オマー・ファスト インタビュー(2)

ビュー・ファインダー
インタビュー / アンドリュー・マークル
Ⅰ.


CNN Concatenated (2002), video, monitor, color and sound, 18 min 17 sec. All images: Unless otherwise noted, © Omer Fast; courtesy the artist; gb agency, Paris; and Taro Nasu, Tokyo.

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ART iT 過去のインタビューで、あなたは自分の作品が必ずしも反戦や時事問題への政治的ステイトメントだと受け取られるべきではないと答えていましたが、政治そのものではないにせよ、イデオロギー自体を扱おうとしているとは言えませんか。

OF もちろん言えますね。アイデンティティを考えるとき、イデオロギーという概念は必ずついてまわります。家族だろうが国家だろうが、私たちは構成単位として存在していて、そうした構造には私たちの働きを促進したり、私たちをどこかへ向かわせたりするイデオロギーが与えられています。作品では、家族を扱うときも、舞台上の俳優を扱うときも、兵士を扱うときも、ある程度、イデオロジカルなものとパフォーマティブなものの力学や、そのふたつの構造を越えた繋がりを解き明かそうと試みています。作品とは、私にとって、物事がどのように繋ぎ合わされているのかを理解する方法です。しかし、私はなにかを説明したり、批評したりするのではなく、むしろ、表象の類似物をつくろうとしているのです。文字通り、物事がどのように調和しているのかを知るために、分解、再構築しているのです。

ART iT 影響を受けたり、現在のあなたの方向性を指し示したアーティストや映像作家はいますか。

OF ええ。ただこの質問は苦手で、すぐに名前が出てきません。とはいえ、日本にいるので『羅生門』のことを話しましょう。『羅生門』は私にとって、とても重要な作品でした。なんて言ったらいいでしょう…言うまでもなく素晴らしい作品でした。登場人物のことは信用できず、何が起きたのかを解明するのはほとんど観客次第。物語におけるカニバリスティックな要素には強い影響を受けました。これは確かに影響を受けた作品のひとつです。もう随分経ったのですが、この作品を初めて観たときに、それまでの考え方が一変したのを覚えています。

ART iT あなたの作品で印象的なのは、たった20、30分、ときには6分ほどの作品のために、多大な労力や時間を費やしているところです。ロケーションや撮影班、プロップ…そこには大規模な映画製作に要するものの縮図があります。比較的簡潔なアイディアの実現のために多大な労力を必要とするこのような制作活動を、いったいどのようにやりくりしているのでしょうか。

OF そんなに上手くやりくりできてません。映画学校に行かなかったので、映画製作の多くを独学で身につけました。作品にはそういうところも反映されているのではないでしょうか。ロールプレイという観点では、常にアーティストの役を演じている私が、先程話したような社会的なことや構造的なことだけでなく、どうやってこの映画を製作しようかといったことも考えています。作品制作の予算を工面せねばならず、大抵の場合、制作費はいくつかの機関から受け取るので、(結果や支給を)待たねばならないし、全部まとめても十分な額にならず、訳がわからなくなってしまう。とはいえ、アートには自由があります。責任があるのか無責任なのか、ほとんど管理されることはないし、資金を提供しているからといって、二週間後に何をしているのかを確かめたいとか、ラッシュを見たいなどという電話もありません。それにより、アートには物事を試す余地が十分に残されています。

