ヒト・スタヤル インタビュー


Adorno’s Grey (2012), detail, single-channel HD-video projection, 14 min 20 sec, four angled screens, wall plot, photographs. All images: Courtesy Hito Steyerl.

 

回路|記録
インタビュー / アンドリュー・マークル、良知暁

 

ART iT これまでに映画制作や哲学、批評という領域で活動し、昨今では、現代美術の文脈で作品や思考が注目される機会が増えていますね。参加する場として、美術をどのように捉えていますか。また、実践面ではどのようにアプローチしているのでしょうか。

ヒト・スタヤル(以下、HS) 映像作家として経験を積んできたので、私自身、この領域に対しても自分のやり方でアプローチしていきたいと考えています。ほかの専門領域でも同じかもしれませんが、映像もまた、メディアの再編成やその他諸々の理由から、さまざまな機会や選択肢が失われつつあり、しばらくすると、各々の専門領域での活動に不自由さを感じていた専門家の多くが、どういうわけか美術の領域に集まってきたのです。おそらく、美術は実験的な試みや想像力に働きかけるクリエイティブな労働のために、わずかに残された領域のひとつだったのかもしれません。自分と同じ映像作家のほか、ダンサーや建築家、文筆家や哲学者、詩人など、結果的に現代美術へと集まることになった、あらゆる専門領域の人々に出会うことになりました。

もちろん、これだけが今日の現代美術のたったひとつの特徴だということはありません。例えば、アートマーケットや、現代美術と並走したり、現代美術によって加速される経済全体といったものもそうでしょう。とはいえ、最も興味深い特徴のひとつと言えば、異なる領域に属する人々を、さまざまな広範囲にわたる地域から呼び寄せるところではないでしょうか。

 

ART iT しかし、あなたの各文章からは、美術に対する両義的、もしくは批評的な態度も伝わってきます。

HS 私たちは美術の領域でグローバリゼーションが抱える矛盾について考えることができます。美術はなにかを可能にしたり、自由にする優れた能力を持ち、それまで繋がりのなかった人々や出来事、物事を引き合わせる。その一方で、いわゆる市場の統合や価値の創出、貨幣と無給労働と大規模な搾取を背景に広く行き交う作品によって、グローバル資本主義の前提としても作用しています。それはグローバルなアート市場を一元化し、そのような市場を生み出し、さらには、フリーランスやインターンといった身分を広く普及させることで、そのような美術の仕事における社会的地位をグローバル化しています。現在、アートワールドは極めて多極化していて、もはや30年前のように、ニューヨークとかどこかひとつの都市に中心があるわけではなく、中心が複数あることで、より面白くなっていると同時により複雑になっています。これは先の仕事における社会的地位についても同じことです。状況を進展させたり、なにかを建設するようなプロジェクトをはじめ、明示的にも暗示的にも、現代美術が無給労働、非正規労働、期限付き労働に依存しているということは明らかです。

 


Top: November (2004), DVD, approx 25 min. Bottom: Installation view.

 

ART iT 美術の領域への関わりが増えていくことで、アプローチに変化はありましたか。

HS もちろんです。実践もアプローチもまったく変わりましたね。こうした美術のダイナミックな側面に触れ、変わらないでいられる人などいないのではないでしょうか。あらゆる人を変えてしまうと思います。実践に関しては、非常に単純なことですが、これまでは映画館で上映する作品を制作してきたわけですね。そこには、スクリーンがひとつあり、プロジェクターが一台あって、鑑賞者は館内の席に座り、およそ90分後、つまり、映画が終わると席を離れていくという非常にわかりやすい環境があります。一方、美術の場合はもっと自由で、手も込んでいて、鑑賞環境はひとつではありません。そうした美術の鑑賞者を相手にしているのだから、作品はどうしても変わっていきます。それを映画館の鑑賞者と変わらないなどと偽ることはできません。同じく、制作全体も映画の形式に囚われず、ペースも速くなり、感情的に混沌としたものに変わっていきました。

 

ART iT 「November」(2004)や「Lovely Andrea」(2007)といった映像作品には、さまざまなものが織り込まれていますね。多数の引用元からフッテージを使用し、あなた自身の省察をそれらの素材に重ねるという方法、このような方法は哲学を学んだ経験によるものだと思いますか。例えば、「November」では、国家と国際社会の間の力学を伴う歴史的瞬間と、あなた自身の友人との非常に個人的な物語とを織り込み、互いの要素を絡み合わせていますね。

HS 「November」と「Lovely Andrea」にはエッセイ・ドキュメンタリーの作法を取り入れています。エッセイ・ドキュメンタリーは1950年代後半に出てきたのだと思いますが、70年代に隆盛を極めると、その後は徐々に下火になっていったのですが、ここにきて再び注目されています。この二作品はそのような作法に基づいていますが、それ以外の作品では、映画では不可能であるインスタレーションの構成要素を含んだ方法を試しています。
正直なところ、哲学とは何を指すのでしょうね。学術的な形式で哲学に出会うたびに、柔軟性の失われた、非常に保守的なもののように感じるのです。何を目的にするにせよ、学術的な形式はどうしようもなく19世紀に縛られています。学術的哲学の大半がどのように執筆され、発表され、施行されているのかを秩序立てて調べてみたら、衝撃的な結果が得られるのではないでしょうか。そのほとんどがとてつもなく権威主義的で、退屈すぎるものとなっているでしょう。非標準的とされる思考方法がこのような状況に変化をもたらしていて、もともとエッセイはそこに属しているものなんです。

