リクリット・ティラヴァニ インタビュー (2)


Installation view, Vienna Secession, 2002. All images: Courtesy Rirkrit Tiravanija and Gallery Side 2, Tokyo.

 

学問の厳密さについて
インタビュー/アンドリュー・マークル

 

II.

 

ART iT 立体が複製可能なメディアであるという点に関して、あなたのニューヨークのアパートやロサンゼルスにあるシンドラー・ハウスのレプリカのような、実物大の作品の場合はどうでしょう?

RT 立体作品をリファレンスとして扱っています。作品は一定の機能を持っているので、私がそこにある意味を見出していると同時に、その機能性によってほかの人も「使う」ことができる。そして、その使う行為を通じて、別の意味も発生してくる。
モチーフは、見る人に何らかの理解をもたらしてくれるようなモノを選んでいます。たとえば、シンドラー・ハウスは、家の構造について考えさせてくれます。シンドラー・ハウスの構造がどう機能していて、中の人はどう暮らしているのか。と同時に、建築家として非常に興味深い、シンドラーという人自身についても語っています。

 

ART iT ルイス・キャロルやホルヘ・ルイス・ボルヘスも、実物大のマップという概念に言及していると思います。実物大のマップが覆うものとマップ自体が表現しようとしているものに差異が無くなってしまいます。先ほど、実体のない彫刻について触れたのはそのためです。実物大というスケールにおいては、鑑賞しているはずの作品の作品性を見失います。

RT 面白いですね。ハンス・ウルリッヒ・オブリストは、最近、マップに関する本を計画中で、マップ会議なるものを開催しました。マップとは、物事を様々な角度から経験することです。その意味で、実物大という概念は、多くの可能性を持っていると思います。
作品が写真におさめられないのもいいですね。その理由が、自分から見えていないからにせよ、どこを見ていいかわからないからにせよ、カメラのフレームに対して大きすぎるからにせよ、見る人がその場にきて、スケール感や距離感を感じてはじめて意味が派生してくる。

 

ART iT 見る人は、作品を経験しながら、自分なりのイメージを想起していると?

RT はい。2005年のパリ市立近代美術館での 『A Retrospective (tomorrow is another fine day)』展では、もともとの過去の作品は展示しませんでした。人が自らのメンタルなイメージを通して、作品を見たり感じたりすることについて言及しています。私たちは何かを見ているとき、ほとんどいつも何かを見ているわけですが、それでも意識しないと見えていないことがあります。このことは、アートを考える上でとても重要です。アーティストとそうでない人の違いは、そこにあるからです。つまり、何かを感じ取ったあと、そのことをほかの人が経験できる形で提示することができるかどうか。

 

ART iT 『A Retrospective』展において、過去の作品を再提示するのではなく、美術館の空間とサウンドだけで展示を構成しようと決めるまでには、どんな経緯があったのですか?

RT いつもと同じです。そんな類のことをのらりくらりと考えるのが、私のやり方ですから。回顧展は、いままで見る機会がなかった作品が見れたり、写真だけでしか見たことのない作品に出会うことができるという意味で有用です。アパートの作品をシンドラー・ハウスやそのほかの作品の横に並べた場合、ディズニーランドのようになりかねないと思いました。あえて、みんなが館内に設置された小さな列車に乗り、展覧会をぐるりと回ればそれはそれで面白いのかもしれませんが。
基本的に、ふたつの可能性について考えました。ひとつ目は、マリーナ・ アブラモビッチがニューヨーク近代美術館の展示で行ったように、「再現すること」について掘り下げるやり方です。それは実際に彼女と私の間で多くの議論が交わされたことです。その場合、再現することの問題を状況的なものに落とし込むことになります。それでは何かが解決しないと思ったのです。見る人は、物理的に同じ作品を見ているけど、再現なので、当時の=本来の作品を見ているわけではない。そのことに気がつく必要があると。その意味において、もし次に回顧展をやる機会があれば試みたいと思っているのが、演劇的な再現です。来館者は劇場の観客席に座り、舞台上で俳優によって過去の展示が再演されるのを見る。
ふたつ目の可能性が、過去の作品を足場にして、まったく新しい鑑賞経験を創出すること。つまり、過去の作品を新しい作品として作り変えることです。

 


Untitled (1990) (pad thai).

 

ART iT シナリオという観点からいくと、個々の展覧会が素材となって、異なる状況では違った組み合わせ方が可能だと?

