足立正生 インタビュー

連帯を想像/創造する
インタビュー / アンドリュー・マークル


『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』ポスター

ART iT 本日のインタビューでは、映画研究や政治研究ではなく、現代美術の視点から話を進めていきたいと思います。まずは個人的な話になりますが、私は1981年生まれで、ほとんど新自由主義しか知らない生活を送ってきましたが、その中で違和感を持ちながら、新自由主義が到来する前の状況について調べたり、現在、新自由主義以外のオルタナティブがありうるのかと模索したりしながら現代美術について考えてきました。もちろん、現代美術は知識生産の領域としては非常に自由な領域でありつつ、また大きな矛盾も孕んでいます。例えば、大半の国で美術館制度は政府や国家に支えられているか、そうでなければ、大企業や銀行、富裕層と呼ばれる投資家や起業家といった個人コレクターに支えられています。というわけで、私は現在の文化において、現代美術の可能性や限界を問いながら、同時に歴史の経緯についても考え続けています。
足立さんは、大変な歴史を生きてきました。60年代の前衛美術や前衛映画に関わっていた頃にはじまり、70年代のレバノンでの生活、その後、強制帰国させられた経験など、その活動と環境の変化は多岐にわたります。これらを踏まえて、60年代当時の日本における文化のあり方と、帰国してから見た日本の文化を照らし合わせたとき、そこにどのような差異を感じましたか。

足立正生(以下、MA) 問題の本質は質問に出ていますね。まず、60年代の状況ですが、私は芸術と政治の関係性を対立的にとらえるという伝統的なあり方に対して、そうやってカテゴリーを分けることにはほとんど意味がないという立場をとっていました。ですから、いろんな芸術の世界、具体的には、文学、美術、詩、絵画、映画といった分野の人たちは、社会や政治の問題に直面して、それをどう考えたらいいのかというところから、ものをつくったり、発信したりする人の主体性が最も重要なのではないか、その問題を突き詰めることがまず必要なのではないかと考えました。ちょうど今のあなたくらいの年齢だった吉本隆明や花田清輝などが文学の領域で喧々諤々と論争していたけれど、結局、文学において、彼らは作家の主体性がどこに向かっていて、どこに立っていて、何を言っているのかをはっきりさせることを通じて、衰退している文化や社会そのものをもう一度ちゃんと自分たちの側に取り戻すことができるのではないかと考えていました。それから、個人である作家の主体性が問われること自体が重要となり、それ以上中身の問題に入ることなく、その主体性を発揮する方法上の問題みたいなことだけに話を終始していったので、僕自身は興味を失っていきました。つまり、あの頃は時代と向き合う中で、どのようにものをつくり、発言、発信していくかという点で、作家の主体性が問われていました。

ART iT その作家の主体性に対して、足立さんはどのような考え方を持っていましたか。

MA 私はもう少しシュルレアリスト的な立場をとっていたので、個人の作家という立場や、その主体性の問題というよりも、ものをつくる、発信するということ自体が、その作家の主体性も含めて既に社会的行為だし、作家がものをつくることももちろん運動だけれども、つくったもの、発信したものには常に受け手がいて、その関係性の中で作家は運動するのですから、作家イコール運動家と考えなければいけないのではないかと考えていました。この辺りは少し花田清輝に近いと思いますが、花田さんはあくまでも個としての作家という側から運動を見ていて、すべての運動を歓迎していましたが、私の方は、作家は運動家であるから、作家の個人的な立場や主体性といったものは関係性の運動の中に溶け込んでしまえばいい、という主張をしていました。
当時は、現代詩をはじめ、各種の前衛運動がはじまった時代でした。演劇ではアンチテアトロも出てきていたし、そうした状況でどんな自由な表現が可能なのかを考えたとき、それはやはりシュールだろうと思い、そちらの側から関わっていきました。だから、芸術も政治も対立項としてカテゴリー化しません。カテゴリー化することによって、政治の言葉は軽薄になり、芸術家は芸術という檻を自分の方でつくったことで自己満足する側面が生まれていたので、それを取っ払うのが一番いいのではないかと思っていました。実は、すぐそばにそういうものの典型としてネオダダがあり、まさにシュルレアリストが運動をはじめたときと同じように、本質とはまったく真逆の様相を持つ時代の風潮と権力体制をひっくり返して、日常に対して非日常をぶつけることで暴露していくというように、親しい友人たちといっしょにスキャンダリズムを展開していきました。

