シルケ・オットー・ナップ インタビュー


Saturday’s Ledge (Grey) (2014), watercolor on canvas, 101.5 x 132 cm. All images: Unless otherwise noted, © Silke Otto-Knapp, courtesy Taka Ishii Gallery, Tokyo.

 

凍る、暗く、深く、とことん透き通る*1
インタビュー / アンドリュー・マークル

 

ART iT 踊る人々からロサンゼルスやラスベガスの都市景観、歴史的な写真まで、あなたの絵画はこれまでに幅広いモチーフを扱ってきました。新しいシリーズでは、海に囲まれた島々に焦点を当てていますが、こうした最近の展開について聞かせてもらえますか。

シルケ・オットー・ナップ(以下、SOP) まず、こうした展開を線的なものとして説明することはできません。私には、絵画や絵画空間について考えることで生じるいくつかの変わらないアイディアに、自分自身が何度も立ち戻っているように思えます。東京で発表した作品は、これらの絵画を制作した場所、北大西洋の小さな島の写真を基にしていますが、実際の場所は描かれていません。これらは、舞台設定としての絵画空間をテーマとしており、ある意味では、人物や舞台美術の構成要素を扱った絵画に似ています。過去の作品では、ダンサーをモチーフに、その動きで絵画空間を描き出したり、ある種の舞台をつくりあげたりしていました。
それから、舞台の背景や(舞台と観客が境界によって明確に区分された)プロセニアム・ステージの空間に対する考察を通じて、私は風景というモチーフに興味を持つようになりました。私にとって、何も描かれていないキャンバスは、常に、イリュージョンを確かに約束するもの、いわば、世界の窓を備えています。極めて明確に構成され、しっかりと縁取られた限定的な空間を提示しているので、プロセニアム・ステージのような絵画空間について考えるのが好きですね。プロセニアムという舞台の形式は、おそらく上方からの正面像を扱うものです。シンプルな背景を使ったり、シンプルな構成要素を加えることで奥行きの感覚をつくりだすことができます。非常に基本的な方法で、その空間自体が持つ技巧に意識的な完結した世界を想像させることができるのです。このように、私の関心は空間それ自体を描き出す人物から、背景や舞台美術へと徐々に移っていきました。最近の作品では、舞台の背景という観点から、風景画の空間や歴史に取り組んでいます。

 

ART iT ある角度から見ると、これらの絵画はほとんどレリーフのように見えたり、エナメルの印刷版を思い出したり、なにか空間的な厚みが与えられています。どのように制作しているのですか。

SOP これらの絵画は(まるで線画のように)色彩とディテールに還元されていますが、私はそれよりむしろ表面と空間に集中しようとしています。新作の絵画における異なる島の形が図(ポジティブスペース)として描かれ、海や空が地(ネガティブスペース)として存在することもあれば、まったくその逆になったりもする。私はモチーフを絵画空間へと移し替えたり、変換するような前景と背景との緊張関係の構築を試みているのです。
ここには描き足すだけでなく拭い取りもする水彩画の制作行程が反映されているのだと思います。自分が選んだイメージのドローイングを描くところからはじめることで、モチーフやその正しい寸法や明暗を決める助けになります。ある時点で、そのモチーフをキャンバスへとうつし、すぐさま水で拭い取ることで、モチーフを消滅させて、痕跡だけを残します。こうすることで、絵具が取り除かれた後に残る痕跡でできたネガティブな筆跡のようなものが生み出されます。油彩を塗り重ねることなく現れてくるこのような身体的な行為の形跡が好きですね。取り除かれた情報も表面に現れている情報と同じく重要です。絵具や水の塗りを拭い取ったり、加えたりすることで、まるで自分が絵画空間に再びモチーフを見つけ出さなければならないかのようです。

 


Installation view of the solo exhibition “Monday or Tuesday” at the Camden Arts Centre, London, 2014. Photo Marcus Leith, courtesy greengrassi, London.

