ピーター・コフィン インタビュー

急がば回れ——意識の様相の実地試験について
文・インタビュー/アンドリュー・マークル

あのとき私たちは皇居御苑の側にある、1967年のジェームス・ボンド映画『You Only Live Twice』のロケ地として使われたホテルニューオータニの敷地内の16世紀の日本庭園を一周しようとしているところであった。座ってゆっくり話せる静かな場所をようやく見つけるまで、順路を外れて木々の生い茂る用務路〔wooded service road〕を上ったり、庭園内の滝の前で立ち止まったりした。そして耐候性のケースに入った待機状態のプロジェクターと、道を挟んだその向かい側に独立の四角いガラスのパネルとの謎めいたインスタレーションの前を通る小さな丘を登った。

空気は少し冷たく、空は晴れていた。私たちは池を望む小さな松の木の隣のベンチに腰掛けた。定期的にヘリコプターが頭上を飛んでいき、それ以外はホテルの敷地のまた向こうから工事現場の騒音が聞こえた。その日は、「目に見えるものが本質とは限らない」ということについて話そうと二人で決めた。


Both: Untitled (UFO) (2008- ), functional flying saucer, appearances: Baltic Sea Region, Gdańsk, Sopot; Southeast Region of Brazil and Rio de Janeiro. All images: Courtesy Peter Coffin Studio.

ART iT 先ほど、歩きながら、社会学者とPR会社と共に行なった「Untitled (UFO)」というプロジェクトについて話を聞かせてくれました。UFOという現象が心理的に何を表しているかについての人々の考察を促したかったとのことでした。シニモッド・スタジオスという製作会社とUFOを作り、この数年の間で2度——1度目は2008年、グダニスクからバルト海上で、そして2度目は2009年、リオデジャネイロからブラジルの沿岸上で——飛ばしています。そのUFOはフィクションにおける描写、テレビ番組や映画など、あらゆる情報源を参照した上でいわば典型的な空飛ぶ円盤としてデザインしたとのことでした。その結果出来上がったのは上空でダイナミックなスペクタクルを作り出す、何千個ものライトをつけた直径7メートルの空飛ぶ円盤でした。そもそも、なぜこのプロジェクトを行なったのでしょうか?

ピーター・コフィン(以下、PC) UFOと目に見えるものが本質とは限らないという概念とについて話をする前に、まず、私たちが今日本庭園にいるのは非常に適切だということを指摘したいと思います。日本庭園のデザインには空間の錯覚が組み込まれています。日本庭園全般について言えるように、これらの錯覚は私たちに空間と時間とについて考えて経験することを促すためにここにあります。
美術作品についてどのように決めていくかについて話せばUFOのプロジェクトのことも分かってもらえるかもしれません。本当は、どちらかと言えばひとつの実験と考えていますが、その話はひとまず置いといて。大抵、見た目とはまた違う意味を持つ題材を選ぶので、それがそのまた向こうにあるアイディア、新たな問題についてのインスピレーションに繋がります。美術作品は、一見取り扱っていると見える題材の再考はもちろん、新たな関わりをも促す可能性を持つべきだと思います。そうやって作品が独り歩きを始めることができます。美術は、意味の固定や閉鎖に繋がる傾向のある合理的な考え方に代わるものを勧めることに役立ちます。その先に行き止まりしか見えないアイディアに取り組むよりも、その最初のアイディアから何か更に発展させることに関心があります。美術の体験が持ち得る意味をコントロールできると思っているわけではありませんが、それを引き起こすことができたら嬉しいです。
UFOのプロジェクトは、集合意識というものの性質について考えることに興味があったことから、行なうことに決めました。私たちがどのようなかたちで自分自身のことを無意識的に、そして直感的に考えるかについて、このプロジェクトを通して探求しようと思いました。多くのプロジェクトに対してとるアプローチなのですが、これは私たちが何を考えるかだけではなく、どのようにして考えるかを理解したい気持ちからきているので、プロジェクトの題材を通して「どのようにして」を俎上に載せることになります。UFOの現象は、信念とファンタジーの心理学についての一種の自己言及のひとつの方法かもしれないと思ったのです。
先ほど、UFOのプロジェクトは一種の実験だと言いました。それがどのように受け止められてどのような反応があるかははっきりしていませんでしたが、「ファンタジー傾性」などといった、説明不可能な現象を信じることにまつわる心理学的なテーマの研究結果を基に何が起こるか多少は予測ができました。この実験では、プロジェクトの体験を流れにまかせることを意図していました。UFOをただ単に人を驚かせるようなものにはしないことに決めていましたし、別に人を怖がらせたいわけでもありませんでした。UFOは事前に発表しましたが、UFOが見える範囲内の全ての人に予め周知できたわけではないと分かっていました。これもまたプロジェクトに活かしたかったので、プロジェクトについて予め知っていた人と知らなかった人との間のやり取りを期待し、バルト海の地域とブラジルの社会学者と現地のメディアに協力してもらいました。参加した社会学者たちは反応を分析して、プロジェクトを行なう前、行なっていた間、そして終了後に対話を促しました。
この体験が人々にとってどのような意味を持っていたかについて何も証明する必要のない状況の中で考えることができました。
こういったプロジェクトを通して自己言及と探求に関わる体験を作り出したいのですが、このUFOのプロジェクトにはまさにその効果があるように思えました。プロジェクトのことを予め知らなかった人の大半は驚いて、より多くを知るために友人や家族に連絡をとっていました。そしてプロジェクトのことを既に知っていたUFO目撃者との対話は、知識や信念全般についての話や人間の意識、そしてUFO現象のような未知のものとの繋がりを求める傾向の話に展開しました。また、多くの人は、人間が他の生物と繋がりを持ちたがる傾向、そしてUFOに乗って訪ねてくると想像されるような高等生物の存在の可能性について不思議に思っていました。未来と、私たちの未来との繋がりとについてかなりたくさんの議論があり、UFOの現象は人に自分自身を未来の自分自身のようなものと照らし合わせる衝動を起こすのではないかという印象を受けました。


