アブラハム・クルズヴィエイガス インタビュー(2)

2017年9月8日
滝のそばで−すべては必然として
インタビュー / アンドリュー・マークル
I.



All images: Installation view, "The Water Trilogy 2: Autodefensión Microtonal Obrera Campesina Estudiantil Metabolista Descalza" at Ginza Maison Hermès Le Forum, Tokyo, 2017. Photo © Nacása & Partners Inc., courtesy Fondation d'entreprise Hermès.


II.



ART iT ここまでパリのギャルリー・シャンタル・クルーゼルにはじまり、東京の銀座メゾンエルメス フォーラムと続いてきた『水の三部作』も、10月のロッテルダムのボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館で完結します。これら3つの展覧会をどのように関係づけようとしていましたか。

アブラハム・クルズヴィエイガス(以下、AC) まず、具体的な繋がりがいくつかあります。たとえば、メキシコの伝統音楽「ウアステコ」のミュージシャン。3つすべての展覧会で、同じミュージシャンに演奏を依頼しました。曲は伝統的なメロディですが、各会場で彼らが歌う歌詞は私が新しくつくったものです。また別の繋がりとして、言うまでもなく、水がありますね。いずれの展覧会でも実際の水は使用していませんが、イスラムの装飾のように、絶え間なく流動するものをほのめかす、水流のアレゴリーを至る所に散りばめています。ほかにも、記号論や、チャールズ・サンダース・パースによる記号、対象、解釈項の三項関係を、3つすべての展覧会を繋ぐ象徴的な構造として使用しました。

そしてもちろん、経済に対する批評的なアプローチがあります。あなたがおっしゃる通り、近代性や近代化は約束されたものとして出回っていますが、その実、近代化が約束するものとは要するに消費のことですよね。近代的生活への憧れは権利のひとつだと言われますが、しかし、それはただ単に消費することであり、当然、消費して廃棄するということです。だからこそ、私はすべての制作に再利用した素材を使用します。何も捨てません。ここ東京では、映像を投影するスクリーンとして使ったダンボールをはじめ、ほかの展覧会やお店で捨てるものや余ったものなど、たくさんのものを手に入れました。消費や廃棄の連鎖に加わりたくないので、私はなにひとつ捨てていません。また、私はあらゆるものが生きていると考えていて、もうひとつの繋がりは、アニミズムになりますね。万物に命があり、そのすべてが尊敬に値します。現実は尊厳や尊敬の念を持って扱われるべきです。それが私たちの権利。私はそれぞれ新しい個別の展示会場に準じて、道具を変えようと試みています。


ART iT 昔、東京にはたくさんの運河や水路が流れていましたが、都市が成長し、近代化していくにつれて、それらは埋められたり、地下化されたりしてきました。300年前、水路は都市の内外へ物資を運び入れたり運び出したりするために重要視されていましたが、それは新しい技術や経済とともに時代遅れになっていきました。

AC 都市は運河や水路より土地を求めますね。それは破壊を求めているということでもありますが。メキシコシティもかつては運河システムを築いていました。スペイン人がやってくる前、現在メキシコシティと呼ばれる地域はヴェネツィアのようで、テスココという大きな湖のまわりの複数の湖を繋ぐグリッド状の運河がつくられていました。どれだけ長い間、そして文明化と呼ばれる開発の下、自然との相互関係に抗ってきたのかを考えると興味深いですね。そして現在、私たちは運河よりも高速道路が優れていると考える社会に暮らしています。もちろん、私もカヌーを使うより車を使う方が仕事場まで早く到着できる。これは完全に矛盾しています。


ART iT 東京についてはどのような印象を持っていますか。

AC 東京は今回で三度目です。美しい街ですよね。私自身の文化とあまりにも違うと簡単に言ってしまいますが、それ以上です。都市というより、私には人々の振る舞いや思いやりの方により意味がありますね。それは尊敬に関するものです。


ART iT 東京に関して、他方では、国家の上部構造に支えられた都市ユートピアというメタボリズムの提唱者たちが描いたものの代わりに、資本主義こそが個人的な基盤や政治的な基盤といったものの上に達成されるどんなものよりも素早く土地を代謝していくのを見てきました。現在では、総合不動産ディベロッパーが、巨大な土地占有面積のために密集した地域の真ん中に小さな区画を買い上げて東京を規定し、人々の交流の仕方を変えていきます。

AC それは共同体の生死に関わる危機ですね。真の共同体にアクセスする権利を与えられていない。あらゆるものから遮断された建物のモジュールの中でつまらない生活を送り、ただ会社と部屋を往復する毎日。人間のスケールに合わない、効率性と生産性という近代の考え方に戻ってしまっている。

しかし、私自身、一方で効率性に対する日本のアプローチに感心しているのを認めなければいけません。あらゆる細かなカテゴリーへとゴミを分類するやり方はとても美しい。ゴミの分別の専門知識があるわけではありませんが、どこに訪れても、ゴミの分別を観察するのが好きですね。今回、私は家族と来日しましたが、子どもはまだおむつを履いています。ですから、おむつの捨て方は私たちにとって大きな問題としてありました。おむつだけを収集する時別な日があるのかどうか?このような事柄によって、普段とは違った考え方をしますね。メキシコでは、収集の仕事で働いている人たちがゴミを分別するという昔ながらの方法をとっていて、彼らはまだ使えるもの、再利用できるものならなんでも捨てずにとっておきます。つまり、ゴミ捨て場が実はゴミ捨て場ではない。このようなアプローチを自分の制作に取り入れようとしています。


ART iT そうしたものはかつてどこにでもあったのではないでしょうか。近代以前の日本には、都市住民の排泄物にお金を払って引き取り、それを郊外に運び、農民に肥料として販売する仕事もありました。

