高嶺格「Do what you want if you want as you want」に寄せて (2001)

ビデオインスタレーション「Do what you want if you want as you want」に寄せて

中東問題は宗教戦争ではない、政治的闘争なのだ、と彼女は語った。イスラエル軍の非道ぶりを手厳しく批判し、その返す刀で、「モスリムの名誉」を賭けて戦うパレスチナ人テロリストを、同胞ではなく、筋違いだと言って批判した。

当時、イスラエル「国家」からお金をもらってイスラエルに滞在していた僕にとって、彼女との再会は誠に心痛い、ぶざまな体験として心に刻まれた。「政治活動家として」彼女の口から発せられる全ての言葉は、「友人として」その言葉を聞いている僕に、パレスチナ問題に対する態度の選択を迫る言葉の様に聞こえた。
中東問題は、もはや道義的な個人的判断が、状況に対して意味を持たないという意味で根が深いのであって、ユダヤ、パレスチナのどちらかの「血」、或いは宗教的シンパシーを持たない個人にとって、意見する事が難しい。彼女の話に、阿呆みたいにフンフンと相槌を打つだけの自分がそこにいる。

僕は以前、彼女と共に、パレスチナ最大の紛争地、ガザを訪れた事がある。そしてそこで出会った幾人かは、日本の美術家である僕に、まるでジャーナリストに対する様に丁寧に、日常生活の報告をしてくれた。ここには、世界のジャーナリズムを味方につけようとする意志が、はっきりと見て取れる。この時、「ガザを訪れた者の責任」という言葉が、僕の中でグルグル回っていた。

中東問題は、元々ヨーロッパが原因を作ったのであって、僕には口を挟む隙が見当たらない、それが不運であるのか幸運であるのか、それすら判断できず、ただ「世界に参加していない自分」を自覚する瞬間を怖れている自分の肉体が存在する。
グローバリゼーションによって顕在化する、このような「無関係」の存在について、誰に相談すればいいのかわからない。「お前なんかにわかってたまるか!」と言われる事の恐怖ゆえ口を閉ざしてしまう肉体的恐怖について、である。

中東という時、僕の眼には、僕の体には、まずイスラエルの友人達と過ごした光景が蘇ってくるのだ。そして同時に、パレスチナ自治区で出会った愉快なおじさん達との、たわいない会話が思い出されるのだ。それらは、いっしょくたに美化されて、僕の体を通って抽象化され、作品となって世に送りだされる。僕の勝手な抽象化が、友人達の気分を損ねるものであるならば、その時初めて、作品は「政治的」だということになるのだろう。その意味において、僕は政治的であるよりも、友情の存続の方を強く望むのだ。

高嶺格

(このテキストは2001年、大阪での個展『Do what you want if you want as you want』にてビデオと共に展示された。)

高嶺格 インタビュー

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