ART iT 足立さんの本業ともいえる映画においてはいかがでしたか。

MA 映画においては、やはり映画監督は作家の主体性という裃に閉じ込められていて、映画監督として発言することなく、言いたいことはすべて映画に撮っているから、映画だけ観てくれればいいって言っていたけれど、私はそれを嘘だと思っていました。しばらくすると、大島渚や松本俊夫のように、映画もつくるわ、発言もばりばりするわという人たちが出てきました。ただし、彼らも結局は主体性論と方法論に向かっていき、私は少し違和感を覚えることになりました。それから、反権力、反警察であればなんでもいいという若松孝二と出会い、彼といっしょにピンク映画という分野で仕事をはじめることになりました。しかし、私が関わると何をつくってもピンク映画じゃないと言われはじめてしまい、飛ぶ鳥を落とす勢いだった若松の作品ですら、私のせいでお蔵入りにさせられてしまいました。それからも名前を変えたりして書き続けていましたが。
映画でやりたいものはなんだろうと考えていたとき、黒澤明作品を世界に紹介したり、アメリカのビートニクやアンダーグラウンド・シネマの人々と交流を持ったりしていた日本在住のドナルド・リチーと知り合いました。彼は日本には作家同士がお互いの作品を観て、批評しあうサロンやグループがないのがおかしいと指摘し、インディペンデントフィルムやプライベートフィルム、アヴァンギャルドフィルムなど、重要な実験を繰り返す人々が各々の作業に留まると駄目になってしまう可能性があるからといって、みんなで集まってセンターをつくった方がいいと呼びかけ、私や富山加津江、かわなかのぶひろ、高林陽一、大林宣彦、飯村隆彦らといっしょにアングラセンターをはじめました。
しかしながら、そのうち、商業主義の側で産業界が科学技術振興を進めたため、8ミリやビデオなどの発達と同時にテレビが隆盛しはじめる。そうすると、それに対応して、消費材としてのカメラやビデオカメラ、ビデオそのものが出てきて、さらに、映像主義的なものに収斂していく人たちが出てきてしまう。媒体でしかないものにもかかわらず、それ自体の新しさに惹かれて、大半の人がそこに収束していってしまいました。メディア論も東野芳明あたりから衰退していく時期にあたり、まさに産業が新しいメディアを提供するという構造になっていました。フィルムアンデパンダンの後に富山加津江やかわなかのぶひろや佐藤重臣たちによって再編されたアングラセンターでやってきたことは、そうしたものへの対抗でした。だが、メディアが評価したり、真似したり、歪めてしまう前からあるものに対する関心が、コマーシャリズムに買い取られてしまい、まわりをみたら誰も残っていなかった。このように60年代の半ばから70年代にかけてどんどん変質していったのです。


『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』撮影スナップ

ART iT 政治と芸術という観点から、パレスチナに向かった経緯を教えてもらえますか。

MA 74年まで日本でさまざまな映画を製作していましたが、自分は映画も革命も同じだという立場に立っていました。当時、ゴダールがジガ・ヴェルトフ集団をつくったというのを聞いて、同時代に同じことを考えるんだなと思っていました。ちょうどその頃に、私は上映隊を組んでニュースを映してまわるというようなことをしていたので。もちろん、ゴダールのフランス的なやり方と、日本にいる私の泥臭いやり方は違いますが、テーマとしては近いところをやっていたと思います。ゴダールはちょうど私たちより一年半前にパレスチナを訪れています。私の方は「新宿の酔っぱらいがゲリラになることができるか」というテーマを持って、若松孝二とカンヌ映画祭の帰りにパレスチナで撮影し、『赤軍—PFLP 世界戦争宣言』(1971)をつくり、その後、全国で上映運動をしました。テーマに対する答えも「酔っぱらいでなければ、ゲリラもできないだろう」と既に決まっていましたね。それから二本目を撮影しようと再びパレスチナに行ったとき、政治的に暴力革命路線を継続しようと行動している青年たちが、あまりにも幼くてこのままじゃ潰れてしまうと思ったので、こちらから提案して、皆で日本赤軍をつくり、そのままスポークスマンをやっていたら、あっという間に30年くらい経っていたというわけです。
最初の質問に戻ると、日本はまさに新自由主義によってどうしようもない社会になっていると思っています。帰国後、見た目はあまりかわっていないと思ったこともありましたが、昔だったら街の中を歩くとここからあそこまで行くのにも途中で幾つも暗闇があったのに、今はすべて光の流れの中で輪になってしまっている。これは危ないのではないか、と。見た目はスケールが大きくなったり、派手になったり、いろいろ強調されているものがあったとしても、本質は変わっていないだろうと思っていたら、実はコントロールそのものが進行してしまっていた。歩いてみれば、どこを突ついてもシステムコントロールがあり、駅は「危ないですから、こちらをお通りください」といった張り紙をはじめ、丁寧だけれど、すべてが監視下に置かれている。そして、街を見てみると、「化粧革命」とか「ファッション革命」とか、私がなんのために30年戦っていたのかというくらい、平気でロゴとして「革命」を大きく謳っている。革命というものがそのくらい人口に膾炙して、誰もが平気で口に出来るようになったのかと思いきや、中身は真逆で、コントロールファシズムというものが新自由主義の登場として人々の心の中にまで浸食して社会を変革するという革命性を換骨奪胎していることがわかりました。