RT もちろんです。私はいつも、自分の作品を見直したり再検討しています。というか、もともと確固としたはじまりや終わりのある作品を作ってはいません。どこからはじまって、どこで終わるのかわからないので、常に意識している必要があり、起こるべくして何かが起こる。最初に料理のパフォーマンスをしたとき、すぐに失敗したと思いました。そして二回目をやってみて、一回目の失敗の原因がわかったのです。物事には一連の流れがある、と言うのはそういうことです。物事の意味やほかの可能性を常に再考していると、流れはさまざまな理由でシフトしていきます。
最初の料理の作品では、蘇生することがテーマでした。美術館に行くと、美しい鍋や茶碗が展示されていて、私たちはそれらをアート作品として見るわけですが、それらが展示されている理由と、元来は米を食べるための茶碗であったという現実の間には、大きなギャップがあります。西洋的なシステムにおいて、それらは美的な価値を持っているかもしれませんが、私のシステムにおいては、使えることに価値があるので、そのギャップに疑問を抱きました。そこで、美術館の展示品をガラスの陳列ケースから出して、実際に使ってみたのです。でも徹底的に使ったわけではなかったので、展示の域を出てはいなかった。鍋の中でカレーはぐつぐつ煮えていましたが、来館者はその様子をただ見つめているだけでした。その経験があって、カレーは食べられる必要があるとわかったのです。実際にカレーを食べられるようにしたら、もっと多くの人が来るようになりました。私の調理のスピードが追いつかなくなったので、ほかの人が手伝ってくれるようになりました。演出などではなく、やるべきことをやっているだけなのです。でも、ペースがゆっくりなので、いつまでも取り組んでいる。そうすると、決まった時期にはじめたり終わらせたりする必要がないと気がつくのです。そもそも誰が決めたルールなのでしょう?電気はつけなければならないのだと誰が言ったのでしょう?それらは、あなたが気づきさえすれば、Noと言える代物です。もしくは、何か特定のものを照らしたいという理由でYesと言うこともできます。

 

ART iT あなたのロック・オペラ作品である「Ramakien」(2006年)でも、観客が席について幕が上がったあと、会場の照明をつけっぱなしにしていましたね。

RT はい。オーケストラやキャストたちが、まだリハーサル中みたいな感じなので、観客は何が起きているのかわからない。まだはじまってないと思っていたら、劇ははじまっていた。舞台と観客席という設定はあるけれど、全員に参加してほしいわけです。見る人は、暗転した会場に座っていることに慣れているので、客電をつけたままにしておくこと考えました。
基本的には、私自身の経験に着想を得て、やってみるという感じです。観客にはそれぞれの予定があって、イベントが終わってからディナーに行くつもりの人もいると思います。でも、もしイベントが終わらなかったら?ずっとやっている。となると、彼らはそのまま鑑賞を続けるか、帰るかの選択を迫られます。帰った場合、自分たちが席を離れたあと、何か面白いことが起きたのではなかと考えるかもしれません。残ったとしても、ディナーに行った方がよかったのではないかと考えると思うのです。どちらも人間の心理でしょう。「疑念」は、人間の意識の中で最も重要な要素のひとつです。ひとつのことに関していろいろ考えることができるから、何でも鵜呑みにしないわけです。人は物事を分析的に考えて、疑問を持つようにプログラムされています。そして、納得がいかないからいろいろと考える。

 

ART iT 展示空間および共同体的でもある劇場空間は、そこに足を踏み入れた人が抱える疑念によって形作られた、個々のドラマを吸収するスポンジのようなものだと考えているのでしょうか?

RT 同作品が提示するもの、という意味では重要だと思います。敵対的であるというより、自分で決断を下し、そのことによって自分に責任を持つ。作品は、見る人によってよい経験にも悪い経験にもなりえるけれど、自分でその決断を下すというのが大切なのです。

 

ART iT あなたは自分の作品を、たとえば、単に自宅アパートの実物大のレプリカであるというより、社会的な状況の原寸大レプリカであると考えているということですか?

RT 難しいところですね。人間関係はとても複雑です。作品のスケールとその中にいて感じるリアリティーという点においては、そうかもしれません。でも、作品の機能という点においては何とも言えません。作品は、観客のひとりであるあなたが行動するきっかけであって、そこで何が起こるかは、まったくもって計り知れません。そのことは、いつも大切にしてきたと思います。もし計り知ることができたら、みんなが同じような行動をとり、同じ鑑賞経験を持って帰るということになります。私にとっては計り知れないこと、つまり、作品がポテンシャルを持っていることがとても重要なのです。

 

リクリット・ティラヴァニ インタビュー (3)

 

 


 

リクリット・ティラヴァニ インタビュー
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