ART iT 「CNN Concatenated」(2002)を制作したのは、まだ編集プログラムを使い始めて間もない頃でしたか。

OF アーティストとして駆け出しの頃は制作の予算もないし、コミッションもありません。そこで、私は自分自身に長期的かつオープンエンドの課題を与えるようにしていました。「CNN Concatenated」もそのひとつで、2000年後半に取り掛かり、2002年頃に完成しました。当時、私はニューヨークの報道機関で働いていて、ニュースが頭の中の大部分を占めていて、それらの情報を集めはじめました。人に会ったり、話をしたりすることも含めて、そうしたことがほとんどすべての作品の端緒になりました。私は情報の蒐集家です。
「CNN Concatenated」では、物語というより、言葉、それも情緒的なものを帯びた言葉を集めていました。無条件というわけではなく、抽象的でもなく、辞書の記述でもない、直接カメラに向かって語られるニュースキャスターやジャーナリストの言葉。物理的に言葉を発する身体があって、大抵の場合はその背景に写真かグラフィック、もしくはその両方とキャプションがいっしょにある。画面の中に大量の情報。このようにして私が集めたもののアーカイブでは、言葉と画像が結びついていたので、言葉のコレクションから物語をつくりだすことに魅力を感じて、”書き”はじめました。これは言語の習得にもよく似ていて、実際、私は当時ドイツ語を学んでいて、ドイツに移住してからというもの、生活が制作を倣い、制作が生活を倣うようになっていました。
結果的に、収集したインタビューと同じように集めてきた言葉を使いました。つまり、当時の特定の状況を反映する方法として、集めた言葉を使いました。この作品の制作時に9.11が起きて、そうした状況が集めた映像の中でしゃべっている人物の背後に映るイメージの一部や物語の一部になりました。この作品では、当時の状況を反映し、映像の生産者となる過敏化した鑑賞者という登場人物もしくは代役をつくるために情報を利用しています。
今振り返れば、あの作品は確かに時代遅れに感じますが、しかし、それはいい意味で時代を感じさせます。作品を見るとき、言葉は必ずしもある時代に特化しているわけではないけれど、時間が経つにつれて、グラフィックやニュースの形式、衣装や髪型は、まるでタイムカプセルから取り出したものみたいに奇妙な感じがします。作品にはこうした機能があったり、特別な時を反映していたり、どうにかそうした特殊性を抜け出そうとしているところがあって、気に入っています。


Above: Production still from Godville (2005), two-channel video projection, color, sound, 50 min. Below: Footage still from The Casting (2007), four-channel video installation, color, sound, 14 min.

ART iT 「CNN Concatenated」は、それ以降の「Godville」(2005)や「The Casting」(2007)といった作品の基礎になっていると考えられますか。

OF はい。しかし、それはあらゆる編集の基本でしょう。ドキュメンタリーでもフィクションでもなんでも、情報を集めて、それを切り繋いでいく。どのカットを使うかという案配が美的判断というもので、それはまたイデオロジカルな判断でさえある。制作者はこういうことを常に念頭に置いていると思います。そのカットがどれだけ透明性を保っているのか、刺激的なのか、奇妙なのかということによって、鑑賞者もそれを意識するのではないでしょうか。「CNN Concatenated」が扱うのはまさにこうしたことです。最初の数秒を見ればわかると思いますが。
「Godville」は2004年にはじめて、翌2005年に完成しました。集めた物語を編集するという方法を踏襲しましたが、ここではヴァージニア州のいわゆるリビング・ヒストリー・ミュージアムであるコロニアル・ウィリムズバーグにおいて、登場人物を演じる仕事に従事する人々から話を集めました。当然、この博物館には来場者にアメリカの歴史を語るというイデオロジカルな機能があります。自分が演じている18世紀の役の人物としてだけでなく、役を離れて21世紀に生きている自分自身として話をしてほしいと何人かの役者に頼みました。
こうすることで、いくつかの奇妙な符合が浮かび上がりました。18世紀の登場人物たちは戦争、つまり、独立戦争のことを考えているのですが、制作当時の2004年はアメリカ合衆国によるイラク戦争の初期にあたり、21世紀に生きる彼ら自身も戦争のことを考えていました。こうして両者が奇妙に混ざり合うことで、分裂したスキツォフレニアなポートレイトがつくりだされました。
私は自分の作品をポートレイトだと考えています。自分の職業について語る人々のポートレイト。それが兵士であれ、リビング・ヒストリーの役者であれ、ポルノ映画俳優であれ、労働と労働者のポートレイトを制作することに関心があります。しかし、ここまで話してきたように、労働者やインタビューを受ける人の前にアーティストを座らせるという特殊な状況のポートレイトも制作しています。そうすることで、作品は強度を増し、インタビューの中に描き出された状況は関係的、政治的、心理学的緊張を増していきます。