ART iT そういう状況下に置かれた若者と話す機会はありますか。

MA 若者と話をすると、ほとんどは文化や芸術という言葉を使わず、アートやアーティストという言葉を使う。なにか中身がズレてしまっているような気がするくらい、それらが軽いものになっていますね。例えば、作家の主体性論や、作家がひとりでやっても何もできないといったことを経て、自分自身を運動体だと思って行動する中で、初めて世の中の真実とか自分についてわかるのだけれども、そういう行為に至る人がほとんどいなくなっている。むしろ、さっき話した「ファッション革命」のような「アイデアの発見」的な言い方によって、新自由主義が放った霧のような真綿のようなもので全身を包まれて、息苦しい生き方しかできていないのに、それが普通の社会生活だという具合に理解させられてしまっているということがわかりました。彼らには自覚がないのかもしれないけれども、それを責めるのではなく、私は少なくともその苦しさを共有していますし、そういうメッセージは出し続けたい。あの時代がよかったとするならば、ある種のルネッサンス運動をもう一度やるしかありません。つまり、嫌なものは嫌、好きなものは好き、やることはやる、と言えるような、そういう文化状況をつくる必要がある。そう自分に言い聞かせています。

ART iT 『映画/革命』(河出書房新社、2003)に、足立さんの世代は、最初で最後の民主主義的教育を受けた世代だという話が出てきました。そうだとすれば、足立さんの世代とその次の世代との繋がりにはもう少しよい形があり得たのではないでしょうか。

MA 次の世代の人というものをどう定義するかにもよりますが、次世代に繋がらなかったのは、全共闘運動によって断絶してしまったからでしょう。私の次世代というのは全共闘運動世代にあたるので、「暴力路線で革命を」と英雄主義的に少数化して失敗しました。ただ、そういう意味で言えば、戦後民主主義の申し子みたいなものは全共闘世代までは続いているとも言えます。何が違うかと言えば、私の世代は軍国少年として戦争を経験していること。戦後、価値観が完全に変わったことを実感として知っているわけです。一番怖かった小学校の教頭先生が、みんなに軽蔑されて、みんなの前で謝る。それまでは横にサーベルを持った特高がいて、威張っていた人が変わってしまう。まさに革命が起こっていたわけです。その後、アメリカ占領下で、日本的支配体制が復活してできていくのですが、それが出来るまでの長い12,3年間は混沌とした世界でした。しかし、これが一番「充実した」時代だったと思います。軍国主義を完全に否定して、民主主義をつくろうとしつつも、そもそも民主主義とはどういうものかと問うていた時代で、真の意味での平等という考え方が存在し、おそらく大正時代のアナーキストなんかが考えていた理想に近い「混沌の社会」だった。そういう実感が私たちの世代の経験の中にあります。これに比べると、次の世代は文化的に少し弱くなっていて、私はそれを「文化果つる辺境の政治主義的人々」と呼んでいます。軽薄な政治主義的な言語に集約されていくような時代になっていったとき、それは大学封鎖などが起こった時期ですが、それには自分たちの責任もあるだろうとバリケードを張っているところに行って、自己批判をしていました。それで、若松といっしょにつくったスキャンダル映画が、最初の頃は「右翼的だ」と批判されていたけれど、2,3年したら一変して支持されはじめました。そういう姿を軽蔑したりしていましたが。ほかにも、その時代には連合赤軍をきっかけに警察がセキュリティシステムを強めていきました。
それに対してアーティストが何をしていたかというとなかなか抗えていません。アートとは、言って見れば破壊と創造です。破壊が意味する生産性の重要さがないなら、それは腑抜けで、アートとは呼べません。何が言いたいかというと、現代美術のフェスティバルをやるのもいいけれど、最も重要なのは、ここまで新自由主義からグローバリゼーションが人々の皮膚の中にまで浸食してきていることに対して、徹底的に抗うことがアートで、今はその部分が弱いのではないでしょうか。つまり、今は窒息しそうになっているのだから、シュルレアリストとして、それを打ち破る方法はスキャンダルを継続的に打ち続けることしかない。そういうアーティストがいないよね。例えば、インドネシアやマレーシアの人たちは抗おうにも、国の中では抗えない。でも、日本ではまだそうしたことを出来るだけの自由くらいは残されている。だから、もう一度ルネッサンスを、ではないけれど、シュルレアリストに立ち返って、日常やコントロールといった擬制を壊すことをやりましょうよ。そうでないと、人々の心の中に埋もれている声やエネルギーは見えてこない。しかも、こんな年寄りではなくて、若い人たちが気づいて、自分でつくれるようにするというのが私の使命かなと思っています。