Top: Yamataka EYE performing in Untitled (Greenhouse) at the 4th Yokohama Triennale, 2011. Bottom: OOIOO performing in Untitled (Greenhouse) at the 4th Yokohama Triennale, 2011.

ART iT このプロジェクトは、カール・ユングが1958年に発表したUFO現象についての論文『空飛ぶ円盤[Ein moderner Mythus von Dingen die am Himmel gesehen werden]』を参考にしていると話されていました。ユングは空飛ぶ円盤そのものの現実性よりもその社会心理学的・文化的な現象としての現実性を取り上げています。『空飛ぶ円盤』は第二次世界大戦後に書かれており、社会全体が危機的状況下にあるときや戦時中にはUFOの目撃が増えるという前提を仮定しています。また、UFOを信じる心情は自己からの逃避を、場合によっては投影された自己との連関をも反映しているとも論じています。
先ほど話された「Untitled (Greenhouse)」のプロジェクトの一部であったミュージック・フォー・プランツのジャンルにもまたユングが関係していたのでしょうか?

PC UFO現象の社会的・心理学的側面についての考察にはミュージック・フォー・プランツの作品とは別に興味があるので、関係ないと思います。どちらのアイディアも異常なものや無意識と関わるもの、想像力を刺激し新たな疑問を生み出すものとの連結への衝動を原動力としています。こういったテーマにおいては意識というものが広義的に取り上げられます。私は、ある人には真剣に受け止められてある人には取るに足らないものとしか思われないような、反応が極端に分かれるような概念に惹かれます。私たちがどのようにしてある観点を取り入れるかについて考えさせられたり、対立する観点を超越するような新たな視点を示唆したり、全く新しいものを教えてくれる可能性を秘めていたりと、とても有用です。ユングの文章はあまり好きではないのですが、心理学の権威でありながらもUFOの現象のようなテーマを取り上げたという点は好きです。そのことを面白がったり、荒唐無稽だと思ったり、引き込まれたりすることもできるでしょう。そういったテーマは、私たちがなぜ、どのようにしてUFOに乗った高等生物が訪ねてくるという考えに捉われたりするのかということについて、あるいは植物にも意識があって音楽を愉しんだりもするという概念について、様々な面白い問題を生み出す可能性を持っています。ユングは夢についての本格的な研究もしていましたし、人間の頭のはたらき、つまり私たちがいかにして考えるかということを知りたかったのでしょう。彼は多くの人々に人間の頭について考え、そこから私たち自身について学ぶきっかけを与えました。これは戦争により精神的ダメージを受けた世の中において偉大な功績と言えます。
温室のプロジェクトは多分、私の最初の重要な作品だと思います。ミュージック・フォー・プランツはその概念的にもきっかけとなるようなものでした。実験と体験の場としてギャラリーの中に温室を建てたのですが、これもまた科学的であることは意図していなくて、その代わりにラボのようなものになりました。「あなた自身がやってみることのできる、とある概念を基にした体験の可能性がここにあります」というひとつの提案でした。
そしてこの状況でもまた、植物が実際に音楽を聴くのかどうか自体について考えてもらうことではなくて、そのことを想像してもらうことを望んでいました。一種の課題です。ご存知かもしれませんが、ミュージック・フォー・プランツというジャンルは1970年代に流行りました。これは私の憶測でしかありませんが、当時ミュージック・フォー・プランツのレコードを買った人たちは実際に植物のために掛けるつもりではなかったのではないかと思います。殆どの人はきっとただ植物の思考に興味があったのではないでしょうか。そのように、本当はもっと面白いことが起こっていたのではないかと思ったから興味を惹かれたのです。つまり、ただ植物が音楽を聴いているだけということ以上の何かがそこにあるのです。
