ヴィム・デルボア インタビュー

21世紀のオイレンシュピーゲル
インタビュー / アンドリュー・マークル


Flatbed Trailer (2007), installation view at the Yokohama Triennale 2014. Photo ART iT.

ART iT あなたは既に30数年というキャリアを重ねてきましたが、その間に自分の作品を取り巻く環境が変わってきたと感じることはありましたか。例えば、あなたは初期のインタビューで、「Cloaca」(2000-2007)はある部分で、排泄物の「デモクラシー」という手段によって、90年代のアイデンティティ・ポリティクスを切り拓いていく試みであると語っていました。

ヴィム・デルボア(以下、WD) 変わりましたね。現在は当時ほど好意的ではありません。この十年間で、アートはエリートや裕福な人々の道具と化してしまいました。ジャーナリストはアートフェアや展覧会を報じるときに、コレクターや金銭、業界の社交を中心に取り上げますし、美術館の企画展について報じるときも、コレクターが購入したものやその価格について書いています。
私が「Cloaca」に取り組んでいた頃には、まさかアート界がこんなふうになってしまうなど想像もできませんでした。かつて私がやっていたことは、もはや今の若いアーティストには不可能ですし、それでは成功できないでしょう。ヴィム・デルボアが排泄マシンに取り組んでいるなど、メディアは報道したがりません。彼らは広告主のことを心配しています。すべてはアート作品の売買や後にその作品がどれだけ高騰するのかを中心に回っていて、以前とは問題が異なっています。絵画は壁に掛けられるし、誰もがその価格を理解するので、人々は絵画へと戻っていきます。それはトロフィーですが、「Cloaca」はトロフィーではありません。「Cloaca」は排泄物だし、臭うし、維持管理や労力が求められます。
若手時代、私の商業的な態度に人々はあきれていました。彼らは、ニューヨークで展覧会を開いたり、メディアに話しかけたりする私を悪魔だと考えていました。しかし、お金を手に入れた時点で、もっといい仕事をするための資金ができたと意を決して、「Cloaca」や豚にタトゥーを入れる「Art Farm」の制作へと進んでいきました。

ART iT あらゆるものが注意深く監視され、自動更新され、複数の仕事が課され、収益化されるという現在のグローバル資本主義システムを考慮すると、「Cloaca」は政治的文脈という点で、新しい意味を帯びるようになりました。「Cloaca」は時宜にかなっている一方で、扱いにくく本能的な生産物ももたらします。「Cloaca」におけるスカトロジーと資本主義の緊張関係は、とても興味深いものです。

WD 排泄とはそもそも政治的なものです。議会や協会でおならをすること、それはひとつの政治的な行為です。あなたが議会でおならをしたら、それは何を意味するのでしょうか。それはあなたが政府に反逆する反体制派だということです。そして、あなたは皆に我々がただの人間にすぎないことも思い起こさせるでしょう。ベルギーの民話にティル・オイレンシュピーゲルという人物がいて、その悪戯好きのティルはまともに受け取ってもらえないけど、他人を批判する自由を手にしています。アーティストは現在そのような立場にあり、その立場を利用すべきでしょう。アイ・ウェイウェイのことを思い出してください。彼は興味深い人物です。彼はアーティストですが、作品を超えてより大きなメッセージを持っています。成功して、お金を手にしはじめたアーティストは、この種の責任を負わねばなりません。社会が演壇とマイクを与えてくれたのですから。若いアーティストに私が何か言うなら、「マイクを使え、良きことのために」と言うでしょうね。

ART iT ただし、あなたは政治的な問題に取り組むために自分の作品を利用しているのでしょうか。

WD そうだとしたら、つまらないですね。アート作品は普遍的なものであるべきだと思っています。「Cloaca」への関心は増えたり減ったりするかもしれませんが、それは常に存在しています。幼い子どもたちに聞いてみてください。彼らはみんなあの作品が好きです。非常に力強いものなのです。私は自分がこのアイディアの考案者だとは思っていなくて、それよりも媒介物(メディウム)なのだと感じています。自分の役割を謙虚に考えているのです。
私にとって、「Cloaca」は豚の作品と同じく人気者なのです。ベルギーで最初に豚の作品を発表したとき、彼らは私よりも有名でした。素晴らしいでしょう。そうあるべきなのです。アート作品は逸話の罠に陥るべきではありません。世界に対して問題を抱えていても、それを作品にしてはいけません。どうしてか?その問題が解決してしまったら、その作品は時代遅れになってしまいます。ハンス・ハーケは非常に政治的ですが、彼の70年代の作品は今ではすべて過去のものとなっています。あれらの作品を楽しむには歴史家にならねばなりません。
もちろん、異なる意見を持ったアーティストもいるでしょうが、私の信条として、アートは人間の条件にまつわるものであるべきなのです。作品は次の世代、そして、その次の世代にとっても興味深いものであり続けるべきで、どこかの国の、とある大統領に関する作品などつくってはいけません。そんなのは馬鹿げています。アートは精密な言語ではありません。提言することはできますが、政治的メッセージには適していない言語なのです。アートをはじめたどんなアーティストも、サラリーマンになることや銀行で働くことを拒絶しているというだけで、既に政治的な行為を行なっているのだと私は思います。

