カスパー・ケーニヒ インタビュー

2017年1月15日
残るものさえ真理なり
インタビュー / アンドリュー・マークル




Claes Oldenburg Giant Pool Balls (1977), Skulptur Austellung in Münster 1977, photo LWL / Hubertus Huvermann 2016.


ART iT この20年の間に日本ではミュンスター彫刻プロジェクト(以下、彫刻プロジェクト)をモデルにしたような新しい形の展覧会が増えてきました。その多くは人口が減少し、経済や産業も縮小している地域を舞台にして、もはや使われていない学校や工場、家屋などの建物を転用した複数の会場からなるアートイベントとして開催されていますが、それらは地域のインフラや経済の再生を目的とした支援を受け、行政や地方自治体との間に強い結びつきがあります。彫刻プロジェクトがそれらと異なるのは、当初、ミュンスターの市民や行政と対立的な関係にあったことがあげられますね。40年間という彫刻プロジェクトの活動を経てきて、行政や自治体がアートを手段として利用することについてどのように考えていますか。

カスパー・ケーニヒ(以下、KK) ミュンスターの場合、「対立」という言葉でさえどこか友好的なものに響きますね。そこにあったのは私たちに対する凄まじい敵意で、計り知れないほどのものでした。彫刻プロジェクトが10年ごとに開催される展覧会となったのはまったくの偶然です。
何よりもまず、1960年代後半に先の大戦を経験した世代と若者世代との間に断絶が起こりました。西ドイツは歴史のトラウマを認めつつ、(人生は続いていくのだからと)将来に目を向けようとするヴィリー・ブラント首相と東方外交の時代でした。最初の彫刻プロジェクトは1977年だったので、そこには10年近いタイムラグがありましたが、このような時代背景に、ミュンスターでは大学と実業界というふたつの要因が関わっていました。大学は学術面でファシストらしい権力闘争に強く依存していたにもかかわらず、そんなことはないふりをしていたし、実業界はただただビジネスのことだけを考えていました。両者は彫刻プロジェクトがはじまる数年前、1975年にジョージ・リッキーの彫刻「Three Rotary Squares」の公開時の論争に関与していました。これに対して、ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館のキュレーターだったクラウス・ブスマンは、美学の最高峰といえるロダンからカルダーにいたる近代彫刻の歴史を市民に教える必要性を感じ、美術館でその歴史を一覧する展覧会を企画し、それから、個人的な面識がなかったにもかかわらず、私に現代彫刻部門と公園に設置された近代彫刻を扱う「自立した彫刻」という中間的な部門を企画しないかと誘ってきました(当時、私はニューヨークにいたので、アメリカ合衆国を拠点とするアーティストが数多く参加することになりました)。こうして、歴史を概観する部門、自立した彫刻部門、そして、アーティスト自身が私たちと相談しながら展示場所を決めて、その場所に介入していくという部門の三部構成の展覧会になりました。
いずれにせよ、本来は長期的なプロジェクトにするつもりはありませんでしたが、私が未だに関わっているのには次のような理由もあります。何回か成功した後に、展覧会を財政面で支えた州と市が彫刻プロジェクトをこれまでの10年に一度から5年に一度の開催、つまり、ドクメンタと同じタイミングで開催したいと考えるようになりました。ドクメンタの開催が1年延びたことで、1987年にミュンスターはドクメンタと初めて開催年が重なり、多大な利益がミュンスターにもたらされることとなりました。2007年の彫刻プロジェクトが終わった後、私は「5年ごとに開催しようとするのならば、最高裁で話し合いましょう。あなたたちにそんな資格はありえません」と彼らに告げました。私に法的根拠があったかどうかはわかりませんが、彼らは要求を取り下げました。その後、私は最終責任をとって、彫刻プロジェクトをそのまま続けるためのチームを編成することになりました。10年に一度というゆっくりとしたペースは、社会との関係だけでなく、彫刻的なアプローチに起きている変化を観察する最適な方法なのです。
ミュンスターは中心部の90パーセントを戦争で壊されましたが、その後、元通りに再建されることになった珍しい都市です。イギリスの空爆で家々は破壊されましたが、下水設備が損傷を受けることなく残ったために、元通りに再建することが経済的に現実的だったのです。これはイデオロギーに基づく決定だったと考えられがちですが——つまりミュンスターは非常に保守的でカトリックが強いなど——実際は一種のプロパガンダ的な論拠にすぎません。ただ単に最も簡単だっただけです。この再建はポストモダニズム以前のポストモダニズム的試みでした。ディズニーランドですね。とはいえ、そうこうしているうちに5、60年が経過し、街並みには偽りの歴史性が生まれてきました。そして、奇しくもミュンスターが成長する一方で、炭鉱や製鉄産業が集中していたルール地方のほとんどの都市が縮小しています。複雑で矛盾した状況ですね。




