メルヴィン・モティ インタビュー

無意識のフレーム
インタビュー / アンドリュー・マークル


Cluster Illusion (detail) (2014), dyed silk, 120 x 175 cm. Courtesy Meyer Riegger, Berlin and Karlsruhe. Photo Sugiyama Gosuke. All images: Courtesy Melvin Moti and the Mori Art Museum, Tokyo.

ART iT あなたの作品には制度的文脈を扱うものや、そうした文脈に由来するものが比較的多いですよね。ヴィクトリア&アルバート美術館(以下、V&A)のコレクションを使用した映像作品「アイゲングラウ[Eigengrau]」(2011-12)や、シュトゥットガルト州立美術館新館内で特別な展示に取り組んだ「The Art of Orientation」(2011-12)があり、また、初期映像作品「No Show」(2004)ではアーカイブの調査を通じて、エルミタージュ美術館が第2次世界大戦中に作品を守るためにすべての作品を額から外して移動させた状況での館内ツアーを再現するという物語を立ち上げていました。では、こうして自分の実践に結びついている美術館というものについて、あなた自身はどのように捉えていますか。また、あなたの全作品は、なんらかの形で制度を構築するという文脈に当てはまると思っていますか。

メルヴィン・モティ(以下、MM) これまで美術館や美術機関とはさまざまな形で仕事をしてきました。大抵の場合、私は予測不可能なものや実験的なものをつくりだすために裏口のようなものを見つけます。V&Aのコレクションを使って映像作品を制作したときも、美術館は私がしていることを何も把握していませんでした。私は一般の来場者として美術館を訪れて、美術館スタッフは制作に全く関与していない。もはやそこでは、美術館を作品制作に利用できる公共空間か在庫目録のように見做していました。V&Aのコレクションには、掃除機や靴、Macintoshの全世代の機種、そのほか、さまざまな消費財に流行りもの、骨董品も含まれていました。そのほとんどは大量生産品で、店や骨董市で見つけられるものです。「アイゲングラウ」で使用したオブジェは、V&Aに置いてあるものとまったく同じものですが、美術館からは借りずに自分で見つけてきました。そこには美術館のコレクションをあのように扱うことが許されないという現実的な問題があったのです。
「No Show」でもいくらか裏口的なアプローチをしています。エルミタージュ美術館には調査の許可を取っていましたが、彼らは私が何をしていたのか正確には把握しておらず、当時23歳の私にはまったく興味を示しませんでした。私は放っておかれ、彼らは一切質問することも、後から連絡することもなかったです。この二作品は美術館という空間に収まるものではなく、私としても美術館と連携して制作したとは考えていません。
美術館との関係における自分の役割という点では、おそらく「The Art of Orientation」が最も直接的な体験でした。それは現在も続いている企画ですが、美術館に招聘されたアーティストがコレクションを使って、好きなように展示するというものでした。私は当初から自分がアーティストとして、このような企画を引き受ける意味について考えていました。自分はキュレーターなのか?これはインスタレーションなのか?このプロジェクトがどれほど自立した作品足り得て、また、どれほど美術館に貢献するのか?と。最終的に、私はこの質問を美術館に投げ返してみることにしました。つまり、彼らは私の好きなようにやっていいと言っていましたが、彼らのコレクションの構造を間接的にいじるようなことも許してくれるのか、と。
簡単に言えば、コレクションから最も醜悪な作品をいくつか選んで展示してみました。同コレクションには、1950年代、スタジオ全体を寄贈すると遺言に残したある地元作家の約50点の絵画が収められていましたが、かなりひどい画家だったので、彼の作品は一度も展示されたことがありませんでした。また、別の地元作家はナチス政権との関係で問題があって、現在では作品も傷み、その歴史的経緯のためにも展示を正当化するのが難しい。私はこのような普段日の目を見ない作品でさえも、美術館内で展示できるような寛容かつ自由な概念的枠組みをまとめようとしました。この種の転覆というものには強い関心を持っていましたが、ここではまさにアーティストにコレクションの一部を任せるという依頼が含む直裁な問題を扱う必要がありました。


Top: Eigengrau (2011), 35mm film, 26 min. Bottom: “The Art of Orientation,” installation view at Staatsgalerie Stuttgart, 2011.