植物として音楽を体験するというのはどのような感じかについて考えるというのは奇妙なことです。「どんな感じなのだろう?」という疑問を持った途端、既に想像上の植物の意識の中に自分を投影し始めています。そういう意味では創造的な自己拡張を自動的に行なっていると言えるでしょう。私たちは神話を語るときや経験することのできないことを想像するとき、新しい場所に行って新しい問題について考えるための宇宙プログラムを編み出すときにそれを行なっています。こういった活動に私たちは必要に駆られて関わるわけではありませんし、それが例えば私たちに食べ物を与えるわけではありません。私たちが想像力を使って自分自身を投影し自己拡張していくのは、それが私たちの性質のひとつだからなのです。


Left: Sculpture Silhouette (R Smithson, “Gyrostasis,” 1968) (2009), powdercoated aluminum, approx 279.5 x 198 x 2.5 cm. Right: In foreground, Sculpture Silhouette (U Boccioni, “Unique Forms of Continuity in Space,” 1913) (2008), powdercoated aluminum, approx 264 x 145 x 2.5 cm; and Sculpture Silhouette (S LeWitt, “Incomplete Cube,” 1974) (2008), powdercoated aluminum, approx 213 x 214 x 2.5 cm.

ART iT あなたは自己投影についてよく語られています。「Untitled (Sculpture Silhouettes)」では、ヴィレンドルフのヴィーナスやロダンの「考える人」、いくつかの象徴的な現代美術の作品などといった、美術史上の有名な彫刻作品の巨大かつ平面的なシルエットを作られましたが、ここでも自己投影を取り上げているのでしょうか?

PC そのプロジェクトはどちらかと言えば抽象化にまつわるものです。それらの象徴的な作品がどのようなかたちで現在に残っているのか、なぜ重要とされてきたのか、いかに文化の頭の奥にとどまってきたかについて考えました。美術史に残るかどうかを決める要素は人々の思考以外にもたくさんの要因があることは分かっています。主観的な体験と共により広い文化的な枠組みに捉えられていると考えることもできるでしょう。このプロジェクトをきっかけに私たちの記憶の捉え方や記憶との関係性について考え始めて、それと空間・時間の中で彫刻作品とはどのように体験されるかということとを関連付けました。私たちは彫刻作品の周りを移動し、ある概念を巡って考えるかのように、その作品をより広い文脈で知るためにいろんな視点から見て時間を掛けて観察します。
私は遠近法や視点の問題に興味があります。「Sculpture Silhouettes」では、どのようにして物を見るか、身体的にどの位置の視点から見るかについて考えてもらえるように「視点」というものを文字通りの解釈で使いました。遠近法に対する考察が参照されたイメージについての考察と相前後することを意図しています。象徴的な立体彫刻作品を前、横、そしてその間のいくつもの角度から見たシルエットとして平面化しました。シルエットの彫刻作品は、参照している作品やそれらが表す全てが私たちの記憶から出たり入ったりするのと同じように、私たちの視点から出たり入ったりします。私たちが彫刻作品のような物を見る角度を選ぶことによってそれらとふれあうということの物理的なメタファーなのです。これらの作品では両方の種類の視点を採り入れることによって抽象化することを意図していました。元の物量を欠き客観化された「Sculpture Silhouettes」は空間における作品の体験にとって重要な効果をもたらします。「Sculpture Silhouettes」は公園の中に設置されていて、その空間の中を移動しながら見ると、まるで動かずにして形を変えているかのように見えます。シルエットに対して垂直な角度から見るとその全貌が見えますが、その視点が90度動くと認識することのできない、殆ど目に見えない縦長の薄片になります。そのような描写を見て違う立場から理解することはできるのか? それらが結びついている記憶や様々な連関を視野に入れた上で別の理解を持つことはできるのか? そのような問題がこのプロジェクトの根底にあります。