Left: Donald Judd Untitled (1977), photo LWL / Roman Mensing. Right: Herman de Vries Sanctuarium (1997), Skulptur. Projekte in Münster 1997, photo LWL / Hubertus Huvermann 2016


ART iT 当然ですが、彫刻プロジェクトが回を重ねるごとに、いくつかの作品は常設展示として街に溶け込んでいますね。

KK それが面白いところですね。街に残る作品の多くは芸術的に高い質を保ちつつも、マッチョなものや自己主張の激しいものではありません。眠りにつき、突如として目を覚ます。街が美術館になってしまわないことが重要です。私たちはアーティストがプロポーザルをつくるとき、作品は展覧会の間だけ存在し、その期間を超えて存在することはないという考え方を持つべきだと強調しています。そうでもしなければ、彼らは作品を永続させる絶好の機会だと妥協しはじめてしまうかもしれない。これはいけません。
私はいつも19世紀ウィーンの美術史家カミロ・ジッテの「雪だるまこそ理想的な公共彫刻である」という言葉を引用します。彼は子どもたちが雪だるまをつくる地域、とりわけ、トスカーナなどイタリア北部について言及していました。教会と広場のある街を想像してみてください。雪だるまは人々が行き交う場所につくっても退けられてしまいます。だから、いつも傍の方に置かれるし、雪が降ったときにだけ存在し、みんなに認識してもらえる。そして、それは子どもたちがつくったもの。ある種の季節の記憶。ちなみに、キリスト教の興味深いところですが、クリスマスツリーや雪だるまからイースター・バニーといった数多くのシンボルがあって、そこに古い異教の文化が組み込まれています。というわけで、雪だるまには儀式的な力が備わっているのです。認識し、そして、消えていく。この時間の感覚が、作品に最も重要な要素です。マルセル・デュシャンのようなアーティストが興味深いのはそういうところですね。要するに、時間なのです。デュシャンのエゴは時間との関係にあります。何をするかより、何をしないかの方が重要です。というわけで、彫刻プロジェクトの企画者として、私たちは大きなリスクを背負わねばいけませんし、招聘したアーティストを励まし、彼らのリスクを共有しなければいけません。私たちができるのはそれだけです。

ART iT 美術館になることから遠く離れて、この街に対してアンチ美術館という印象を抱きました。クレス・オルデンバーグのビリヤードボールやドナルド・ジャッドのリングといった象徴的な作品はグラフィティで覆われ、ヘルマン・デ・フリースの「Sanctuarium」(1997)の内側にはゴミが投げ捨てられていますが、そうしたことさえ作品を生き生きとしたものにしていました。作品が時間から解放されるのではなく、時間の中に投げ入れられているような。