ART iT 美術館の権威を転覆するような作品を通じて、歴史自体を問題化するということも考えていたのでしょうか。「アイゲングラウ」だけでなく「The Black Room」(2005)にも歴史的もしくは制度的な背景が備わっていますが、どちらも非常に脱文脈的に仕上げているので、一目見ただけでははっきりそれと分かりませんよね。

MM これらの作品は私が歴史に繋がるための手段であると同時に、経時的な秩序から逃れるための手段でもあります。「The Black Room」の背景にある経時的な物語に関して、ローマ時代のフレスコ画の歴史的展開は非常になめらかな発展を経ていますが、不思議なことに、アグリッパ治世のフレスコ画はそこに収まりません。それは歴史の持続性における裂け目を表し、無時間であるとともにタイムカプセルのようなものでもある。実際は、ある一枚のイメージがあの作品のきっかけとなりました。それは作品の最後に出てくる、互いに見つめ合う二羽の鳥のイメージです。このマシュー・バーニー風のギリシア神話とエジプト神話が混淆したような図像は、2000年前に描かれたものであるにもかかわらず、すごく新鮮で視覚的にも魅力的です。最初に見たときは、そんなに昔のものだなんて信じられませんでした。私のプロジェクトの多くは、このようにして観察からはじまり、そこからより深いところへと進んでいきます。
こうしたことはV&Aにも当てはまることで、彼らは経時的物語を意識的に放棄して、当初から時系列的な展示を拒否し、そうしたものに対して批評的でした。もちろんV&Aの中にもより慣習的に組織しているところもありますが、観客のガイドとなるような文化的、形式的展開の物語も一切なく、何千もの陶器を展示しているような場所もあります。言ってしまえば、ただ並べただけ。このような徹底された無秩序にも惹かれるものがありましたが、同時に、さらに遠くへとこれらのオブジェを脱文脈化するにはどうしたらよいかと考えはじめるようにもなりました。そこで思い付いたのが、宇宙空間には歴史や物語の重力などが存在せず、空間しかないわけで、オブジェを宇宙空間で撮影したらどうか、と。これが「アイゲングラウ」のきっかけとなり、視覚的にもそういう方向へとアプローチしていきました。
こうしてわかるように、数多くの判断は現場で行なっています。出来事を見て、なにか奇妙なことが起こったら、家に戻ってじっくりと検討する。とはいえ、そこでメタレベルで考えたり、解決し難い歴史の議論にはいっていくわけではありません。そこを最も重要だと考えているわけではないので。見るもの、触れるものが教えてくれるんです。ある本のイメージを見て、それが何年間も心に残って、そのイメージの背後に広がる歴史全体を理解する。こういった魔法は自分で考えつくものではなく、不意に降りてくるもので、常に注意深くしていなければいけません。何より関心があるのは、過去の物事がいかに現在、そして、未来を支配するのかについて考えることです。「No Show」に関して、がらんとしたエルミタージュ美術館を廻るツアーなんて、まさにコンセプチュアルなパフォーマンスであって、それ自体興味が湧きますが、同時に、歴史的に見れば、1940年代のサンクトペテルブルクのコンセプチュアルなパフォーマンスという文脈を考えるなんて荒唐無稽なことですよね。これもまた歴史の裂け目のひとつ。そうした「時」には興味があるけど、それは自分で見つけられるようなものではないので、探し求めることはありません。そういう「時」の方があなたを見つけ出すんです。

ART iT 「The Black Room」、「E.S.P.」(2007)、「No Show」を見ると、フレーム、いや、むしろ、空っぽのフレームというアイディアが、エルミタージュ美術館のツアーからほかのすべての作品にまで共振していますね。フレーム内にあるもの、フレーム外にあるもの、そして、フレーム内に投影されているものがある。それは制度や美術史という概念のみならず、ESP(超感覚的知覚)や予知、そして、シュルレアリスムにおける合理と不合理、夢と意識の境界にも応用することができますね。