Both: Untitled (UFO) (2008- ), functional flying saucer, appearances: Baltic Sea Region, Gdańsk, Sopot; Southeast Region of Brazil and Rio de Janeiro.

ART iT UFOのプロジェクトに話を戻しましょう。グダニスクには、第二次世界大戦の始めにナチスが最初に占領した場所でありドイツのUボートの製造場所となった、特異な歴史があります。UFOを作った格納庫はまさにそのUボートが作られていた場所で、その格納庫が後に取り壊されたためUFOがそこで作られた最後のプロジェクトだったとあなたは言いました。その歴史はUFOのプロジェクトにどのような影響を与えたのでしょうか?

PC それはとても面白い発見でした。グダニスクがUFOのプロジェクトの文脈において興味深い現場となった理由はいくつかあります。まず、社会学者たちとのディスカッションに参加した人々はポーランドのカトリック教との繋がりや、いくつもの戦争を経験してきた国であることについて話しました。これはこのプロジェクトに関係のあることだということになり、戦争、信念、そして戦争への精神的な反応としてのUFOの目撃というユングの説にまつわる議論がこの作品を生み出した対話の一部となりました。

ART iT グダニスクでの調査の結果はどのようなものでしたか?

PC 主に質的な反応でした。プロジェクトの体験から発生した質問は、「なぜこのようなことをしたのか?」というものでした。私は人々の不意を付きたくはなかったので、プロジェクトの一環として事前にUFOのことのプレス発表を行ないました。それが不思議に思えたようで、「なぜ私たちをUFOで驚かさなかったのか?」という疑問を持たれました。そこからは当然、もっと興味深い質問が続きました。人工のものであるならば、あのUFOは何なのか? UFOの概念は何を表しているのか? その概念もまた人工のものだということか? 私たちの信念はどこから、どうやって生まれるのか? 信念や想像からは、私たちが考えていることや私たちがどのようにして考えるかについて何を学ぶことができるのか?
UFOは、存在を否定するか、信じたいけれど確実に知ることはできないかのどちらかに分かれる、私たちの外部にあるものです。その「知ることはできない」というところが、信念あるいは興味本位から繋がりを持ちたがる欲望により、私たちの文化がUFOと連関している事実があるにも関わらず、UFOを私たちから遠ざけているのです。しかしこの連関はとても力強いもので、広義では文化的な信仰と信用と関わっています。例えば宗教、権力の信用、社会の進展への信心、そしてそのまた向こうにある、私たちが知りたいけれど知ることのできない全てについての想像について考えてみてください。未来に向けて自己投影するのは私たちの性質の一部ですし、説明できないものは想像力を使って説明し、知り得ないものについて想像することもまたしかり。このプロジェクトにおけるUFOは人工のものであることが明示されていました。私たちの下から生まれており、そのことを認識している以上は私たちの外部にあるものではなくなります。外部にあるものではなくて、ただ外部にあるものを表しているものということです。外に向けた投影として認識するにあたり、未知のUFOに比較することができます。それは謎でもなく、いたずらでもなく、本物のUFOでもありません。そしてそれは私たち自身の主観性やUFO現象を生み出した文化の主観性について考える上で、一種の客観性をもって捉えられるものとなります。肯定と否定との両極端に分かれがちな通常の観点から外れてUFOという社会心理学的・文化的現象について考えることによって、私たち自身について何かを学ぶことができるのです。


Top: Black Dice performing in Untitled (Greenhouse) at “Perfect If On” at Andrew Kreps Gallery, New York, 2002. Bottom: Untitled (Greenhouse) (2002), greenhouse, plants, speakers, soundtrack, sound system, musical instruments.

