オマー・ファスト インタビュー

ビュー・ファインダー
インタビュー / アンドリュー・マークル


5000 Feet is the Best (2011), single-channel, HD video, color, sound, English spoken, 30 min. All images: Unless otherwise noted, © Omer Fast; courtesy the artist, gb agency, Paris; and Taro Nasu, Tokyo.

I.

ART iT 撮影前のプロセスを含む画面外、しばしば再演という形式をとる画面内、いずれにせよ、あなたの作品の基本的な構成要素のひとつにインタビューがあります。それが作品を展開させるという点、それ自体が何かを表す形式であるという点において、あなたがどのようにインタビューというものを捉えているのか教えてください。

オマー・ファスト(以下、OF) 見知らぬ人に出会い、彼らの人生について話を聞くことには、暗黙の覗き見的なところがあります。私は自分のことを詮索好きで誰かに寄生するところがあると思っていて、作品制作のために他人の身体、彼らの人生や物語を利用しています。物語を吸い尽くせる限り寄生して、作品になる手応えを掴むと離れていく。そうはいっても、もちろん作品に登場する人物をまったく無作為に選んでいるということではなく、自分が関心を抱いている具体的な状況に関係する人を探し求めています。制作過程としては、直接的であれ、なんらかの団体や組織を通してであれ、対象者に連絡を取り、可能であれば打ち合わせの調整をしています。

ART iT 人類の言葉を記録する歴史全体において、インタビューという形式は比較的新しい現象なのではないでしょうか。ある意味、そこには民主的な要素があり、1対1で個人に話しかけることから本当の話を聞くことができるという考え方は、厳格な階級制のある封建社会にはありえなかったのではないか、と。

OF 私にはそれが完全に民主的なものなのかどうかはわかりません。なぜなら、いかなる出会いにも潜在的な権力の力学は存在していて、とりわけ、誰かがほかの誰かから情報を得ようとするインタビューであればなおさらでしょう。例えば、西洋の封建的な文脈において、これに類するものとして教会や告解、異端審問といったものが、接触を規定する権力の力学のもとで、人々から情報を集めていたのではないでしょうか。アーティストとしての私の背後には露骨な権力構造が隠されていないので、おそらく、私が制作しているときは、そうした力学はもう少しぼんやりとしているでしょう。とはいえ、表面的に扱えば、そこにも権力構造はあるでしょう。私の作品は制度の中で展示されているし、それらは特定の興味を持った制度から資金提供されているし、作品制作上で出会う人々とはほとんど接点を持っていない観客が鑑賞します。ですから、私は自分がなにか民主的なことをやっていると得意気になることはありません。おそらく、矯正手段として私が試みているのは、そうした権力の力学と戯れてみたり、それがどういうものであるかという私自身の感覚を作品内に盛り込んだりすることだと思います。たとえ、私とインタビュー相手の実際の出会いの中にそれがはっきりと表れていなかったとしても。

ART iT あなたの代役(proxy)としてのインタビュアーが登場する作品では、しばしばインタビューをする人とそれを受ける人が敵対的な緊張関係にありますが、これは実際のインタビューを反映したものなのでしょうか。