ART iT ポルノ映画俳優を撮った「Everything That Rises Must Converge」(2013)では、彼らをこっそりと観察するというアプローチで、4人の俳優が朝起きるところから仕事の撮影を含めた普段の生活を追っていますね。しかしながら、すべてがどこかぎこちなく見えます。ポルノグラフィはなにかを再現しているのだけれども、それが同時にリアルでもあるというメタファーになっています。彼らはセックスをしていて、それはリアルにセックスしているわけだけれど、リアルではなく演技だというような。

OF そうですね。

ART iT 作品を見ていて、その前提としているものが揺らいだように感じる瞬間がありました。俳優がみな眠りにつくところで、ひとりが元妻に電話をかけ、子どもたちと話したいと頼む場面です。電話を切ると、彼はしばらく物思いに耽っているようで、「子どもたちといっしょに居られなくて悲しいのかな」とか「こうした状況を招くことになった過去の選択を後悔しているのかな」と推測してしまいます。しかし、次に頭に浮かんできた疑問は、「カメラの前にいるわけで、彼はなぜそうした物思いの場面を自分の日常の一部として”演じ”ようと思ったのだろうか」ということです。その一方で、彼が本当に物思いに耽っていたのならば、この「ポルノグラフィック」なシミュラークルにどんな結果をもたらすのか、と。

OF まさにその通り。この矛盾が、普段の生活を営んでいるように見えるところにカメラを持ち込むということの中心にあるのです。最初に、作品は観客にポルノ映画俳優の一日の断片をそのまま見ているように働きかけます。「そうか、これは(ポルノ映画俳優の)4人が朝起きて、プライベートのことをシャワーで流したり、仕事の準備をいろいろとしている映像なんだな」と、観客が映像を疑わなくなるのに十分な説得力を持つ作品にしたいと考えていました。彼らは実際に仕事に向かうところなので、ある意味で、映像にはそれがそのまま映っています。このように、この作品で扱っているのは、こうした人々の舞台裏を覗き見することですが、しかし、もう少し深く考えてみると、すべてがナンセンスだと気がつくのではないでしょうか。たとえ最小規模の撮影班だとしても、寝室に許可なく入り込むことはできません。私たちは彼らが寝ている間に部屋に侵入して撮影したわけではありませんし、彼らは目覚めてから当然のように私たち撮影班に気づかないふりをしていたわけでもありません。これは自分自身をどう見せるかということであり、また、自分の生活を演じることでもあります。ここに私が本当に惹かれている問題があります。
この作品で誤解されがちなことは、演じている人々のリアルはカメラの作用として常に存在していますが、彼らのリアルは常にカメラが映し出している以上のものだということです。彼らをどれだけ追いかけ回して撮影したり、インタビューしたところで、彼らが何者なのかという本質を突き止めることはできません。必ず謎が残る。とはいうものの、朝起きて、撮影するために誰かの部屋を叩き、その人を観察するなどできないということはなく、未だに、私たちはそこから何かを学んでいます。


All: Production still from Everything That Rises Must Converge (2013), four-channel digital film, color, sound, 56 min.