ART iT 60年代の活動について印象深かったのは、各領域が横断する交流のあり方でした。映画界だけでなく、前衛美術や文学といったものから、学生運動、政治や社会運動との繋がりが非常に活発でしたよね。

MA それは領域横断というより、もともとネオダダの続きで、アンチ・コンセプトというコンセプチュアルアートが出てきていて、つまり、私たちがやってきたことは政治的なメッセージですらもう軽くて、だからこそ、それを再び思想的、文化的なものとして、範疇分けしないで取り入れることによって、政治的なパワーを自分たちでつくり直したらどうだろうかという発想がありました。実は今も変わりません。安倍が悪いとみんなが言っているけれど、安倍こそアヴァンギャルドだと私は思っています。最も悪いやり方を率先してやっているから。世の中の人々が安倍を倒せば後は上手くいくかもしれないと考えられるくらいのところまでやるわけでしょ。安倍が悪いことをやればやるほど、みんな何をすればいいか見えてくるわけじゃないですか。そうして、それが許せないところまで行った場合、私が学生運動に参加していた60年頃は首相が岸で、シュプレヒコールは「岸を、倒せ!岸を、倒せ!」と叫んでいたのが、最終的には「岸を、殺せ!岸を、殺せ!」になっていき、何万人かで大合唱しながらデモをしていました。今、10万人集まったとき、「安倍を、殺せ!」なんて言うかっていったらそれはないでしょう。昔なら言えたことが今は言えなくなっている時代です。そういう具合に変質させたのは私たちにも責任があると思いますが、ある意味、軽くなってしまいました。だから、そういうところでメッセージ論者は考えてやる必要がありますね。僕はSEALDsに反対していません。彼らも真綿の中でやっと声を出せるようになったばかりなのだから。
彼ら若者たちがある種の経済的徴兵制も含めて、徴兵されることに抗うことができるかと言われたら、誰も担保できません。嫌なものは嫌だってやっと言えるようになった若者たちに対してね。だから、それを今からちゃんと考えてやらなければ駄目だって彼らに言うのは大間違い。逆に彼らがそれをできるようにするのはこちらの役目です。つまり、年寄りの側がさぼっていると思います。暴力革命などと偉そうに言っている年寄りは団結すれば3,000万人以上いますからね。SEALDsや若者は団結してもその10分の1以下です。年寄りの怠慢が現在の状況をつくってしまった。私が独りで若者ぶって言っているわけではなく、お前もやれよっていうことしかないわけですよ。年寄りの方が圧倒的に多いんだから、みんな足腰よぼよぼで、手を繋ぐのがやっとだけど、それで這いずり回ればいいわけであって、別に走りまわる必要なんてないのよ。

足立正生 インタビュー(2)

足立正生|Masao Adachi
1939年福岡県生まれ。日本大学芸術学部映画学科在学中に自主制作した『椀』(1961)や『鎖陰』(1963)で脚光を浴びる。大学中退後に若松孝二の独立プロダクションに加わり、前衛的なピンク映画の脚本を手掛けるとともに、監督としても『堕胎』(1966)で商業デビューする。71年、カンヌ映画祭の帰路、若松とともにパレスチナに渡り、パレスチナ解放人民戦線のゲリラ隊に加わり共闘しつつ、その日常に迫ったドキュメンタリー『赤軍-PFLP・世界戦争宣言』(1971)を製作。帰国後は既存の劇場公開を拒否し、全国各地の工場や大学をまわる上映運動を行なう。74年に重信房子率いる日本赤軍に合流し、国際指名手配される。97年にレバノンで逮捕抑留され、2000年に刑期を満了した後、身柄を日本へ強制送還される。2006年に赤軍メンバーの岡本公三をモデルに描いた『幽閉者 テロリスト』を35年振りに監督し、日本での創作活動を再開。2016年、フランツ・カフカの『断食芸人』を原作に、同名映画を監督した。
映画『断食芸人』公式ウェブサイトhttps://danjikigeinin.wordpress.com/

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