ミカ・タジマ インタビュー

美化を通した疎外、疎外の後の関わり合い
インタビュー/アンドリュー・マークル


Performance view of Echoplex (live) at Astrup Fearnley, Oslo, 2005. Photo Tom Henning Bratlie.

ニューヨークを拠点とするアーティスト、ミカ・タジマは彫刻とパフォーマンスの要素を組み合わせたミクストメディア作品を作る。しかし、それはパフォーマンスの遺物としての彫刻作品ではない。タジマは彫刻作品そのもののパフォーマンス的な可能性を探っているのだ。それによりインスタレーションに建築的な性質が備わる。タジマの作品は単にオブジェの配置ではなく行為のための空間にもなるのである。

これはニューヨークのエリザベス・ディー・ギャラリーで開催された初めての個展「Disassociate」(2007)に最も顕著であった。可動式のリバーシブルのパーティションによるインスタレーションはオフィスのキュービクル(パーティションを使って事務所内の各々の机を囲う仕切りボックス)や録音スタジオで雑音を抑えるために使う防音壁を想起させた。タジマは展覧会の会期中に何度もこのパーティションの配置を変えた。このインスタレーションは、タジマが率いるコラボレーショングループ「ニュー・ヒューマンズ」、そしてヴォーカルに美術家・建築家・詩人のヴィト・アコンチ、ヴァイオリンにミュージシャン、C.スペンサー・イェらを迎えたコラボレーションによる一連の即興的なノイズパフォーマンスを開催する場としての役割も果たした。

以降、タジマはパーティションという形状を繰り返し作品に使っている。タジマにとってパーティションとは創造の可能性に満ちていると同時に象徴的な意味合いが溢れている。ART iTはタジマのニューヨークのスタジオに出向き、最近の作品、絡み合うモダニズムの伝統や企業が考えるところの美化、そして壁の主体性について話を聞いた。


Installation view of “Disassociate” at Elizabeth Dee Gallery, New York, 2007.

ART iT あなたの作品は多様な分野からインスピレーションを得ていますが、特に建築的なフォルムの捉え方が興味深く思えます。あなたにとって美術よりも建築こそがモダニズムの概念を表しているといえるのでしょうか。

ミカ・タジマ(以下MT) 確かに建築とモダニズムの失敗についての考察は私の仕事に全面的に関係しています。作品を通じて美術と建築との両方に言及していますが、元々彫刻が専門だったので建築が関わってくるのは特に自然な流れだと思います。モダニズム建築は全ての人の生活に浸透しているもので、私たちを包囲しているとまで言えます。建築に関しては特にインテリアの建築について調査を続けてきました。過去3年の間はハーマン・ミラー社のことを調べていました。ハーマン・ミラー社は今やアメリカのどこにでもあるオフィス用のキュービクルを発明した会社です。アメリカではどこに行っても誰かしらそのような空間で働いています。でも、そんなキュービクルも実は進歩、効率化、モジュール化、規格化といった、モダニズムの根本にあるユートピア的な発想から始まったのです。
でも、ご存知のとおり、そこからは現在のコーポレート・ヘル、企業が全ての地獄社会に発展しています。見渡す限りのキュービクルの海。それは個人の職場からの疎外感であり、私たちが未だに地政学的な境界を作り続けていることでもあります。個人的にはインテリアの建築からもっと大規模なもの、例えばイラクのグリーンゾーンの周りに壁を建てるというようなことを連想します。ベルリンの壁の崩壊後のこの時代において、私たちは未だに世界中で新しい壁を建て続けています。これらの建造物は見た目も含めキュービクルととてもよく似ているんです。人々を隔離し孤立させ、包含し制御することを目的とした障壁。だからその2種類の構造物がどのように連関しているかにとても興味があります。美術のコンテクストに戻すと、ミニマリズムのモノクロの絵画にも似ています。そういう意味ではどこか絵画と建築との間で揺らいでいる暫定的な構造物とも思えます。まるで状況に合わせてアイデンティティが演じられ構築されているようです。まずは絵画で次は建築的な空間、次は彫刻、次は何かを発表する看板、あるいは物語性を持ったパフォーマンス空間にさえなります。


Performance view from “Disassociate” with Vito Acconci, C. Spencer Yeh and New Humans.

