ホセ・レオン・セリーヨ インタビュー

駆動するヴォイド
インタビュー / アンドリュー・マークル


Place occupied by zero (RAL5022 and RAL3015) (2013), powder coated aluminium, dimensions variable. Courtesy José León Cerrillo and Andréhn-Schiptjenko.

I.

ART iT まず断っておきたいのは、これまで私にはあなたの作品を実際に見る機会がなかったので、あなたの作品に対する私の印象と実際の作品には当然異なるところがあるのではないかと思っています。しかしながら、あなたの活動を調べる過程で、「私たちはモダニズムをここからどこへ持っていくのだろう」という疑問が頭に浮かんできました。
この数十年間、モダニズムの支配的な側面に対する正当な批評がなされてきたのですが、現在の国家主義者や原理主義者の再興や世界各地の排他的な政治状況を考える上で、モダニズムが守り維持すべき価値を打ち出してきたことも認めなければいけません。(そもそもこの考えにも議論の余地がありますが、)「ポスト−モダン」に無関心を装うことは許されず、モダニズムについて複合的なやり方で再考し続けるべきだと感じています。このような問題について、どのように考えていますか。

ホセ・レオン・セリーヨ(以下、JLC) そうですね。ラテンアメリカのモダニズムは非常に特殊な歴史を抱えています。いや、おそらくその反対かもしれません。どういうことかと言えば、ラテンアメリカ、特にメキシコとブラジルには、モダニズムに対する非常に特別な関係があります。私の作品はあるときは直接的に、またあるときは間接的にこうした歴史に言及しています。メキシコ革命は20世紀のはじまりから約30年間続きました。それがようやく終わりを迎えた1930年代後半には、メキシコはひどい混乱状態に陥り、完全に分裂してしまいました。モダニズムという思想は、まさにこのような文脈で、可能な限りメキシコを統合し、国家をその首都に中央集権化するための「新しいメキシコ」という概念を宣伝するために使用されました。このイデオロギーは数多くの建築を生み出しました。著名な建築家マリオ・パニが手がけたメキシコ国立自治大学はその最たる例でしょう。これらはすべて「進歩的なメキシコ」を形成するという口実の下に起きたことですが、しかし、私の関心はそれが当然のごとく失敗に終わったことにあります。なぜなら、あなたのおっしゃったように、これこそまさにメキシコでヘゲモニーの実現をもたらし、ひとつの政党が統制権を手に入れ、その後70年間も続く独裁を築き上げることとなったのですから。もちろん、このように語ってしまうのは単純化しすぎていますが、そこに何らかの一致を見ることができるのです。
これと並行して、進歩的なメキシコというイメージは、モダニズムの思想がこの地域に統合することで、どこか不純なものになりました。たとえば、ブラジルでは、1928年にオズワルド・ヂ=アンドラーヂが『喰人宣言』を発表しましたし、メキシコでも同じようなことが起きています。それは進歩やモダニズム、そして、普遍的な人間という疑わしい概念といった輸入された思想を消化し、そうすることで普遍性の代わりに、その地域との関係において新しく作り変えるという考え方です。
しかし、あなたの質問に戻りますが、私たちがモダニズムをどこへ持っていこうとしているのかを答えるのは難しいですね。メキシコは信じられないくらい混沌とした場所です。モダニズムは常に開発のための道具として使われてきて、現在、モダニズムが資本に凌駕されたところで、その原理を維持するのは困難です。モダニズムは発展を持ち込むけれど、しかし、資本は進歩のその最初の価値を希釈する包括的な管理に巧妙に入り込んでいくのです。


Installation view at Okayama Art Summit 2016. Photo courtesy José León Cerrillo.