 

ART iT あなたが自分の作品における時間についてどのように捉えているのか興味があります。ダンサーを描いた絵画であれば、その動きの中に時間が示されています。島や島の風景は、地平線で行き止まりの山とは異なり、船などで巡回するのが前提なので、これらの作品にもそういった種類の時間という要素があるのではないかと思います。それから、あなたの作品にはモダニズムやモダン・ダンスの歴史を掘り起こした歴史的な時間があり、おそらくそこにはある種の地質学的な発掘もあるでしょう。

SOP 絵画の制作過程には、観客に見えるのが取り除く行為の結果であるということで、どこか少し発掘作業に似たところがあります。もしくは、むしろ絵画はゆっくりとした堆積の過程を経て生まれてくる。もちろん、あの絵画には、ダンサーの動きという現実的な時間がありますし、観客が展示空間と絵画との関係で動くことで、さまざまなモチーフが繰り返し現れたり、形を変えて現れたりするような時間経験もあります。それから、ダンスの歴史や文学、美術史のある具体的な人物や瞬間を呼び起こすような歴史的な時間がある。私はそういったモチーフを使ったり、特定の人物に言及したりすることで、歴史的な時間を絵画を用いて発表しますが、絵画の制作過程それ自体は、絵画の物理的表面が現在においてどのように存在しているかに表れています。

 

ART iT バレエ・リュスはもちろん、アーティストのフローリン・ステットハイマーやコレオグラファーのイヴォンヌ・レイナーといった歴史的な人物も、あなたの作品に影響を与えていますね。

SOP そうですね。今回の作品では、イラストレーションや感傷的な表象をつくりだすことなく、海の風景というモチーフにアプローチすることが重要でした。私はアメリカの詩人エリザベス・ビショップの作品を通じて、こうした課題に取り組みました。モダニストである彼女は、(マサチューセッツ州ウースターで生まれ、)カナダのノバスコシアで育ち、フロリダで暮らした後、ブラジルに移住して、最終的にアメリカ合衆国へと戻ってきました。彼女の作品の多くは地理や旅、異なる場所に住むという経験に関するもので、ある意味、それらは記述的かつ非感傷的なものです。それは、著者がなにかを見て、それを解釈したり、感情を表現しているというよりも、観察しているといったものでした。私は彼女の肖像画からはじめることにしました。私はたびたび直接的に描かれることのない私の絵画の主人公について想像するのですが、ほかには、ヴァージニア・ウルフやフローリン・ステットハイマーがいますね。ロシアのアーティスト、ナターリヤ・ゴンチャローワみたいな人物にも興味があって、彼女の作品に直接的に言及することはせずに、特定のモチーフを選んで、再構成してみたりします。現在、準備しているカナダの美術館の展覧会では、そのような「肖像画」として描いた人物を集めた空間を設けようと考えているところです。

 


Both: Installation view of Silke Otto-Knapp & Florian Pumhösl, “Ratio of Distance,” at Taka Ishii Gallery, Tokyo, 2014. Photo Kenji Takahashi.

 

ART iT あなたにとって、絵画を通して歴史を扱う必然性というのはどこから来たのでしょうか。

SOP 絵画への興味が出発点ですね。自分が絵画を制作できるような具体的なパラメーターを設定することについて考えていて、それは、自分が活動する制限された枠組みを考えることです。また、展覧会という状況や絵画同士の関係性をつくることにも細心の注意を払っています。しかし同時に、それぞれの作品は自立しているべきなので、絵画同士の関係をナラティブなものにしようということはありません。
歴史的な素材を使うことに関して、私は常に制作過程でなにかを発見したいと考えていて、例えば、イヴォンヌ・レイナーやバレエ・リュスの場合、別にわかりにくい素材を使用しているわけではありません。足したり、引いたりする過程を通じて、モチーフが物理的な空間と概念的な空間に同時に対処する形で現れてきます。

 

ART iT あなたの作品における近代美術とダンスの交差はかなり興味深いものだと思います。これまでに近代美術はある程度の普遍性というものを築き上げてきました。国際的な現代美術について話すとき、原則的に近代美術の歴史的展開に基づいた話がなされます。当然、競合する美術の体制はあるけれども、国際言語としての近代美術というようなほぼ一致した意見があります。しかし、モダン・ダンスは近代美術の場合と同じような総意を獲得していないように思えるのです。おそらく、世界中の多くの人々がダンスと言ったら、クラシック・バレエを連想するでしょう。