ART iT その考え方がライブサウンドパフォーマンスの場としての役割をも果たしていた可動式のパネルのインスタレーション作品「Disassociate」(2007)に直接繋がったのでしょうか。

MT その通りです。そもそもキュービクルについて調査を始めるきっかけとなったのはゴダールの映画『ワン・プラス・ワン』(1968)でした。その中でローリング・ストーンズが「悪魔を憐れむ歌」を録音する場面があるのですが、その彼らが入った録音室はキュービクルのような構成の部屋でした。障壁パネルが各々のミュージシャンを隔離していて、興味深いメタファーになっていると思いました。バンドやその類の共同体験は進歩的な理想化された仕事の仕方だと思われがちですが、現実に彼らのレコーディングの様子を見ると、それぞれが孤立し疎外され、権力争いなどもあります。それらは全てこの孤立させる空間の中で起こっているわけで、それがキュービクルの概念に繋がります。
「Disassociate」はゴダールの映画に直接言及していました。展示した両面の絵画パネルはときには「インスタレーション」であり、ときにはパフォーマンスに使いました。パフォーマンスのイベントは6週間の会期中に3回、インスタレーションの構成も6回ほど変わりました。

ART iT 「Disassociate」の前、さらには『ワン・プラス・ワン』に出会う前はどのようなテーマを扱っていましたか?

MT それより前はパフォーマンスを取り入れることによって彫刻の多様なアイデンティティを表すような作品を作ろうと試みていました。でも、そのようなアプローチだと、まず作品の彫刻的な側面を見て、それから他の側面もあることに気づくのではなく、最初からパフォーマンスの要素に固執してしまう人が多いという問題点がありました。


Performance view of Grass Grows Forever in Every Possible Direction at Swiss Institute, New York, 2004.

ART iT それはあなたが主宰するコラボレーションによるパフォーマンスグループ「ニュー・ヒューマンズ」のことでしょうか。

MT ニュー・ヒューマンズはそのひとつの要素で、他には過去に参加したグループ展のいくつかでパフォーマンスを依頼されたことが挙げられます。ある時点で、私の仕事の彫刻的な側面を認識してもらえるように主張することが必要だと感じました。でもそれは要するに「違うんです、重要なのはパフォーマンスではなくてそのパフォーマンスを受け入れることが可能な彫刻なんです」と言う必要があるというようなもので、かなりの違和感があったのです。

ART iT 以前から「可動パーツ」について考えていて、それが「Disassociate」に繋がったとのことですが、どうしてそのアプローチを選んだのでしょうか。

MT 長い間、モダニズムは文化史の終局と見なされていたように思えます。そして1967年にマイケル・フリードがミニマリズムの演劇性について書いた評論文『芸術と客体性』を発表したとき、ドナルド・ジャッドらミニマリズムのアーティストらは自分たちの作品が自ら意図した形式、つまり彫刻や絵画以外のものとして見られるようなコンテクストに置かれたことに対して反感をあらわにしました。でも面白いことに、私たちは今やポップカルチャーなどを含め全てがどんどん融合していっている時代に住んでいて、クレート&バレル(アメリカの家具・インテリア・雑貨の大型チェーン店)に行けばジャッド風のソファなんかを売っていたりするわけです。私はそのチープな感じは結構好きですが。
そうしたジャッドらが自分たちの作品の演劇性やその新たな解釈を拒否しようとしたことから着想を得て、例えばどうすれば絵画作品が彫刻やパフォーマンスの場になれるかなどといった実験をするようになりました。そこから発生した可動パーツ、絶え間なく揺れ動くアイデンティティは終局としてのモダニズムの真逆だと私は思います。

ART iT ある意味、それは建築的な要素が関わってくるところでもありますね。壁とは構造的であると同時に、そこに物を掛けることもできればそれ自体が鑑賞の対象になり得る。

MT その通りです。一旦、壁という形式に行き着いてからはあらゆるプロジェクトで再考し続けました。どうしても新しく作る作品全てに入り込んできてしまうのです。私にとって非常に意味深い構造体のため手放せずにいるのです。壁とは主体であり、独立した構造体であり、他の物事のための場であり、本当にいろいろな役割を果たしていて、支えたり障害物となったりするその様は私たちの存在する環境そのものを表していると言えます。
今でも、アメリカとメキシコとの間の国境に沿って壁を建てようという運動がアリゾナとテキサスで起こっています。これはいわゆる移民問題に対する非常に野蛮な「解決法」で、「内」と「外」に分けて疎外感を生み出すだけの下劣な意味しか持ちません。壁とは各々の事物の違い、ある状況におけるヒエラルキーを視覚的に再認識させるものでもあります。


Installation view of “The Double” at The Kitchen, New York, 2008.