OF どちらとも言えませんね。素材を集める方法として、対象となる人物との出会いや会話があり、そうして集めた素材を読み込み、あれこれと考え、起こったことや起こりえたこと、起こるべきだったことについて、私自身のファンタジーやアイディアを展開させていきます。そこではテキストの変更に繋がる修正が何度も行なわれますが、私はそうした変化を観客がある種の考古学的な仕方で辿れるように重ねようとしています。その結果、作品は詳細な観察を重ねたドキュメンタリーとはまったく違うもの、それがなんであれ、真実を伝えるフリなどしないものになるという兆候があります。
「1,500mがベスト[5000 Feet is the Best]」(2011)の制作のために、ドローンのセンサー・オペレーターと打ち合わせをしたとき、最初の2、3日は彼に遠慮やためらい、敵対的だというわけではないけれど、そこからそれほど遠くないような雰囲気が見られました。もちろん、ある種の自己防衛が攻撃性へと変わることもあるし、実際に、彼はインタビューを止めてくれと言ってきたり、立ち上がって部屋を出ていったりして、私が彼を追いかけて戻ってくるようになだめたり、気持ちをほぐしたりということもありました。
とはいえ、肝心なのはどちらにもお互いに対する関心があったということです。私には私自身の意図があるし、彼らにも打ち合わせを引き受けるだけの興味や理由が確実にあります。私たちが交わす契約は、通常、実際の打ち合わせに先立つ前置きとして話し合われますが、善かれ悪しかれ、実際の会話から取り残されていきます。戦略としてそうした側面を再び作品へと持ち込むこと。つまり、相手をこの世界で起きている面白い出来事の情報源として見ているわけではありません。そうすることで、映画監督やアーティスト、インタビュアー、セラピスト、その権限がある人物、それが誰であれ、彼らが相手に質問をし、情報を得るにいたる状況について考えることになるでしょう。さらに、このような力学に向かい合う自分自身の立ち位置のことも考えることになるのです。


Above: Production photo for Nostalgia (2009). Below: Spielberg’s List (2003): Photo taken by extras during production of the film Schindler’s List, 1993. Both: Courtesy Omer Fast.

ART iT おっしゃったような問題を扱っていると明らかに感じるのは「ノスタルジア[Nostalgia]」(2009)ですね。インタビュアー、もしくは「オマー」役は善意ある人物だが、それでも相手とわかりあえていないような印象を受けました。関係性が次第に搾取的なものとなっていき、彼は関係性を築く関心を失い、ただただ罠を仕掛ける場面を聞き出そうとしているだけのように見えました。このような構造は意図的に作品に組み込まれたのでしょうか。

OF 「ノスタルジア」の素材を探しているとき、相当数の人々に会って話をして、移住のことや故郷を離れた理由、異国の地での亡命希望者としての現状を記録しました。こうしたことをしながら、自分が非倫理的なことをしているのではないか、彼らから一切質問されない立ち位置に自分がいるのではないか、彼らのなんの助けにもなれないのではないか、つまり、私のしていることに何の意味もないのではないかと感じはじめました。
少し誇張しているかもしれませんが、私はこうした気持ちを抱えていました。こうした話をするとき、視界が開けてきて、自分がしていることの実態が掴めてくることがあり、それは自分が関わっている活動の正当性によく疑いをかけてきます。
自分がしていることに対する疑いを作品に落とし込みたくて、私が話したインタビュー相手と同じように「代役(proxy)」を登場人物にしました。あなたは「代役(proxy)」と呼びましたが、彼らはまさに代役(double)で、実際に私の代役(proxy)なのでこれはぴったりの言葉ですね。

ART iT あなたの作品の多くに見られる異化効果は、俳優が実際にあったインタビューを再解釈したり、少なくとも演じたりすることで生まれているのだと理解しています。そこにはインタビューにおける「真実らしさ」に対する意図的な転覆がある。一方で、「スピルバーグのリスト[Spielberg’s List]」(2003)は、証言者や証言、もしくは真実の回復といった考え方に突き動かされているものの、結局、映像自体は美的なものに終着したランズマンの『ショア』(1985)*1 を思い出しました。要するに、ランズマンの「真実」の回復にとって、美的要素はおそらく必要不可欠なものだった。あなたは「スピルバーグのリスト」を制作しているとき、このようなことは念頭にありましたか。