 

ART iT 「November」には、ポスト・インターナショナルな世界という考えが出てきますね。20世紀初頭を振り返ると、近代美術はインターナショナルという気分が漂う中で各地に広がっていきました。もちろん現在ではそれはもっと両義的なものです。確かにそれは西洋哲学の伝統に根差したものかもしれませんが、そこには驚くほど開かれた側面もありました。例えば、村山知義は1922年1月にベルリンに到着し、そのわずか二ヶ月後に国際未来派展に参加しています。現在のグローバル化したアートシーンでもなかなか想像し難いことですよね。

HS 私たちはまだ完全なるポスト・インターナショナルな世界を経験していないと考えています。現代美術の世界もグローバル化の過程にあるのではないでしょうか。もちろん、それはもはや存在していない明確な設定や目標を伴い、ある種の倫理を備えた近代的なインターナショナリズムとは全く異なる前提に基づいています。コミュニケーションやネットワーク、流動性やはっきりとした財政的動機に関する漠然とした専門用語はあれども、今日の現代美術のインターナショナルな側面が、近代のそれを大きく凌駕している訳ではないでしょう。
そうは言っても、ほかの領域に比べたらかなり開かれていると思います。この領域で出会う人々の多様性には驚かされますし、歴史的前例として、同様に両義的な価値を抱えていた19世紀の動き、ハンナ・アーレントが「モッブ」と称した人々を思い出します。土地もなく、外へと出て行かなければならなかった彼らは、軍隊に加わり、他国を侵略し、支配や帝国主義、搾取の蔓延る酷い世界を移動していく放浪者になりました。彼らは拡大する帝国主義や植民地主義において、国家エリートと直接手を組んでいました。今日、誰もが他者を侵害し、圧倒し、出し抜き、植民化し合うことで、とてつもなく複雑化したゲームの中で、好むと好まざるとにかかわらず、また、望むと望まざるとにかかわらず、私自身もこの世界を猛然と移動しているモッブの一員ではないかとよく考えてしまいます。

 


Both: Lovely Andrea (2007), DVD, approx 30 min.

 

ART iT 現在の状況に強く共振する形で、インターンやストライキ労働者というテーマについて書いていますね。そこではアートワールドの人々とその労働とがどのように関係し、アートワールドがどのように個々の労働を私有化しているかといった問題が映し出されています。こうしたテーマはどのように浮かび上がってきたのでしょうか。

HS 私のエッセイ集の『The Wretched of the Screen[スクリーンに呪われたる者]』というタイトルは、フランツ・ファノンの『The Wretched of the Earth[地に呪われたる者]』を捩っています。『地に呪われたる者』にはルンペンプロレタリアートに割かれた一節がありますが、彼らは組織されることなく、ただただ貧しくて、何があろうと生き延びようとします。詳しくはここでは述べませんが、ファノンはそのような状況をなんとか理解しようとしています。階級に属さないという状況、あらゆる階級の拒絶、これは言わば、アーレントの称するモッブといっしょで、また、現在のアート経済において、労働者とすら見られていない人々の社会的地位のことでもあるのではないかと。そうした人々をなんと呼べばいいのかさえわかりません。ボランティアという自発的奴隷と呼べばいいのでしょうか。これはグローバル経済におけるまた別の側面である契約労働の話ですらないのです。

当然の成り行きとして、若い人々はまず負債を抱え、借金を重ねて学位を取得せねばならず、自分自身に投資していくのですが、後の見返りを期待してなのか、それ以外にも投資します。これは最近のバブル経済で見られた投資のイデオロギーに非常によく似ています。どこかで利益が約束されているからと株を購入するものの、利益などは得られずに、株は暴落してしまう。ねずみ講みたいなものです。いつの日か目に留まって、労働に対価が支払われる身分の仲間入りを果たすのだという希望に、誰もが駆り立てられています。

アート経済の大部分はこのように機能していて、ロンドンの新しい高層建築ザ・シャードはこのような経済の象徴がまさにピラミッド型であるというアイディアを見事に捉えています。そう、ピラミッドゲームです。しかし、あなたは決して最上階にはたどり着けない。その代わりとして、すべてが崩壊するときに、エレベーターに閉じ込められることもありません。

 

ART iT そういう意味では、労働について書いていることと、イメージや表象、ドキュメンタリティについて書いていることとが繋がりますね。労働とイメージそれ自体という概念は、暗黙の実存的関係性を共有しています。