KK ええ。ですが、オルデンバーグはグラフィティを快く思っていませんでした。また、作品に対して、彼が「あれはもはや彫刻ではなく、観光や都市を売り込むシンボルだ」と言ったので、私は市にあれはもはや彫刻ではないと伝えようと提案しました。市から作品の購入費として渡されたお金をいくらか返さなければならないかもしれないけど、商標権のようなライセンス契約を結べるだろうし、毎年それなりの金額が市から支払われることになるだろう、と。ここから何かが生まれるわけではありませんが現実的な提案でした。オルタナティヴでヒッピー状態が続いていた1977年には、オルデンバーグの作品が猛烈に反対されました。おそらく彼のコンクリートという殺伐とした素材の使い方に関係していたのではないでしょうか。実際には、ミュンスターのアー湖やさまざまな軌跡に応答したとても抽象的な作品でしたが。大きいとか小さいとかではない、スケールの問題に触れていて、それが作品をエレガントかつ美しいものにしていました。
もちろん、1977年以前の論争といえばジョージ・リッキーの作品に尽きるのですが、それはミュンスターに移転してきた銀行の援助を受けることとなりました。当時、私は風に揺れる3つの正方形に花や竹を見て、キッチュで自然主義的で抽象的なものとして軽視していました。しかし、それは市民に完全に拒絶されましたし、私は今ではあの作品はあの時期ならではのものだったと理解しています。たとえ私が当時あの作品を気に入っていなかったとしてもそれは変わりません。このように、作品を恒久化しないように気をつけなければいけないにもかかわらず、さして問題にならないような永続性を帯びてしまうこともある。人々が忘れようが忘れまいが、作品それ自体が生き返ることもあるのです。
たとえば、デ・フリースの作品はミュンスターの中では珍しい過度な清掃整備が施されていないエリアという素晴らしい条件に置かれています。ここミュンスターでは抑圧的なリベラリズムへと向かう傾向があり、あらゆるものが美しく整えられ、過度に手がかけられ、息もできないほどです。しかし、デ・フリースの作品があるのはちょっと忘れ去られた場所で、ジョージ・ブレクトの「VOID-Stone」(1987)もそこにあります。ブレクトは市が彼の作品を購入した事実を気に入っていたけど、「作品が気に入らなくなったときは裏返すだけでいい。そうすれば碑文が見えなくなるから」なんて言っていました。「VOID」にぴったりくるドイツ語がないかとしばらく時間を費やしましたが無理でした。ハイデガーの形而上学的な意味だとしても、または単純な「空(empty)」という意味だとしても、いずれにせよ間がありません。このことは、墓地の近くに設置された、ロマン主義の詩人アネッテ・フォン・ドロステ=ヒュルスホフに捧げられたイアン・ハミルトン・フィンレイの追悼詩文「A Remembrance of Annette」(1987)の点からも興味深いことです。いわば、地元の方言や匂いといったものなくして、普遍性などありえません。
もちろん、私たちの関心は新しいことをはじめることにあります。私の仕事はアーティストに既存のものを忘れるよう伝えることですが、それでも彼らはそうしたことに興味を持ってしまいます。ですから、私たちがミュンスターのことを紹介する必要はありません。田中功起のプロジェクトの進め方は印象に残りました。彼はまるで人類学者か社会学者みたいで、そうであると同時に現場で動く。そして、そのやり方が彼にとってもその状況にとっても意味のあるものとなっている。アーティストが新しいことに取り組んだり、漫然と過去の作品を繰り返さずにリスクを負うことにはなんらかの意味があるのです。