OF 私には出来事を内側と外側の両方から考えられる人物に出会えるという興味を持って作品の主題にアプローチしていく傾向があります。実は、父方の故郷であるポーランドを訪れたいという単純な欲望があの作品のきっかけでした。私はそうした人々の下で彼らの話を聞きながら育ちましたが、それが何を意味するにせよ、自分が作品のための「純粋な」証言者を探したいわけではないとわかっていました。誰もがそうですが、私自身の歴史観もメディアの情報に強く影響されていて、汚染されているとさえ言える。私には大衆文化におけるそうしたメディアの介在と向き合いながら、風景や人物、もちろん歴史にも立ち向かっていくことに重要な意味があったのです。こうして、あの作品では実際の歴史的な出来事とその表象の両方にアプローチしました。その表象も今やそれ自体が歴史的な瞬間となっているのですが。
しかしそれ以上に、私の作品の登場人物はみな閾の存在を共有しているのですが、私が移民や兵士に惹かれるのもそのような理由からです。特別な権限を与えられた人々や、周囲の事情から越境や不法侵入に頼らなければならない人々がいる。例えば、「1,500mがベスト」に登場する男性は、私たちが思い描く最近の兵士像をまさに具現化した人物。彼は船に飛び乗って、海を渡り、難破の果てに以前とは違う人間として生還した英雄オデュッセウスのような男ではありません。そうした人物そのものではなく、むしろ不法侵入したり、別の地域へと移っていったり、具体的な政府の意向を成し遂げるような権限を与えられた兵士といった人物に、テクノロジーが影響していること。このことにまつわる両義性や矛盾に興味があるのです。「1,500mがベスト」のドローン・オペレーターの場合、彼の職業が生み出した矛盾や関連するテクノロジーにより、遠く離れたところから戦闘に従事するために自宅を離れる必要さえありません。彼もまた私たちと同じく車で出社し、オフィスのパソコンで仕事をしているのです。

ART iT このような両義的な人物への関心が、あなたを入れ子状の物語や入れ子状の声に対する探求へと導いていったのでしょうか。

OF 強く関係していると思います。自伝的な話になりますが、私は安定したアイデンティティや出自を持っていません。集団的なものであれ個人的なものであれ、ある人物のアイデンティティがその人物の規範や行動にどれだけ影響するのかということを早い段階から意識していたので、内側と外側の両方から考えることは、私にとって非常にクリティカルなことなのです。構造上、こうした複合的もしくは分裂した視点は、目撃談(自発的な仕方で何かを伝える話者)を疑うような物語として考えたり、あなたが言うところの「入れ子状」の物語を好む傾向にありますが、しかし、それは破綻した、断片的で、さまざまな意味を持つ物語だと言われることもあるのではないでしょうか。
このような自伝的な論理的根拠となるものもあります。しかし、私たちの経験を構成しているものの大部分には既にメディアが浸透しているので、表象や統合に用いられる規範を意識せずに何事かについて考えるのは、少なくとも私にとってはほとんど無理なことです。横柄だととられてしまうかもしれませんが、対象にカメラを向けて質問して、現場から戻り、出来る限り良い編集を行なうということにためらいを覚えます。対象との出会いに関する考察がなければならないし、また、そこから距離を置いたり、類似的な構造や比喩的な構造に関する考察がなければいけません。


Above: Continuity (2012), single-channel, HD video, color, sound, 40 min loop. Image Philip Wölke. Courtesy Omer Fast, gb agency, Paris; Arratia, Beer, Berlin; and Dvir Gallery, Tel Aviv. Below: Talk Show (2009), a Performa Commission, co-produced by Artis Contemporary Israeli Art Fund, Edith Russ House for Media Arts, Oldenburg, and the Goethe-Institut, Hong Kong. Photo Olimpia Dior.

ART iT そういう意味では、よりフィクションだとわかりやすい「De Grote Boodschap」(2007)や「コンティニュイティ[Continuity]」(2012)といった作品も興味深いです。そうした作品には、ある物語が別の物語を浸食している構造や、家族関係を表象しているというどちらの点においても、否定しようのないカニバリスティックなエネルギーがあります。

OF 私もそう思いますね。

ART iT あなたの作品では、ロールプレイやカメラの前で演じることも重要な要素です。「ノスタルジア」では、インタビューをする人が聞き出そうとするものに合わせて、インタビューを受ける人の話す内容が変わりはじめる。「コンティニュイティ」では、「母」や「父」が自分たちの人生を「息子」への期待に依存していることを暗示しつつ、「息子」たちはその期待を理解しようと努めている。同じく「Talk Show」(2009)では、俳優たちはトークショーの形式に従いながら演じ、聞いたばかりの個人的な話を即興的に再解釈しなければならない。彼らは細かい部分についてわからないときは必ず典型的なトークショーのゲストが口にしそうな、それでいて実際の話とは一貫性のない派手な内容で話を飾り立てます。