AC 元来考えられた農業システムの美しさには、まったく無駄がない。リサイクルは新しいことでなく、昔からずっとありましたが、だんだんとそれが当然だと思われるようになってきました。誰かが自分の代わりにやっていると考え、気にもとめずに、ものをただ捨ててしまう。これはまるでファッション業界のシーズンという発想みたいですね。新しいシーズンがはじまったら、その前のシーズンの服を処分する。もったいないですよね。iPhoneもそうですね。最新モデルを手にいれて、まだ動くのに古いものを捨てる。テレビやDVDプレイヤーも同じです。とはいえ、NetflixがあるからもうDVDプレイヤーはないかもしれませんが。しかし、裕福な国に行けば、路上で数々の電子機器を見つけられるから、私にとっては都合がいいですね。茶色い紙袋に入った素敵な服。これもそう。流行りではないというだけで捨てられてしまう。しかし、これがシステムで、いずれにせよ私たちもその一部です。







ART iT これもまたメタボリズムの背景をなす考えのひとつ。消費、消化、再生というプロセスを伴う都市開発につながるメタファーですね。

AC そう、それはすばらしい。中銀タワーの取り壊しの運動を行なっている建築家のグループについて知ることができたのは魅力的でした。彼らの主張は、中銀タワーはもはや時代遅れで、機能しない、ユートピア思想の役立たずだということ。そんなことはどうでもいいですが、私自身は定義上、決して存在することのないものだから、ユートピアを信じていません。それは強い願望にすぎません。しかし、なんらかのユートピアを志向するこの建物は、現実に存在している。きちんと建てられていないから当然壊れちゃうし、最初から水漏れしていたところもあるみたい。私の知る限り、建物の半分以上は使われておらず、自然の力に侵食されています。この建物が草に覆われている写真を掲載した書籍もありました。自然の美しさそれ自体が強調されている。取り壊しに建築家は必要なく、自然がすでにその代わりをしているのです。

この矛盾こそ私が中銀タワーに魅力を感じているところです。建築それ自体ではありません。私はこれまでに建築を批評してきたことはありませんし。たとえば、「自己構築」をヴァナキュラー建築の一種として考える人には反論します。なぜなら、それはヴァナキュラー建築ではないから。しかし、この建築を取り壊そうとしている人々がみな建築家だという事実は大好きです。すごくいい!私が中銀タワーを参照しているのは、そこがポイントです。それは建築にまつわる対話であって、建築それ自体ではありません。

日本式の住宅を建てるための伝統的な技術にもインスピレーションを受けました。そうした職人の技術、熟練の手業や仕事に対する誇りといったものですね。伝統的な建築で、(紙と木枠からなる)障子の重なりによって、室内に射し込む光にさまざまなグラデーションがつくりだされる様子は『陰翳礼讃』を思い出します。この本は何年も私の枕元に置いてあります。話を戻すと、展覧会の紙製の構造物は建築というより、今話したような感性に繋がっています。そうした知、職人の機転の良さといったものを愛しています。そして偶然にも、エルメスも職人の家としてはじまりました。文字通りというわけではありませんが、この展覧会ではそのような参照もみな重ね合わせようとしました。


ART iT 紙製の構造物は凧のようでもありますね。

AC ええ、天井から吊るされているということもありますし。しかし一方で、私はそのような連想から観客の気をそらすことも続けています。映像ではわからないと思いますが、紙製の構造物にはミュージシャンの拡声器としても使っています。彼らはこの構造物の内側で歌ったり、演奏したりしました。そのとき、彼らは裸足です。これらすべてにも意味がありますが、それは私の個人的なものにすぎません。そして、観客が作品を見るたびにその意味を決めるのだから、私にとってそれが何を意味しているのかは重要なことではありません。


(協力:銀座メゾンエルメス フォーラム)



アブラハム・クルズヴィエイガス インタビュー(3)



アブラハム・クルズヴィエイガス|Abraham Cruzvillegas
1968年メキシコシティ生まれ。メキシコ国立自治大学で教育学を学ぶとともに、ガブリエル・オロスコの主宰する「Taller de los Viernes(金曜のワークショップ)」(1987-1992)に参加。幼少期を過ごしたメキシコシティ郊外のアフスコに暮らす人々のセルフビルドの手法に影響を受け、「Autoconstrucción(自己構築)」という概念に基づいた、場を解釈し、即興的に制作する手法を展開。80年代後半から90年代にかけて、メキシコシティで起こったコンセプチュアル・アートの潮流の中心的な作家のひとりとして知られる。主な個展に『Empty Lot』(テート・モダン、2015)、『Abraham Cruzvillegas: The Autoconstrucción Suites』(ウォーカー・アート・センター、2013;ハウス・デア・クンスト、2014)など。また、ドクメンタ13(2012)や第50回ヴェネツィア・ビエンナーレ(2003)など数多くの国際展にも参加。2012年には韓国の第5回ヤンヒョン賞を受賞している。日本国内では、2014年に東京のラットホールギャラリーで個展を開催している。
2017年4月から銀座エルメス フォーラムの個展は、クルズヴィエイガスが2017年にパリ、東京、ロッテルダムの三箇所で開催する一連の個展『水の三部作』の第2章にあたり、建築運動「メタボリズム」を代表する中銀カプセルタワービルや、イサム・ノグチのランプやテーブルなどにインスピレーションを得て、紙や木材といった水との深い関わりの中で生まれる資材を用いたインスタレーションなどを発表した。

「水の三部作2」アブラハム・クルズヴィエイガス展
2017年4月21日(金)- 7月2日(日)
銀座メゾンエルメス フォーラム
http://www.hermes.com
展覧会URL:http://www.maisonhermes.jp/ginza/le-forum/archives/405257/