HS イメージにも類似のヒエラルキーがあって、その流動性や移動可能性は、著作権や独占権、あらゆる複製抑止によって妨げられるので、ほんのわずかなイメージだけが一定の状況の下でのみ自由に移動することができます。

このようにイメージの領域にも労働と非常によく似たヒエラルキーが存在しています。ザ・シェードの最上階に君臨するような豊かなイメージがあり、バイアグラの広告メールを送ったり、無償で名作映画を圧縮してウェブ上にあげるような労働、そんな可視化されることのない貧しいイメージがある。今日、労働のかなりの部分が誰にも気づかれず、無報酬であったりするように、ほとんどのイメージも可視化されることなく、全く表象のレーダーに引っかかることがないのです。結局、誰かが作成して、YouTubeにアップしてもほとんど誰の目にも触れることのないイメージが大量に存在し、たとえどこかで配信されていたとしても、ウェブカメラなどによって自動的に撮影された全く人目に触れないイメージもあります。まるでスパムですね。プログラムによって生成されたスパムが、スパム用フィルターに引っかかる。ここにはもはや人間は介在していません。

誰の目にも触れることのないイメージの巨大なダークマターがあり、誰にも認識されない労働の巨大なダークマターがある。もちろんそれは搾取されたり、巧く利用されたりしますが、認識されているわけではありません。表象のレベルでは問題になりません。

 

ART iT そのような考えはアート自体の共有イメージにどう適用されるのでしょうか。多くの人々が無報酬だということや、生き残るのが難しいことを事前に知りながら、アートワールドに参加してくるのです。もしかしたら、彼らはアートというイメージを追い回しているのだと言えるのかもしれませんね。

HS 最近ではアートに対するイメージも大きく変わってきていると思います。おそらく19世紀、いや、つい最近まで、どこかで長きにわたり苦労を重ねながら、誰にも作品を購入されない天才画家といった理想像を人々は追い求めていたのかもしれません。しかし、現在では少なくとも私の学生を見る限り、アーティストのプロトタイプは将来有望な起業家みたいな人物であり、ある種の帝国や計画を持ち、それらを大量のインターン労働やそういう類いのもので維持することができる人物に変わってきています。興味深いことに、こうしたことにはティッツィアーノやレンブラントのような巨匠のスタジオのような美術史的前例があるということです。彼らは見習い、つまりインターンに背景を任せるといった同じようなシステムを用いていました。こうしたやり方は今日ますます増えています。

 

ART iT 天才という歴史の歪曲ですね。

HS そうですね。それは19世紀の西洋的主体という概念、いわゆるブルジョア中流階級の人間に強く結びついており、これが際立った主体の卓越性というものに繋がっているのでしょう。このような考え方が確かでないとすれば、天才という概念もまた確かなものとは言えません。

 


Strike (2010), HDV, 28 sec.

 

ART iT それでは、ストライキ労働者はどのような立場を取るべきでしょうか。

HS おそらくは、ストライキでしょうか。

そうは言っても、レイバー・アクティヴィズムやアート・アクティヴィズムにおけるあらゆる従来の方法は、現在の状況下で再考されるべきです。もしストライキを続けたとして、誰にも気づかれないのなら、そのストライキは別の次元を獲得しなければいけません。

他方では、まだできることはたくさんあります。同じく、そういうことを全く気にしなくなってしまった人たちもたくさんいるのです。彼らはもはやこの世界に参加しようとせずに、自分たちだけの制度を打ち立て、自分たちだけの枠組みや分配の循環を持ち出しています。

だからこそ、剣を一本見つけたら、それを手に取りストライキを起こせ! 剣を二本見つけたら、それを両手に持ってストライキを起こせ! もしも、三本の剣を同時に持つことができたなら……それはすばらしいことです!

 

 

ヒト・スタヤル インタビュー(2)

 

 


 

ヒト・スタヤル|Hito Steyerl
1966年ミュンヘン生まれ、ベルリン在住。メディア環境やイメージの流通を中心にさまざまな領域を横断する問題に理論と実践の両面から取り組む映像作家として知られている。1980年代後半に日本に留学し、今村昌平や原一男の下で映画制作を学ぶ。ヨーロッパに戻ると、制作活動に加えて、ドキュメンタリーやジャーナリズム論を学び、2003年に哲学博士号を取得。現在はベルリン美術大学メディアアート学部で教授を務めるほか、複数の学術機関で映画や理論を教えている。

第55回ヴェネツィア・ビエンナーレの企画展『エンサイクロペディック・パレス』をはじめ、ドクメンタ12やマニフェスタ5、第8回光州ビエンナーレなど、多数の国際展や映画祭に出品、シカゴ美術館やニューヨークのe-flux、ロンドンのチゼンヘールギャラリーなどで個展を開催している。また、2012年には初のエッセイ集『The Wretched of the Screen[スクリーンに呪われたる者]』を刊行。日本国内では、今年行われた第5回恵比寿映像祭において展示、上映の両プログラムに参加している。

 

ヒト・スタヤル インタビュー
Part I | Part II

 

第55回ヴェネツィア・ビエンナーレ:インデックス

Copyrighted Image