OF 先にも言いましたが、アイデンティティは強くパフォーマンスに基づいていると考えています。これらの作品では、ある特定の文化の中で「個」であることのパフォーマティブな側面や、ある規範が分析されたり、修正されたりするときに生じる捩じれた関係を掘り下げようとしました。「コンティニュイティ」はテレビ局に依頼されたもので、中流階級のメロドラマや帰郷について考えはじめることになりました。「息子は何をしたのか?」「彼はどこにいるのか?」最初は本物の家族に見えるけれど、ゆっくりとヒントが与えられて行くに従って、彼らが決して家族ではないとわかっていくということが面白いのではないかと思いました。この物語をどこまで推し進めたら、それが本物の家族ではなく、家族を演じる役者たちへと変わっていくのかを見てみたいと思ったのです。観客は登場人物が自身の人生を語っているのだと理解しますが、それぞれの人物は映像の中で役を演じていて、それが夫や父親であったり、妻や母親であったり、息子役となって両親に挟まれて何をすべきか見当もつかない場合もあります。息子役の役者が「息子」になりきろうとする。私たちはそれを見ているのです。
また、「Talk Show」で生じている力学はまさにあなたの言う通りです。私が思い付いたパフォーマンスの方法ですが、観客はオリュンポスの神々として舞台の上の高い位置の席からなにかを理解しようと苦闘する眼下の人間を見ることになります。まず誰かがある物語を女優に告げる。そしたら、彼女は別の俳優にそれを告げる。舞台に上がるまでその物語を耳にすることはできず、話を告げられた俳優は別の俳優へとその話を短縮することなく繰り返さなければなりません。観客席の人々は物語の内容だけでなく、俳優がその内容を知らないこともわかっています。何度か繰り返して行なわれるゲームで、物語は必ず変化してしまいます。ここでは、透明性や観客が知ることのできる情報に遊び心がなければいけません。重要なのは、これらのレイヤーやトリック、俳優が演じる役が、誰かのアイデンティティを曖昧にするためにあるのではなく、むしろ、異なる視点からそのままそれを調べるためにあるということです。

(協力:TARO NASU)


*1 クロード・ランズマン『ショア』(1985):ナチスによるユダヤ人の強制収容、ホロコーストの全貌を、収容所から生還したユダヤ人、収用所の元ナチス親衛隊員、収容所の近くに住むポーランド人といった関係者の証言のみで構成したドキュメンタリー。1986年にベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞。

オマー・ファスト インタビュー(2)


Installation view of 5000 Feet is the Best (2011) at Taro Nasu, Tokyo, 2015. Photo Keizo Kioku. © Omer Fast, courtesy Taro Nasu, Tokyo.

オマー・ファスト|Omer Fast
1972年エルサレム生まれ。ニューヨークで10代の大半を過ごし、タフツ大学とボストン美術館附属美術大学を経て、2000年にニューヨーク市立大学ハンター校で修士号を取得。現在はベルリンを拠点に活動している。記憶や歴史の不確かさを出来事の反復やメディアの介在を通じて露わにする映像作品は国際的に高い評価を受け、ドクメンタ13や第54回ヴェネツィア・ビエンナーレをはじめとする国際展や企画展に数多く参加、近年はアムステルダム市立美術館やモントリオール現代美術館、ストックホルム近代美術館、ダラス美術館などで個展を開催している。また、日本国内でも2012年には東京都現代美術館で開催された『ゼロ年代のベルリン—わたしたちに許された特別な場所の現在』や2014年に東京オペラシティ アートギャラリーで開催された『幸福はぼくをみつけてくれるかな?』に出品。2015年にTARO NASUで日本初個展を開催。ドローン(小型無人機)をテーマとする「1,500mがベスト」(2011)、「彼女の顔は覆われて」(2011)の二作品を発表した。

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