ART iT 抽象的な形態や構成主義の要素を扱うあなたの作品は、モダニズムの規範とどのような関係にありますか。

JLC 作品との関係で言うと、私は常にモダニズムとは失敗した形式だと考えています。しかし、それは荒廃とかそういったものの美をやみくもに崇拝しているわけではなく、抽象について考察するために、どうやったらこの失敗した形式を使えるのかを問うことに興味があるのです。つまり、私たちは抽象をつねにすでに失敗した形式で、異なる思考方法をただ指し示すものとして考えられるのではないでしょうか。それは世界における主体を位置付ける道具です。ここで哲学的な話に陥ってしまうのは簡単なので、危険な領域は避けましょう。しかし、私にとって抽象とはまさしくこの世界に主体を介在させる方法で、形式と内容といったモダニズム的な問いのような二項対立は時代遅れです。抽象という概念が今もなお作品に染み込んでいるのはその通りですが、それは常に主体形成という考えを経由しています。

ART iT 抽象が「つねにすでに失敗した形式」だとおっしゃったのは、それが一度たりとも純粋に抽象だったことはないからでしょうか。抽象における主体形成という側面についてもう少し聞かせてもらえますか。

JLC その通りです。抽象は思考方法を指し示す指針であり、目印となる標識です。たとえば、抽象を前に誰もが自分自身を主体として位置付けなければなりません。そして、この自分自身を位置付ける方法は、世界を考察したり、扱ったりする方法に転換することができます。それは経験に関することであり、認識に関することでもあり、そうしたあらゆるものが継続的に主体を指し示す。そして、その主体が抽象的な構築物だと主張することもできるだろう。私の一番の関心は、このことをどうやって語るかというところにあります。私の作品は常に言語に基づくものです。


Above: Installation view, “Hotel Eden,” Mexico City, 2009. Below: BLOCKAGES (2009), wood, MDF, lacquer, dimensions variable. Both: Courtesy the artist and joségarcía mx.

ART iT どのような系統や軌道を通じて、抽象に関するこのような結論に至ったのでしょうか。

JLC 私の思考は実際の彫刻作品よりも、文学やテキスト、あるいは建築を通じて展開していきました。以前は、私のプロジェクトには必ず文章が重要な位置を占め、それは大抵ほかの誰かによって書かれたものでした。私が適切だと思うテキストがあり、そこから作品が生まれてきました。それは並行的な作業でしたし、私は作品とは信じられないほど循環的なものだとわかりました。過去のプロジェクトの要素を新しいプロジェクトに使うこともあるし、作品の多くはシリーズ化しています。ですから、系統というよりも連続体だと考えていますね。

ART iT 具体的にはどんなテキストを使ったのでしょうか。

JLC いろいろですね。たとえば、2008年に『Hotel Eden』という展覧会を開きましたが、ピエール・ギュヨタの著書『エデン エデン エデン』から展覧会タイトルを取りました。形式的な点で、文法も句読点もないギュヨタのテキストには興味がありました。ひとつの文章が長く続きます。テーマという点では、その本はアルジェリアの戦争を扱った非常に暴力的なテキストで、基本的に暴力的な行為の連続で物語が進行していきます。短い作品ですが、最初から最後まで一気に読むのが難しい。しかし、少し読みさえすれば全体を把握できるので、おかしな話ですが、絶対的なテキストとして機能しているのです。文法を破壊することで、そこに全体的な、もしくは即時的なコミュニケーションの可能性が生じていました。そうして、このテキストからいくつかのインスタレーションや彫刻、彫刻的物体と記号を組み合わせた「Blockages」と私が呼んでいる一連の作品が生まれました。「Blockages」はブロックをくりぬいて言葉をつくっているので、その穴を読むことになり、その穴が言葉になっています。私が使うテキストは常に作品の背後か、作品の「中」にあるので、移り変わる幻影のように作用します。もちろんテキストについて話すことは嬉しいけれど、それを直接的に提示することは私にとって重要ではありません。展覧会『Hotel Eden』のために、私は作品とともに展示され、作品自体の一部ともなるプレスリリースとしてテキストを書きました。それはハイ・モダニズムという概念との関係で、直接的にギュヨタの『エデン エデン エデン』を扱うひとつの詩として機能しました。ある地点で、そのテキストはアドルノ、ほかにもウィトゲンシュタインについて触れていますが、それは常に詩的な語り方です。どこかそれらの登場人物が作品内を巡回しているかのように。展覧会ではパフォーマンスも行ないました。スウェーデン出身のミュージシャン、サラランデンとともにウィトゲンシュタインの「色彩について」から作曲した一連の曲を彼女に演奏してもらいました。ウィトゲンシュタインを主題としたシンセポップの曲で、会場の至る所、すべて暗がりのなかで演奏してもらうことで、擬似観念論的な空気が展覧会にもたらされました。このように、『Hotel Eden』にはすでに複数のテキストが付随していました。
連続体と循環性について話しましたが、これらのテキストも制作過程や生活のところどころで出会ったもので、当然互いに何らかの関係性を持っているでしょう。『Hotel Eden』ではギュヨタとウィトゲンシュタインが、そして、2008年から2013年はウィトゲンシュタインが重要な存在で、サラランデンと私は3曲から最終的には13曲つくり、フルアルバムを仕上げました。その間、私はこのプロジェクトを異なる展覧会にいつも同じ、陰のところかプロジェクションの裏で演奏してもらうという形で組み込みました。モダニズムについて話すのであれば、それは常にモジュラーシステムを扱うもので、過去のプロジェクトから引用したり、それを新しい文脈に組み込んだりして、このプロジェクトはモジュラー的な思考方法になりました。