ART iT キュービクルについて考えることがニューヨークのアートスペース、キッチンで発表した、独立し反転する一列のパーティションを含むインスタレーション「The Double」(2008)に繋がったのでしょうか。

MT そのプロジェクトでは具体的な疎外感を生み出そうと試みました。「The Double」はキッチンと同時にベルリンのセンター・フォー・オピニオンズ・イン・ミュージック・アンド・アート(COMA)でも展示していて、そちらではある種二重の障壁で、パーティションで長い壁を作ることは私にとって非常に象徴的なことでした。ちょうどアメリカ軍のイラク侵略があった時期で、バグダッドではグリーン・ゾーンの壁に牧歌的な絵を描いてもらうべく地元のアーティストが雇われていました。戦争の恐怖を覆い隠そうというわけです。ちなみにインターネットでグリーン・ゾーンの壁に子供が反対側に通過できる隙間を写した写真を見つけたこともあって、それは私にとって「漏洩」、つまり拘束的な状況を回避する方法を見つけることへの隠喩となりました。これはまたジョージ・ブッシュの在任期間の最後の年でもあり、アメリカは移民問題について強硬な姿勢をとり始めた時期でもありました。
それはそれとして、キッチンはパフォーマンス、演劇やダンスに重点的に取り組んでいることで知られているので、そこで展示をしたときにはどうすればさり気なくパフォーマンスを織り込むことができるか考えました。あからさまに織り込むのは誰でも予期できることですから。私は作品自体がパフォーマンス的な行為を具体化していることを強調したかったのです。このインスタレーションのいくつかのパネルには反転する鏡を取り入れましたが、これはドナルド・キャメルとニコラス・ローグの映画『パフォーマンス/青春の罠』(1970)から着想を得ています。『パフォーマンス』は二人の登場人物のアイデンティティが重なり合っていく話で、私の作品の分裂した性格を表すのにぴったりのメタファーだと思いました。この映画の重要なシーンでそのふたりの主人公が反転する鏡のあるバスルームに立っていて、代わる代わる鏡に映されるのと同時にまるで性格まで入れ替わっているように思えてきます。その要素を作品に取り入れたのは『パフォーマンス』への言及であり、グリーン・ゾーンの壁の割れ目のひとつの見方でもありました。


A Facility Based on Change (2010), mixed media, 122 x 122 x 152 cm.

ART iT 今もこのようなテーマを扱っているのでしょうか? 現在はどのようなプロジェクトに取り組んでいますか?

MT 今も壁パネルの形状を扱っています。でもパネル自体を作るのではなくて今度はインターネット上でオリジナルのハーマン・ミラー社「アクション・オフィス」のパーツを探してレディーメイドとして使おうと考えました。いろいろ探した結果、ニュージャージーのテレマーケティングセンターに1971年に製造された26点のオリジナルのパネルがあることを突き止めました。いくつかにはカンヴァスを張ってミニマリズムのモノクロ画のような感じに塗り直しています。どのように展示するかはまだよく分かりませんが、ひとつ予定しているのは在庫一覧や剰余生産への暗喩でもある機能不全の空間です。ある意味、パネルを発見したテレマーケティングオフィスの状態を再現しているとも言えるかもしれませんね。
そのオフィスそのものが概ね私が心に描いているインスタレーションに近かったんです。引取りに行ったパネルは完全になおざりにされていて、みすぼらしく倒れかかっているものまでありましたが、それと同じ空間で仕事をしている人たちがいたわけです。本当に奇妙でした。だからインスタレーションもその荒涼とした雰囲気を喚起するように構成するつもりです。「今週はマーサとジョンを首にしなきゃいけないみたいだから、キュービクルの壁を撤去しないと」——いつ何があるか分からないというような。もうひとつ、パネルで完璧な立方体の彫刻的な構造体を作る予定もあります。それこそ正真正銘の機能不全なキュービクルですね。これはジャッドやソル・ルウィットの話にまた戻り、ミニマリズムとコーポレート・ライフ、企業を中心とする生活とのふたつの世界に触れています。


Unnumbered work from the “Furniture Art” series (2010). Mixed media.