ART iT 普遍的なテーマに取り組んでいるとすれば、あるプロジェクトから別のプロジェクトへと移行するのをどのように決めているのでしょうか。例えば、「Cloaca」から豚の作品、そして、「Gothic Works」というのは非常に幅が広いですよね。

WD 常に同じことをするのが、より賢いやり方ですから、戦略的に言えば、問題があります。アートマーケットは同じことをするのを好んでいます。作品に値段を付けるとき、過去のオークション結果を調べて、それが似たような作品の出来に基づいていれば安心できますよね。これが私の問題で、どの作品も全く似ていません。回顧展のとき、そこには豚の作品、小さな彫刻、大きな彫刻、紙ベースの作品、鉄製の作品、動く作品、テクノロジーを組み込んだ作品もあれば、手製の作品もあり、自分の作品をブランド付けるのが困難でしょう。
意図的にそうしたわけではありませんが、私は常にアートに対する疑念を持っていました。同じことを続けていれば、それに対して確信を持つに至るに違いありませんが、唯一私の実践で一貫しているのは、疑うことなのです。「すごくいい作品だね」と言われても、私には確信がないので、「そう思う?」と返します。そして、一ヶ月後には別のことを始めているでしょう。
また、多くのアーティストが時間とともに展開していきます。例えば、青の時代、ピンクの時代、キュビストの時代。しかし、私にはそのような時代区分はありません。豚の作品も「Cloaca」も同時期に取り組んでいて、豚の作品を一旦中断して、2、3の「Cloaca」を制作して、それから豚の作品を再開しました。その一方では、「Gothic Works」も制作していました。ひどい混乱状態で、大抵の場合、ひとつの制作がその他すべての制作の代価を払うことになります。

ART iT 何があなたを制作活動に向かわせるのでしょうか。あなたは「Gothic Works」との関連で、実際にゴシック建築に関する膨大なリサーチを行ない、現存する建物の設計図を入手したり、その大きさやバランスを注意深く考察したりしています。しかし、そのような膨大なリサーチは必ずしも観客に明示されるわけではありません。

WD 昔からあらゆることに興味を持っていて、そうした幅広い興味が私を予期せぬ場所へと連れていってくれるのです。「Cloaca」を制作するなど94年の時点では想像もしていなかったし、92年には豚にタトゥーを入れるなど想像できませんでした。次の3、4年の間に自分が何をしているのか想像できません。それに、想像できたら悲しいですよね。私が最初に楽しませたい相手は自分自身なのですから。
「Gothic Works」の場合、私は既にシュルレアリスムのオブジェやデルフト模様のガス容器に取り組み、木材でバロック式のコンクリートミキサー車を制作していたので、鉄製のゴシック式トラックを制作するのは理にかなっていました。
私は河原温を尊敬しています。彼は素晴らしい重要なアーティストですが、私には彼のように生きることは一週間でも不可能です。毎日毎日、朝起きたら(大抵の場合はニューヨークで)新聞を読み、日付を見て、それを描いていく。通常は黒、80年代にはときどきほかの色でも描いていました。彼は本当に素晴らしいアーティストですが、私は彼のようにはなれません。ほとんど真逆だと言っていいでしょう。

ART iT ヴィジョンや精神性を共有していると思われるアーティストはいますか。

WD 基本的に、好きなアーティストはたくさんいます。作品が完成した時点で、それが誰によるものかなど問題ではありません。それはアート作品であり、他者のものですから。いい作品だったら、それ故に他者が所有しますし、そうでなければ、自分の元に残ります。何人か名前を挙げるのであれば、デイヴィッド・ハモンズでしょうか。彼はかなり年上ですが、彼自身も彼の態度も尊敬しています。アイ・ウェイウェイも親しい友人です。彼にはたくさんのことを学びました。それがアートかアートではないのかを気にする必要なんてないということも学びました。彼はそんなこと気にしていません。とはいえ、ほとんど毎週のようになんらかの形で私を幸せにしてくれるアーティストがいますね。