MM そうです。個人的には写真のフィルムとそのフレームにも強く関係することですね。余談ですが、「No Show」では何もないということを25分間も観客に見続けさせるという素晴らしい成果を挙げることができました。イメージや情報が溢れている現在、この混沌の中、何もないことがスペクタクルへと変わるということに惹かれたのです。「E.S.P.」の破裂する泡のイメージ、瞬時に消えてなくなるものに人々が夢中になるということは、あの映像作品で大きな割合を占めています。最後の12分間、観客はただただスクリーン上の小さな点だけ見つめている。
これもまた、普段は観客が見入ってしまうスペクタクルを望まれる美術館などと制作をはじめる上で負う責任に対するひとつの方法です。まったく何もないことを提示することでスペクタクルを得るという矛盾によって、観客に挑んだり、観客を楽しませたりすること。これは制度的な枠組みの中に異なる空間を見出だすもうひとつのやり方ですね。


Top: No Show (2004), 16mm on video, 25 min. Bottom: E.S.P. (2007), 35mm film, 18 min.

ART iT あなたの実践にある物語を投影してみたとき、そこには3つのはっきりと異なる段階が見受けられました。比較的ドキュメンタリー形式の「Stories from Surinam」(2002)や「Texas Honkytonkin’」(2003)、「Top Legs」(2005)など。意識や幻覚の変容状態を扱った「No Show」「The Black Room」「E.S.P.」「囚人の映画[Prisoner’s Cinema]」(2008)のような作品。そして、最近の「アイゲンリヒト[Eigenlicht]」(2011-12)、「アイゲングラウ」、「エイトフォールド・ドット[The Eightfold Dot]」(2013)などはほとんど臨床的な視覚性を備えている。

MM おっしゃる通り、そのような展開が描けるでしょうね。しかし、そのほとんどは私がやりたかったことというよりも、むしろ、やめたいと思っていたことに関わっています。自分自身に挑戦する新しい方法や新しい表現の形を絶えず追い求めていました。
あなたが触れてくれた初期の映像作品に関して言うと、私は美術学校を出たばかりで、自分の声を探しながら、さまざまなことを試していました。そして、なにか長期的に取り組めそうなものを見つけたのが「No Show」のときです。それは、還元という戦略、もしくは、なにかをゼロまで還元することで人々を魅了するものをつくりだす方法を見出すことです。還元とは余分なものを消し去ったり、真逆することで、大量の情報に対応するやり方でもあります。これらふたつのメカニズムがいくつかの作品制作を続けていく上で非常に重要だった一方、形式的にはあるイメージを途切れ途切れの物語を結びつけるという方法に偶然出会いました。人々は認知的作用を通じて、無意識にイメージと音の断片を結び合わせる。「The Black Room」でも互いに何の関係もない要素を撮影し、同じ映像作品に収めたら、そこからどんな第三の物語が生まれてくるのかを考えていました。「E.S.P.」に関して言えば、私は無意識という要素にも未来という要素にも関心を持っていたので、未来について考えることをどうやって上の形式に結びつけられるかを考える前から、このふたつの歴史的な主題については調べていましたね。
そして、いよいよ「囚人の映画」で壁にぶつかります。こうした形式を永久に続けていけるとも思いましたが、そのようなアーティストにはなりたくないと思い、この形式はここでやめて、次の映像作品では音もナレーションもまったく使わないようにしてみようと決めました。そうしたこともあり、「アイゲンリヒト」や「アイゲングラウ」、「エイトフォールド・ドット」は純粋に視覚的な言葉で物語を語ろうと試みた結果、ずいぶん形式的なものになりました。それ以前と変わらず、物語や並置を扱っていますが、音を使用していないので、非常に厳密に物事を結びつけなければなりません。ふたつの短い物語を結びつけるよりも、ふたつのイメージを結びつける方が難しいですね。
このときもまた、こういう展開を思い描いていたわけではなくて、飽きてしまったり、ギアを変える必要を感じたり、別のことがしたいという瞬間があっただけです。
もうひとつ、私は学ぶことが好きなんですよね。森美術館の企画でも、技術的なことだけでなく、文化的なこともたくさん学んでいるのだと気づきました。作品制作とは、人生を豊かにできる物事をより深く知るための手段ですね。