ART iT 時代が経つにつれて、サイト・スペシフィシティに対するアプローチは進化してきましたか。

KK 1987年にはサイト・スペシフィシティが重要視されるようになりましたが、1977年の頃はそこまで関心を持たれていませんでしたね。アメリカ合衆国を拠点とするアーティストにとっては、パブリックとプライベートの間にそれほど違いがなく、あちらの大規模な機関は美術館であれ大学であれ、たとえ名目上はパブリックだとしても、どこも多かれ少なかれプライベートであるので、ヨーロッパとは異なる態度を持っていました。しかし、ここではパブリックとプライベートに非常に大きな違いがあります。たとえば、1960年代や70年代、絵画に取り組んでいた人々はよりプライベートへの志向があり、彫刻やコンセプチュアル・アートに取り組んでいた人々にはよりパブリックへの志向がありました。ですから、ドナルド・ジャッドがプロポーザルをつくって実現したときにはそれが作品に見えず、続く20年の間、作品はほとんど無視されていました。その作品は大学の地理学者か物理学者がつくったものだと勘違いされていました。
ブルース・ナウマンの場合は3度もプロポーザルを断られ、作品が実現したときには彼はすでに有名になっていました。彼の作品に対する評判は非常に好意的なものでしたが、ほかの事例では作品が損傷し、修復しても再度傷つけられるということもありました。好戦的ではないやり方で対処していたのですが、終わりのない戦いになるなら悲しくなります。私がとても気に入っているロバート・フェリューの言葉は、このような状況でこそ考えるべきもので、彼といっしょに『Teaching and Learning as Performing Arts』という書籍をつくりました。その本の中に、土曜の午前中に延々と同じ曲をジュークボックスでかけ続ける人々がいるカフェで友人と過ごした話があります。フェリューたちは夜通し飲んだ結果、二日酔いでひどく苦しんでいました。そのとき、ジュークボックスにお金を入れて静寂のボタンを押せば、静寂を買うことができると閃いたそうです。彼はそのとき初めて資本主義の肯定的な側面を感じたと言っていました。彼は「アートは重要なものとして扱うには重要すぎる」とも言っていましたね。






Clockwise from top left: Katharina Fritsch Madonna (1987), Skulptur Projekte in Münster 1987, photo LWL / Rudolf Wakonigg; Ayşe Erkmen Sculptures on Air (1997), photo LWL / Roman Mensing; Bruce Nauman Square Depression (1977/2007), skulptur projekte münster 07, photo LWL / Roman Mensing.


ART iT ブスマンや彫刻プロジェクトの最初の動機として、「教育」について話していましたが、この40年でミュンスターの人々の態度は変わりましたか。

KK より寛大になったとも言えるでしょう。たとえば、2007年にドミニク・ゴンザレス=フォルステルは過去すべての回のフラッシュバックのような「Roman de Münster」という作品を制作しました。彼女自身は彫刻プロジェクトに2度来たことがあります。かつて彼女は私の学生でした。当時はハリウッド映画などに興味を持っていましたね。2007年の彫刻プロジェクトのための彼女のアイディアは、『ダ・ヴィンチ・コード』を書いたダン・ブラウンのルーブル美術館を舞台とした小説の手法を使って、ミュンスターと彫刻プロジェクトの物語を書くというものでしたが、最終的には、過去の作品の三分の一のサイズの縮小模型が街の中心の芝生のところに見事に配置されることとなりました。作品を見た地元の人々は、記憶に残っている作品を指差しながら子どもや孫に話をしていました。それらはかつて彼らが完全に否定していたものかもしれませんが。そこには不意にある種のノスタルジックな瞬間が生まれていました。一方で、ハードコアな美術愛好家はリチャード・セラやウルリッヒ・リュックリームにこんなことをするなんてなんてことだとひどく狼狽えていましたが、こうした意見はまったく的外れでしたね。彼女の作品はシニカルなものではなく、もっと記憶や内省といったものを表面のところで扱っていたのですから。今日の若いアーティストはコンピュータがある環境で育ってきましたが、良いとか悪いとかというものではなくて、それはただ状況に取り組むためのもうひとつのやり方に過ぎません。
今回、世界中の幼稚園に日付絵画を設置する河原温のプロジェクト「Pure Consciousness」の小規模な展示を考えています。作品は地元の幼稚園に展示し、園外の人々は子どもたちがいないときにしか鑑賞できないようにするつもりです。時間やグローバリゼーションといったものを扱うわけですが、それを教育的ではない方法で実行しなければいけません。誰も子どもたちに日付絵画が何たるかを教えることはありません。