ART iT ここで再び、アートは政治的な問題に取り組むのに適した言語ではないという先程の意見に戻りたいのですが、この問題に対して、アートが抵抗の場となり得るという逆の立場も存在します。こういう「抵抗のアート」はマーケットを循環することもあれば、マーケットを介さずに循環することもあるので、そんな無垢なことでもないかもしれないけれど、個人的にはアートには実在する社会構造においてオルタナティブを表すという大きな魅力が未だに備わっていると考えています。あなたがおっしゃったように、そもそもアーティストになることが政治的表明なのですから。

WD そうですね。しかし、現在では裕福な人々がアーティストのような生活をしようとしているのも知っていますよね。アートは商品として成功しているだけでなく、アーティストの振る舞い全体が標準的なものになってきているのです。ピカソはとても変わった人でした。正装したことなどないし、自宅に白い壁があったり、工場で描いたり、それに、彼にはたくさんの女性がいました。いまや誰もがピカソみたいに暮らしています!工場に住み、アートに囲まれている。テーブル、椅子、デザイナーズバック、あらゆるものがアートになり、アートはどこにでもある。キリストみたいにね。
アーティストがずっと夢見てきたことが現実になってしまったのです。人々は教会ではなく、ギャラリーに足を運び、友人に向かって自分は現代美術が好きなんだなんて言えば、いい教育を受けているように見える。そう、これは私にとってはいいことです。私自身がそんな快適な生活をするなんて想像もつきませんが。ちょっと心配なだけです。これって、普通のことなのかどうかと。

ART iT そのような状況は創造的な刺激をもたらすと思いますか。

WD 美術界的に言えば、「鳥は、自分の巣に糞をしない(They would say don’t shit in your own nest)」。だから、不満は言うべきではないでしょう。お金を稼いで、成功して、好待遇を受けています。当然、愚痴をこぼすべきではありません。すごく幸せでいるべきだし、私自身の居場所を糞で汚すべきではありません。しかし、制作現場にいる創造的な人間として、疑わなければいけません。疑うことを止めたら、それは信仰になってしまいます。それではいけません。常に頭を柔らかく、疑い深くあるべきなのです。
一方では、アーティストが増え、美術館も増えれば、その数の多さ故に見込みの薄い新しいアートにとってのチャンスも増えるでしょう。氷山の一角でさえ、巨大です。しかし、もし私に子どもがいて、その子がアーティストになりたいと言ったら反対するでしょう。その子の人生を通してこんなことが続くとは思えませんから。これは脱工業化的な退廃や紙幣発行と量的緩和に関係するなにかなのではないでしょうか。

ART iT あなたの作品は関係性のようなものに具体的に対処できると思いますか。これは必ずしも関係性の美学のことが念頭にあるわけではなく、人々がアートに関係するための新しい方法を提示できると思っているかどうかということなのですが。

WD アートはそこまで強力なものではなく、ほとんど何もできません。私たちがそのような状況について話すことはできますが、アートにそれを語らせることはできません。アメリカ先住民の美しい彫刻を見たとき、その彫刻はその彫刻自体について語るだけです。個人的にピカソが好きなので、ピカソのある作品を見たら、「素晴らしい」と思うでしょう。また、年末に横浜美術館にホイッスラーの絵画がやってきますが、彼には数多くの辛口な意見がありましたが、ありがたいことにそれらの意見が彼の絵画に浸透することはありませんでした。彼は未だに価値のある非常に素晴らしい作品を残しています。とはいえ、今日、アーティストは考えたいことを考える自由を手にしています。アーティスト以外の人も、あなたもライターもたくさんの人々がその自由を手にしています。ほとんどの人が対話に参加できる。そのためにアーティストにならなければいけないなんてことはありません。

ヴィム・デルボア|Wim Delvoye
1965年ウェルヴィク(ベルギー)生まれ。壁紙やカーペットに直接描いた絵画を制作していたが、徐々に制作の背後にある理論への興味に惹かれていき、92年のドクメンタ9で、自分自身の排泄物の画像を焼き付けたタイルをモザイク状に並べた「Mosaic」を発表して、国際的な注目を集める。排泄装置「Cloaca」や豚にタトゥーを入れた「Art Farm」といったシリーズも含め、挑発的かつ物議を醸す作品が少なくない。一方でゴシックやバロックといった古典的な芸術様式を取り入れ、レーザーカットした鉄やステンドグラスを素材とした教会や塔、セメント車やダンプカーを模した彫刻も制作している。

ヨコハマトリエンナーレ2014「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」
2014年8月1日(金)-11月3日(月・祝)
横浜美術館、新港ピア
http://www.yokohamatriennale.jp/2014/

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