MT また別のプロジェクトは新たな絵画兼パネル兼タイルの彫刻作品。こちらもハーマン・ミラー社について調べていたことから始まっています。ハーマン・ミラー社はキュービクルの製造を始めてからその形状がもたらす疎外感に気付き、テキスタイルデザイナーのアレキサンダー・ジラルドにパネルに張るためのファブリックをデザインしてもらいます。ジラルドのファブリックを張ったパネルはまるで絵画のようで、ハーマン・ミラー社では「環境エンハンスメントパネル」と呼んでいました。これは不快な体験を緩和するためのアプローチとしては非常に屈折したものだと思います。恐怖や壁の存在自体を覆い隠すためにイラクのグリーン・ゾーンの壁に壁画を描くようアーティストに依頼することの前兆とも言えます。これは企業の美化、装飾、美術の捉え方の典型ではないでしょうか。
新作の彫刻は1970年代に人気のあった写真用の額縁を使っています。箱型に成形されたアクリル樹脂の額です。壁パネルと同様に、額は表面と構造体の両方を兼ねます。額の中に抽象的かつ建築的な形をマスキングしスプレーペイントすることによって「逆」の絵画を作っています。透明なアクリル樹脂の額を通してその裏の壁まで見えるので絵が非物質的なものとなり、その薄っぺらさが露呈します。たくさんまとめて展示すれば工業化された美術や製造された「美」の概念を強調できるのではないかと思います。


Installation view of “Disassociate” at Elizabeth Dee Gallery, New York, 2007.

ART iT モダニズムの失敗について語りながらも、作品ではモダニズム的な美的感覚も取り入れています。モダニズムのある部分は復興させたいのでしょうか。それとも純粋に批判しているのでしょうか。

MT 「復興」はちょっと違うと思いますが、完全に批判のみというわけでもありません。モダニズムの美的感覚は本当に尊敬しているので、魅了と嫌悪の念がせめぎ合っているような状態になってしまいます。でも、作品は間違いなく現代における私たちの生活環境を批判しています。作品に複数の機能を持ってもらうことにより、私たちの生活がいかに変調されているかがよく分かると思いますが、同時にこの状況から何か生産的なことが起こることも期待しています。例えば「Disassociate」ではキュービクルの中に人に座って文字をカタカタ打ってもらったわけではありません。サウンドパフォーマンスからは音源——奇妙な音源だったことは認めますが——を録音して、その状況を更なる作品制作に利用しました。
ライブパフォーマンスはいつも観客が展示スペースに入る前に始まるという型破りなものでした。ほぼ全てのコンサートではオーディエンスとパフォーマーとの明確な区別があります。でも『Disassociate』のインスタレーションではパフォーマーがそれぞれ空間に散らばったキュービクルに入っていて、前も後ろもなく、全てが見える「良い」場所も「悪い」場所もありませんでした。観客はたった一人のパフォーマーしか見えなかったかもしれませんし、あるいは壁や他の人に阻まれて何も見えなかったかもしれません。何も知らずにギャラリーに入った人たちはそうとう驚いただろうと思います。一歩足を踏み入れた途端に観客も作品自体に深く関わってしまうわけですから。


Performance view from “Disassociate” with Vito Acconci, C. Spencer Yeh and New Humans.

ART iT まるで疎外することによって参加させているかのようですね。

MT そうですね。アントナン・アルトーの「残酷演劇」にも似たところがあります。目の前で繰り広げられるはずのパフォーマンスに取り囲まれ、不意を突かれるのです。「Disassociate」では全ての様子をビデオカメラで録画していて、観客はある時点で自分自身がカメラに映され呼吸が録音されていることにふと気付きます。まさにその瞬間に制作されているもののど真ん中にいることをとても強く意識するのです。

ミカ・タジマはニューヨークのエリザベス・ディー・ギャラリーとマイアミのケヴィン・ブルック・ギャラリーの取り扱い作家。現在はフィラデルフィアのファブリック・ワークショップ・アンド・ミュージアムとエリザベス・ディー・ギャラリーでのプロジェクトを予定。映像作家チャールズ・アトラスとのコラボレーションにも取り組んでいる。

Copyrighted Image