ART iT 今日のヨーロッパ社会におけるアートの役割をどのように考えていますか。

KK 1977年にヨーゼフ・ボイスを招聘したとき、彼は公共の屋外空間という状況で制作するのは「エコロジカル・キッチュ」だと述べました。彼が「環境を乱すだけで誰がそれを必要としているのか」と言うので、「それなら、なぜ引き受けたのですか」と尋ねると、「そりゃあ、アメリカ人に譲るべきではないだろう」と答えました。彼はまったく異なるアプローチできましたね。最良の作品にはとても複雑なところからはじまって、どんどん具体的なものにするために再検討を重ねたものがありました。年を重ね、経験を積んできた人間として、私が貢献できるのはそういうところです。「そのまま続ければいいんだよ」「無理しなくていいんだよ」と助言することができます。質問に戻ろうと思いましたが、その質問はちょっと飛ばしましょう。それだけで長い話になってしまいますから。

ART iT ですが、私にはヨーロッパ、特にその戦後において、アートに社会的重要性が割り当てられているという印象があります。アートを対象とした惜しみない援助や、ほとんどの都市に美術館やアートセンターといった公共施設がある。しかし近年になって、このヨーロッパでも予算縮小や文化芸術分野の民営化がはじまっていますね。

KK そうですね。戦後、アートは社会に非常に好意的に受け入れられました。そこには経済の地方分権化が大きく関わっていました。まず、60年代のドイツは共産主義と資本主義というふたつの主要なブロックのちょうど真ん中に位置していたことを念頭に置いておいてください。ドイツはロシア、ポーランド、フランス、オランダの間、北ヨーロッパと南ヨーロッパの間に位置し、経済的にも非常に重要視されていました。地方分権化によって、たとえば、あらゆる哲学書や理論書がどんな書店でも手に入りましたし、程度の差こそあれ小さな町にも書店がありました。これはドイツの典型的な美術施設、クンストフェラインにも通じる話です。クンストフェラインは帝政ドイツ以前からあり、帝政ドイツに反対の立場をとっていました。たいていの場合、アーティストが自分たちのために設立した、新しいアイディアを提示するための基本的に民主主義的な制度でした。そして、この伝統はミュンスターにも受け継がれていますね。ミュンスターもわかりやすい街ですから。街の中心部は修道院としてはじまり、それが大聖堂となって、商人が集まるようになり、城壁がプロムナードに取って代わり(中央ヨーロッパ諸都市のあらゆる城壁同様、18世紀に取り払われました)、その後に爆撃と復興が続きます。ある意味、抑圧的ともとらえうる楽園気質を有している、凪のような街です。実は、この地域は彫刻プロジェクトをミュンスターの外へと拡張していくことに興味を持っていて、私はルール地方を訪れて、話をしたり調査をしたりすることもあったのですが、「そんなの必要ないよ。それよりビールを飲んで、トランプでもしようぜ」と言われてしまいました。
というわけで、気をつけなければいけませんね。私たちは今まさに国家という概念が突如として重要視される局面にいて、右派の政治の反動が増しているなどといったこともありますが、そうした日常的な機運を越えたものや、もうひとつの時間の感覚を帯びたものを扱う必要があります。だからこそ、美学的な問題に焦点を当てることもまた、政治的なスタンスになりうるのではないでしょうか。自治が何よりも重要です。独立していること。私たちはアーティストと交渉したり、さらなる協力を仰いだりしますが、自分たちを正当化する必要はありません。特定の成功したアーティストが参加リストに入っているべきだなんてことはさして重要ではありません。かといって、その真逆である必要もありません。




Left: Ayşe Erkmen, Project sketch for Skulptur Projekte 2017, photomontage Jan Bockholt. Right: Michael Smith, Not Quite Under_Ground Tattoo Studio, proposal for Skulpture Projekte 2017.


ART iT パブリック・スペースという概念にも抜本的な変化が起きているのでしょうか。

KK ええ、何がパブリックで何がプライベートかも完全に逆転してしまいましたから。何でも一般化してしまうことに気をつけなければいけません。たとえば、ジェントリフィケーションという言葉が四六時中使われていますが、そこにはある種の過程があります。何も変わらない状態にも我慢できないでしょうし、ただ昔を懐かしんでいるわけにもいかないでしょう。しかし、アートやその影響を過大評価すべきではありません。アートはアートに過ぎません。その効果は、アートにできることの範疇に対してのみあるのですから。