ART iT ということは、この作品はポルノグラフィだけでなく、あらゆるカメラを用いた表象にも言及しているということでしょうか。

OF そこまでではないかもしれないけれど、そこに見える力学はロールプレイングというものにとても強く結びついているのではないでしょうか。何が危険かと言えば、私たちもまた常に演じていることや、そのパフォーマンス、つまり、その見せかけこそが私たちのしていることのリアルだということを忘れてしまうことです。ポルノ映画俳優は演技が下手だと思われがちですが、そうではありません。彼らはあのように振る舞い、話すことが求められる特定の分野で演技をしているのです。最終的には作品にその会話をいれないことに決めましたが、私が彼らとカメラを回していないところで話したとき、彼らは自分たちがしていることについて非常に明晰でした。自分たちの観客が誰で、何を望んでいるのかを知っているのです。
この作品ではそうしたことを示すとともに、それに関連する複数のレイヤーを積み重ねようとしました。そのひとつには、あなたが指摘したような「焦らす」ということがあります。これは窃視症のことと関係していて、それこそがポルノグラフィなのです。ポルノグラフィにおける前提、そして、ポルノグラフィが人の欲望をかき立てる理由は、自分がリアルなものを見ているとしていながら、それがリアルではないことも知っているということです。このようにくるくると表裏が変わるようなものが、ポルノグラフィに魅力を与えていて、この作品はそうした状況をその業界で働く人々の生活に当てはめようとしているだけです。

ART iT ポルノグラフィックなカメラがある種の演技を導き出す。そうだとしたら、原則的に誰かが撮影しているという意識を越えたところで動いているドローンや監視カメラについてはどうでしょうか。私たちはドローンに対しても演じるのでしょうか。

OF いたるところに監視カメラやCCTVが普及したことで、公共空間や私的空間の構造は明らかに変化しています。常にそういうカメラに囲まれているわけですから。私はまだカメラがここまで普及し、広く行き渡っていなかった時代を覚えています。
ポルノ産業の主要な道具であるカメラが、いま、その産業の破滅の源泉となっているのはおかしな話ですね。「リアルなものを提供します(実際はフィクションです)」というポルノグラフィの約束は、スタジオで制作されたポルノではなく、より「正真正銘」なものを提供する、いわゆる素人が自分の家にあるカメラで撮影したものに取って代わられました。誰かが彼女や彼氏やほかの誰かとセックスするのを見る欲望があり、出演者がカメラの前に出ると決め、そこで演技に没頭しているとき、自分たちが見ているのは(それがどんな意味であれ)リアルな人々だと思い込むのが表象の作法です。
私たちはカメラがいたるところにあると知っている。カメラがあると物事は変わるということも知っている。私の作品は巨大な真実を暴いているわけではないし、身のまわりの世界がどれだけ変わったかを見てごらんなさい、と言っているわけでもありません。それは私たちがいかに個人的、集団的に構成されているかを知るべく、表象や演じることのもつれについて考察している。つまり、そういうことです。

(協力:TARO NASU)

オマー・ファスト インタビュー(3)公開予定

オマー・ファスト|Omer Fast
1972年エルサレム生まれ。ニューヨークで10代の大半を過ごし、タフツ大学とボストン美術館附属美術大学を経て、2000年にニューヨーク市立大学ハンター校で修士号を取得。現在はベルリンを拠点に活動している。記憶や歴史の不確かさを出来事の反復やメディアの介在を通じて露わにする映像作品は国際的に高い評価を受け、ドクメンタ13や第54回ヴェネツィア・ビエンナーレをはじめとする国際展や企画展に数多く参加、近年はアムステルダム市立美術館やモントリオール現代美術館、ストックホルム近代美術館、ダラス美術館などで個展を開催している。また、日本国内でも2012年には東京都現代美術館で開催された『ゼロ年代のベルリン—わたしたちに許された特別な場所の現在』や2014年に東京オペラシティ アートギャラリーで開催された『幸福はぼくをみつけてくれるかな?』に出品。2015年にTARO NASUで日本初個展を開催。ドローン(小型無人機)をテーマとする「1,500mがベスト」(2011)、「彼女の顔は覆われて」(2011)の二作品を発表した。

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