのです。そのとき、鑑賞者はそれまで見ていたものは鏡に映ったイメージだったということに気がつきます。その男、つまり私は椅子に座り、カメラをまっすぐに見つめ、出来うる限りの大声で叫び出す直前まで自分自身への集中力を高めていくと同時に自らを抑えこもうとします。まったくの初期に制作したこの作品は、鏡の中の自己のイメージを通じた完全なる解放と断絶や破壊を、再帰性と自己認識という考えに結びつけています。


Top: Tape I (1972), videotape, black-and-white, mono sound, duration 6 min 50 sec. Produced at Synapse Video Center, Syracuse University, Syracuse, New York. Bottom: The Reflecting Pool (1977-79), videotape, color, mono sound, duration 7 min. Both: Photo Kira Perov.

ART iT そのような興味は、このメディウム自体を探求することと複雑に結びついていたのでしょうか。

BV そうですね。ビデオはそれ以前には絶対に不可能であったリアルタイムで同時性を持った自己イメージを可能にしました。それは例えビデオが写真から派生しているとはいえ、写真以上のものです。自分自身を過去のイメージとしてではなく、現在のイメージとして見ることが可能になったのです。
この効果は多くの人を動揺させます。私が若いころに作った作品のいくつかは、鑑賞者をかなり不安にさせ得るものでした。なぜなら人は自分自身を見つめることが好きではないからです。固定された表象である写真を使ってならば、そうでもないでしょう。しかし、自分自身をビデオで見るとき、彼らは笑ってしまうかもしれません。それはおそらくひきつり笑いだと思いますが。あまり良い経験ではありませんね。しばらく経ってから、彼らは自分自身の分析をはじめ、「これは本当に自分なのか」と自問し始めます。ビデオは個人の微細な記録となる代わりに、その人自身を不穏で不安的なものに引き合わせるのです。

ART iT テクノロジーとその効果の関係性について考えるという点では、「The Reflecting Pool」(1977-79)も興味深い作品です。この作品は編集の過程で、異なる時間の層を扱っていますよね。

BV 当時のビデオを巡る状況は、すべてが実験的で、人々は絶えず挑戦的で刺激的な新しい地平を切り拓いていました。私はそこへ参加して、貢献したいと考えていました。ある意味では、私の初期作品は肖像に関するものだといえるでしょう。多くは頭から肩まできっちりとフレームに入れ、非常に鮮明であり、真正面を向いたものです。自分自身の作品を分析するのは好きではありませんが、歳を取り、物事を思い出すとともに、止められなくなりますね。「The Reflecting Pool」は、自己像への関心から離れて、自然へと関心が移っていった最初の作品です。
当時は自分が何をしているのか理解していませんでした。実を言えば、森の中の池、その反射を見たとき、なんの考えもないまま即座にこの状況を使って制作したいと考えたのです。そこにはなんの思考過程もありませんでした。私がすべきことは、カメラを準備し、的確な撮影位置を見つけることだけ。そして、2日間にわたって、昼夜の光のもとでその池の眺めを固定したカメラで撮影し続ける。この作品は大半の若いアーティストが経験するナルシスティックな状態から脱する、私にとって重要なブレイクスルーとなりました。また、この作品によって、それまで関心のなかった自然へと興味が移っていきました。それまで私にとっての自然といえば、かつてのオランダ画家たちの描くような古典的風景であり、自分にとって取り組むべきところがない、流行遅れのものだと考えていたのです。また、私の人生にとって、非常に重要な部分を占めるようになった水へと取り組むようになったのも、この作品がきっかけです。この作品は新しい制作方法への出発点となりました。

ART iT しかし、自分自身ではなく他者を見つめるようになることで、スタジオでの制作へと戻っていったように思われます。あなたが「The Passions」における制御された環境について先程話したことが、「Tempest (Study for The Raft)」(2005)を見ているときに頭をよぎりました。数名の集団へ向け、強烈な放水を浴びせ、その反応を撮影した作品で、歴史的に描写されてきたたくさんの苦痛や嘆願を喚起させます。なぜ、彼らに演じさせるのではなく、放水によって反応を誘発する必要があったのか。この問いに対する簡単な解答などありえないでしょう。仮に彼らに演技させたとすれば、ある意味では、それが真のパフォーマンスかもしれませんが、それは説得力を持ったものにならなかったかもしれません。一方で、彼らに向かって放水することで、強い反応を生み出すことができます。しかし、そうした制御された環境下での表現は純粋なものではないともいえます。どちらがより”真実”なのでしょうか。

BV 興味深い問題提起ですね。なぜなら、我々がたった今演技をしていないと誰が言えるのでしょうか。おそらく、あなたも私も演技をしています。仮にあなたが席を立って、私ひとりになったとしても、私は依然として演技を続けるでしょう。それは私が、我々がちょうど今話していたことを覚えていて、私がどこにいるのかわかっている。そうした場面にいるのです。
この自己認識という側面は、ナルキッソスの神話まで遡ります。ギリシア神話では、訓戒的な物語として扱われていますが、ナルキッソスは水中へと身を投げてしまいます。フランスの理論家たちは、近年、リアルとはいかにリアルか、リアリティとはなにか、幻想とはなにか、なにが偽りでなにが真実かといった問いに強い関心を抱いています。いっぽうで私は、そうした問題の解決に対して、彼らがポストモダン批評において明言しているような形では興味を持っていません。それらは私にとって警察の取り調べのようなのです。取り調べのとき、警察は容疑者に光を当て、すべての秘密を知ろうとします。こうした方法は、私にとって、アートを作り出すのに有効なものではありませんし、誰かの秘密が知りたいわけでもありません。私が取り組んでいるのは、自然であり、世界であり、この瞬間であって、一時的なことや時間の形式を強く信じているのです。
人々は私の作品を見て、スローモーションが使用されていることに気がつき、歴史的表象との関係の中で作品を見るのですが、私自身は自分のことをビジュアルアーティストではなく、”タイムアーティスト”だと考えています。「The Passions」の制作時に、作品の視覚に関する部分ではなく、時間性に関するグラフを制作し、自分自身の「時間の形式」を開発しました。これこそが、父の死に対処していた息子として、最後の時期に発見したことです。魚が水の中で生きているように、我々は時間の中で生きているのだと実感しました。見ることも、食べることも、触ることも出来ないけれど、我々の生にとって欠くことの出来ないもの。魚が水とはなにかを知らないように、ほとんどの人はそのことに気がつきません。ある時期までのように視覚性を深く追求するのではなく、時間に焦点を当てるようになりました。