SOP もちろんそこにはいくつかの潮流があります。バレエ・リュスは、同時代のリアリティを掴む前衛芸術としてのバレエとして、ダンスの歴史における最初の瞬間であって、それは19世紀のロマン主義のバレエのような支配的な権力関係を支持するような肯定的表現としての娯楽とは正反対のものでした。(セルゲイ・)ディアギレフとそのカンパニーがロシアを離れた時点で、彼らの方法が必ずしも政治的事象を直接的に扱っていたわけではないけれども、亡命という経験を包含していったのです。続いて、50、60年代のジョージ・バランシンとニューヨーク・シティ・バレエ団ですね。彼はモダニズムの概念をクラシック・バレエに持ち込む一方で、伝統的な言語を用いていました。マース・カニンガムやトリシャ・ブラウン、イヴォンヌ・レイナーといったバランシンの後続世代は、動きに対する独自のアプローチを発展させて、しばしばバレエの練習法を否定し、作品に日常的な動きを取り入れていきました。レイナーの場合、政治的、社会的問題を扱う必然性とともに、フィルムへと導かれていきました。
この辺りから、事はより多様に、複雑になっていきました。ここのところ、マイケル・クラークがすごく面白くて、しばらく追っかけています。彼の振付けはクラシック・バレエの言語に根差していて、彼は動きを組み立てるための構造としてそれを使っていますが、制作過程で修正したり、転覆したりする。道具としての身体に依存した複雑な形式言語として、クラシック・バレエは興味深いです。そこで生み出された形式的な規律と表現の緊張関係が、観客としての私の興味を惹き付け、そうして私は自分の絵画へと向っていくのです。

 


Two Figures (leaning) (2006), watercolor and gouache on canvas, 100 x 120 cm.

 

ART iT これは少し不躾な質問になるかもしれませんが、私にはあなたの作品がモダニズムと現代美術の関係の曖昧な場所に位置しているように思えるので、自分自身の作品と普遍性という概念との関係について、あなたはどのように考えているのでしょうか。

SOP つまり、非歴史的だということですか?これらの絵画が風景を扱っているからといって、非歴史的だと言えるでしょうか?これらの絵画に無時間性という要素があるのは否定しませんが、歴史的なものを模倣しているとは思いません。多分、これらは私が抱いている個々の具体的な歴史的ポイントや関心事と繋がっていて、それらが現在における存在の仕方に折り合いをつけているのだと思います。現在、どのような風景画が可能か。そう、自問しているのです。
風景画であれ、どんなものを描く絵画であれ、その困難な試みとしての具体性に興味があります。ただモチーフを選んで、それを描くなんてことができるとは当然考えていません。「現在、どのような風景画が可能か」という問いは、結果になんらかの形で現れていなければならず、自分の作品はそれを表現していると願っています。これらの絵画には不思議な身体的抵抗があり、私は常に技術を気にせず、効率的に、その制作過程に取り組もうとしています。そのモチーフは観客の心を動かしたり、注意を引いたり、反応を得たりするでしょうけれど、こうした兆候はどこか実現されることのないまま、現在にその絵画を位置づける欠如をつくりだすでしょう。

 

ART iT それは、静止することのない絵画と呼ぶことができますか。

SOP おそらくは。私はいかなる決まり事もなく、そのような絵画に向かっているのです。

 


 

*1 エリザベス・ビショップ「漁師小屋で」の一節より 『エリザベス・ビショップ詩集(世界現代詩文庫)』(編・訳/小口未散、土曜美術出版販売、2001年)

 

 


 

シルケ・オットー・ナップ|Silke Otto-Knapp
1970年オスナブリュック(ドイツ)生まれ。舞台、モダン・ダンスの歴史を参照し、水彩絵具とガッシュを用いた独特の手法で制作した絵画で知られる。近年、テート・ブリテン(2005)やクンスト・フェライン・ミュンヘン(2010)などで個展を開催。2014年は、フィレンツェのマリノ・マリーニ美術館(2014)、フォーゴ・アイランド・アーツ、カナダ(2014)、クンストハレ・ウィーン(2014)、カムデン・アーツセンター(2014)の個展を連続して開催した。また、タカ・イシイギャラリーでは、フロリアン・プムフースルとの二人展『距離の比率』を開催。カナダのフォーゴ島に滞在しながら、海に囲まれた、広大な陸地の続く静かな島を歴史的なモチーフとしてとらえ、島を正面から見た図と上から見た図を融合させたイメージを描いた新作絵画を発表している。

シルケ・オットー・ナップ & フロリアン・プムフースル『距離の比率』
2014年11月22日(土)-12月20日(土)
タカ・イシイギャラリー
http://www.takaishiigallery.com/

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