ART iT それはあなたが言っていた、「植物として音楽を体験するのはどのような感じかについて考えるというのはなんて奇妙なことだ」ということとも繋がるように思えます。あなたが創造的な自己拡張、あるいは意識の投影と呼ぶものは、身体的・精神的な基準枠全体が唐突に意識から切り離され超越的あるいは体外離脱のような体験にすらなり得るほど強烈に身体的なものとなる性行為というものにも関わるのではないでしょうか。

PC そのことについて考えたことはありませんでしたが、これまで話してきたような発見には確かにある種の解放が関わっているようには思えます。もしかしたらエゴからの一時的な独立が関わっているのかもしれません。私の作品には、私自身が惹かれる効果も生むという理由でユーモアも度々現れます。ユーモアには通常の視点を超越する可能性のある、不条理な見方や滑稽な見方を促すことができます。私が好きな体験に、ジョークに笑ったすぐ後に一体何がなぜ、どのようにおかしかったのかについて考える瞬間というのがあります。ジョークとは大抵、ほんのちょっとだけ考える余地を残してくれるという点で最初に伝わるよりも深みがあるものです。まるでジョークがなんらかの境界をそのウィットをもって取り壊し、物事を新たな観点から見せてくれることによって、本題への特別な参加を許してくれるかのようです。
先ほどの、ひとつの点からもうひとつの点への最短距離は必ずしも直線ではないという話を思い出します。それは長く曲がりくねったジョーク、想像から成る解説や手の込んだ神話のように、一見回り道のようでも結局もっと直接的なものかもしれません。彫刻作品を全ての角度から鑑賞するために歩き回ることによってより直接的な繋がりが得られるということかもしれません。

ART iT この庭園の中を歩いていたときに宗教の話題が出ました。一部の宗教は一連の「形式的な行動」とも呼べるような行為をひとつの生き方として扱っているのに対し、他の宗教ではある立場を取らなければならないとされるということが多くの人々を他の視点から切り離してしまうのではないかということでしたが。

PC そうですね。私は物事について完全に心を決めていない中立的な立場というのが好きです。つまり成長を制限するような固定的な意味の閉鎖の類は避ける主義なのです。例えばUFOの存在の否定と肯定との狭間において、存在「する」「しない」の枠組みの外で考える自由とは、その問題自体やその他にも疑念あるいは信念に関係のあるかもしれないこと全てを問題にするためにあるようなものです。「この概念はどこから生まれたのか?」という問題について考える方が立場を決めることよりもずっと面白いです。「そもそも、私はなぜある特定の考え方をするのだろうか? 私が物事についてどのように考えるかについて何が分かるだろうか?」。宗教は、信用以外に正当性を立証するものはないことを巡り関わることのできるものという意味でとても興味深いです。私たちが美術とは重要なものであり意味を作り出すものであると信じているのと同時に、それをコントロールすることも、その重要性を定義付けることも私にはできません。私個人の気風は「きっと」や「もしかして」というところにあって、もっと知りたいという好奇心に結びついています。とどの詰まり、概念とはただ単に存在するものであって、どうにかして理解されていくものです。それらがどのようにして存在しているかということの方がずっと面白いです。


Untitled (UFO) (2008- ), functional flying saucer, appearances: Baltic Sea Region, Gdańsk, Sopot; Southeast Region of Brazil and Rio de Janeiro.

ART iT 美術の策謀とも言えるところは、解釈している物事について客観的な視点のようなものを持つことができるという考え方にも見られます。UFOのプロジェクトは、UFO自体の存在を客観的に捉えることのできる本物の偽物と認めることによって、それを見ていた人たちの哲学的な議論を促しました。もしそのプロジェクトにおいてUFOが人工的に作られたものだということを隠そうとしたり、事前に定められた論点や解釈をもってこの題材を取り上げていたとしたら、そういった哲学的な議論は起こらなかったかもしれません。世界を人工的に作られたものとして理解するための枠組みを作ったとも言えるでしょう。ある人が日本庭園について話してくれたことを思い出します:
「全てがよく手入れされていることは明白です。自然にそうなったと思わせようとはしません。誰にでもそれが同時に自然であり作られたものでもあることが分かるようになっています。だから私は木の枝を支える棒も好きなんです。その木が自らそのような形で育とうと思ったことはなかったことが眼に見えるので」

ピーター・コフィンは11月6日まで開催中のヨコハマトリエンナーレ2011『OUR MAGIC HOUR』に作品を出品中。

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