Top: The Quintet of the Astonished (2000), color-video rear projection on screen mounted on wall in dark room, projected image size 1.4 x 2.4 m, room dimensions variable, duration 15 min 20 sec. Performers: John Malpede, Weba Garretson, Tom Fitzpatrick, John Fleck, Dan Gerrity. Bottom: I Do Not Know What It Is I Am Like (1986), videotape, color, stereo sound, duration 89 minutes. Produced in association with the Contemporary Art Television Fund, Boston, and ZDF, Germany. Both: Photo Kira Perov.

ART iT そのようなことは、あなたが作り上げるイメージの中で演じられている表現とどのように関係していますか。それはおそらく非常に本質的な人間の表現だと思いますが。

BV そう、あれらは人間の表現の原型ですね。例えば、なんの忠告もなく、私が突然眼の前で手を叩いて、あなたを驚かせることができます。その後、それより弱く手を叩いたとしても、依然としてあなたを驚かせることができる。私の禅の先生はよくそうしたことをしましたね。先生と話をしているとき、私の中にほんの少しでも自意識を感じ取ると、彼は私の肩をぴしゃりと叩きます。私はいったい自分が何をしたのだろうとショックを受けたものです。
これは完全に別の話でしたね。話を脱線させたいわけではありませんが、日本は世界に対して、禅という素晴らしいものを授けてくれました。禅の核心は自意識を取り除くことにあると私は理解しています。弓道では、射手が弓を引き、矢を射るのではなく、矢それ自体が放たれると考えられています。武士道や弓道のような実践に存在するこのような複雑なシステムは、自意識、状況を計算し、見積もるような意識を取り除くという考えによって統合されています。「よし、私は誰もが感動するものを作ることができる」というような意識を取り除くことが出来れば、禅を極めたものが”無心”と呼ぶものを手に入れ、自身の行為において真に純粋な状態でいられるでしょう。
日本の文化は、ほかのどの文化よりも、そうした方法を理解しています。なぜでしょうか。それは侍、生死をかけたやり取りから来ているのでしょう。ひとつでも誤った動きをとれば、殺されてしまい、二度目はない。彼らは相手を倒すために、現実の瀬戸際のところまですべてを削ぎ落とすという信じ難いシステムを発展させなければなりませんでした。時間と表現の関係性は結果として生じるものです。なにかをすることなく、成し遂げる。本質的なことは、思考が作用しないように、画像から意識的な自己を取り除くことです。

ART iT 最初はイメージの構築、またはそれを思考することについて話してきました。これはより明確に人間の表現を扱う作品とは異なる、時間の形式に対する関心なのでしょうか。

BV それはわかりませんね。私の作品は、ある時点で、人間や人間性に深く結びつくようになりました。先程話したように、90年代初頭に母を亡くし、90年代末に父を亡くし、そのふたつの出来事は、心がかき乱されるもので非常に対処し難いものでした。すべてがどんなに重大で、生命力がどんなにはかないものなのかに気がつきました。それは世界における経験や、未来に予期されるもの、死に対する私の全体的な意識を変化させました。そうして、私の作品は経験やそれが意味するものに取り組む人々に関するものになってきたのです。
「The Reflecting Pool」以降、自然に焦点を当てた一連の作品もあります。その中の主要な作品のひとつは、一時間半にも及ぶ「I Do Not Know What It Is I Am Like」(1986)という動物の意識を取り扱った作品で、サウスダコタ州のウインドケープ国立公園にいるバッファローの群れと過ごしたものです。ここでは感覚性とはなにかを理解しようと試みました。私自身やほかの人々がカメラの前に座り、見つめているという作品の制作を始めてから、自分のやっていることを理解しないままにそれを探求するようになりました。意識とはなにか。世界を経験するとはどんなことか。如何にそれを反映させ、処理するのだろうか。
そうしたことすべてによって、動物も思考し、理解し、原始的な感情を持っているという認識に至り、彼らが何を理解し、思考しているのかという興味が沸いてきたのです。これは非常に重要なことでしたね。なぜなら、それによって、私自身、人間という状態から、他の知覚できる生物にとって、生命とはなにかを視覚化し、理解する方向へと至ったのです。仏教では、命あるものすべてが知覚を持つとされ、古代ギリシアでは石は生きていると考えられた。彼らが問うているのは、何が生きているのかいないのかであるのに対して、西洋文化は遅れてきて、何が心を持っているかと尋ねる。しかし、意識とはなにか。意識をするとはなにか、そしてそれはいつ消えるのか。なにかがものになるときとは。それは大抵の場合、明確ではないものなのです。

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