カスパー・ケーニヒ|Kasper König
1943年ヴェストファーレン州(現ノルトライン=ヴェストファーレン州)メッティンゲン生まれ。学生時代より、クレス・オルデンバーグの個展や幾多の出版企画に携わり、70年代にはノヴァスコシア美術デザイン大学で教鞭を執る一方で、ハラルド・ゼーマンがアーティスティックディレクターを務めたドクメンタ5でアシスタントを務めたり、河原温やドナルド・ジャッドの個展を企画する。76年にクラウス・ブスマンとともにミュンスター彫刻プロジェクトを立ち上げ、翌年第1回を開催する。88年に国立フランクフルト芸術大学学長に就任し、同大学付属ギャラリー、ポルティクスを創設し、数多くの展覧会を手掛けた。そのほかの主な企画として、『Westkunst』(1981)、『von hier aus – Zwei Monate neue deutsche Kunst』(1984)、『Der zerbrochene Spiegel』(1993)がある。2000年以降は、ルートヴィヒ美術館のディレクターを2012年まで務め、2013年には20周年を迎えたマニフェスタ10でチーフ・キュレーターを務め、250年の歴史を誇るサンクトペテルブルクのエミルタージュ美術館を中心に開催した。


ミュンスター彫刻プロジェクト|Sculpture Projects Münster
クラウス・ブスマンとカスパー・ケーニヒが設立し、1977年の第1回開催以来、現代美術における最も注目すべき展覧会のひとつとして知られている。2年や3年の短い周期で開催される国際展とは対照的に10年に一度の開催や、街の中心部や郊外のいたるところに作品を設置するといった特徴を持つ。本来の意図とは異なるが、各回で発表されたいくつかのプロジェクトが市や諸団体によって常設展示作品として購入されている。1977年から2007年まで「キャラバン」を発表してきたマイケル・アッシャーをはじめ、複数回にわたって招聘されるアーティストも多数。こうした空間や時間に対する拡張されたアプローチによって、各回、各アーティストがミュンスターという街のトポスや市民だけでなく、過去のアーティストの作品との対話を通じて、単なる作品にとどまらない、代表作を実現する可能性を高めている。また、彫刻はもちろん、アート自体の定義に挑む実験場として、1977年のクレス・オルデンバーグの「Giant Pool Balls」やヨーゼフ・ボイスの「Unschlitt/Tallow」、1987年の人通りの多い広場の真ん中に設置されたカタリーナ・フリッチュの蛍光黄色の「Madonna」やヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学(通称:ミュンスター大学)の目の前に置かれたソル・ルウィットの「Black Form - Dedicated to the Missing Jews」、1997年のペーター・フィッシュリ ダヴィッド・ヴァイスの「Garten」や、アイシェ・エルクメンのヘリコプターでヴェストファーレン州立美術館(現ヴェストファーレン州立芸術文化博物館)のコレクションから彫刻を移送するプロジェクト、2007年のマイク・ケリーの「Petting Zoo」やスーザン・フィリップスのサウンド・インスタレーション「The Lost Reflection」などが発表されてきた。

第5回となる彫刻プロジェクト2017は、第1回から関わっているカスパー・ケーニヒをアーティスティックディレクターに再任し、ブリッタ・ペータースとマリアンヌ・ワーグナーをキュレーターに迎えて準備を進めている。キュラトリアル・チームが展覧会を練り直し、追加するアーティストを決定している間も、この1年の間に参加アーティストは既に街を訪れて、作品制作に取り掛かっている。新機軸となる試みが2017年も展開される予定で、アレクサンドラ・ピリチやグザヴィエ・ル・ロワ、ギンタースドルファー/クラーセンなど、パフォーマンスやデジタルメディアに焦点を当てるほか、これまで以上にプロジェクトの展示場所が拡散し、近郊の町マールにまで広がる。インタビュー中に触れた田中功起のほか、既に荒川医やマイケル・スミスのプロジェクトの内容が発表されている。

ミュンスター彫刻プロジェクト2017
2017年6月10日(土)-10月1日(日)
http://www.skulptur-projekte.de/