ART iT それは言語的な構造でもありますよね。

JLC そして、詩的なものでもある。これは私にとって非常に需要です。


Installation view of Abstract Rules for a Concrete Action (marble) and Abstract Rules for a Concrete Action (granite) (both 2014), silkscreen on glass, marble, and steel hardware, and silkscreen on glass, granite, and steel hardware, respectively; glass dimensions: 120 x 120 cm each; marble and granite dimensions: 30 x 150 cm. Courtesy the artist and joségarcía mx.

(協力:岡山芸術交流)

ホセ・レオン・セリーヨ インタビュー(2)

ホセ・レオン・セリーヨ|José Léon Cerrillo
1976年サン・ルイス・ポトシ(メキシコ)生まれ。現在はメキシコシティを拠点に活動する。94年から98年までニューヨークのスクール・オブ・ビジュアル・アーツに学び、2003年にコロンビア大学にて修士号を取得。彫刻のみならず、インスタレーション、パフォーマンスやポスターなど、言語への関心に基づいた幅広い表現を通じて、抽象やモダニズムを失敗した形式として再考し、残された可能性を探求している。
近年の主な展覧会に、joségarcía(2016)やLIGA(メキシコシティ、2015)、Kiria Koula(サンフランシスコ、2014)、Andréhn-Schiptjenko(ストックホルム、2014)での個展、ニュー・ミュージアム・トリエンナーレ(2015)や『EXPO 1: New York』(MoMA PS1、2015)、『Registro 04』(モンテレー現代美術館、2015)、『Abstract Posible』(タマヨ美術館、2011)などがある。また、ミュージシャンのサラランデンとのコラボレーションで、テンスタ・コンストハル(ストックホルム、2012)、LAND(ロサンゼルス、2010)、Proyectos Monclova(メキシコシティ2009)でパフォーマンスを発表している。
岡山芸術交流では、かつて校舎などに使用されていた建物(旧後楽館天神校舎跡地)の階層を縦断、部屋を横断する彫刻作品「ゼロに占領された場所」シリーズや「Poem」シリーズの新作を発表している。

岡山芸術交流2016
2016年10月9日(日)-11月27日(日)
http://www.okayamaartsummit.jp/
旧後楽館天神校舎跡地、岡山県天神山文化プラザ、岡山市立オリエント美術館、旧福岡醤油建物、シネマ・クレール 丸の内、林原美術館、岡山城、岡山県庁前広場、岡山市内各所

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