ART iT これまでにも、リスボンでの個展『反響する部屋[Echo Chamber]』(2012)ではガラス職人と、ブリュッセルのWielsでのプロジェクト「Dust」(2010)では織工と、そして、東京では江戸小紋の染師との共同作業を経験してきました。なぜ、こうした手仕事の制作プロセスに関わろうと思ったのでしょうか。

MM 楽しいからですね。それ以前は想像も予想もできなかったものの制作プロセスを学び、知っていく。成果に特別な関心があるわけではないので、欲しいものありきで、誰かにそれをつくってもらうこととは全然違います。
自分自身でつくるものが気に入らなくて、自分でやると大概は目の前に退屈な形が出来上がり、それよりも頭の中にあったものの方がよかったとか、実際にはそこまでいいアイディアじゃなかったということに気がつきます。制作プロセスのいいところは、それを押し進めていくと、制作プロセスもまた私を押し進めてくれること。ラフティングみたいなものです。つまり、創造的な制作プロセスに対して、あなたはある方向性を与えることができるが、あなたには数多くの方向性が与えられてもいる。それまで頭の中になかったものを考え出していく。言うなれば、自分自身のイメージを発見するということなんです。
今回の展示作品のイメージが出来上がったとき、それはあなたにとっても私にとっても新しいものになりました。そうなるように準備していたわけですが、想定していたものよりも圧倒的に素晴らしいものになりました。制作プロセスを通じて展開させていこうと、作品に集中していた結果ですね。


Top: The Black Room (2005), 16mm on video, 25m min. Bottom: Prisoner’s Cinema (2008), 35mm film, 22 min.

ART iT 今回の場合は、どうやってイメージを小紋柄に落とし込んでいったのでしょうか。例えば、雲間から射す日光のイメージに「鮫小紋」を選んでいますよね。

MM 今回はかなり直感的に3つの柄(鮫、通し、行儀)を選びました。アメリカ合衆国のロード・アイランド・スクール・オブ・デザイン(RISD)を訪れたときに、20センチ四方の日本の浴衣のパターンサンプルを見て、このプロジェクトの着想を得ました。何本かの線がそのパターンから消えていて、それによって雲のイメージが喚起されました。原始的な具象イメージの幻影に心を揺さぶられました。
また、雲というアイディアも印象に残っていて、そう、空を見るというアイディアですね。雲間から太陽が現れて、光が射してくる「ヤコブの梯子」と呼ばれる現象にはまっていて、その現象を見つける度に写真を撮っています。「囚人の映画」を制作して以来、どうやって空間の中で光を捕えるかということに関心がありました。カメラは表面に降り注いだ光しか捕えられないので、かなり難しいことですね。また、ここにはフィルムと布という、また別の関係性も存在しています。ここで使用したイメージのひとつは非常に抽象的で印象主義的ですので、滅多に感知されないものとして、光を感じられるのではないでしょうか。
このプロジェクトでもうひとつ考えていたのは、規則性と無規則性という要素を掛け合わせて制作することでした。これらの星図は無規則性の最良たる例でしょう。星々は均質に広がることとはまったく異なり、隙間を保ちつつクラスタ状に形成されている。完璧なる無規則性。それは無規則性のデータの視覚化と同じようなもので、例えば、自動車事故を調査すると、そのデータにはいくつかのクラスタが見られるでしょう。星は完全に無規則で、たとえわずかなドットしか見えなくても常にフォトジェニックなので、星にはこだわりたかった。そして、それと対になるべき要素を探すということもあって、空を見続けていて、それ故に太陽や日光のことも見ていたわけです。
皮肉なことに、私がRISDで見つけたサンプルはオプアートに関する展覧会に含まれていました。最初から最後までそういうことが私の関心にあったのでしょう。私はオプアートの形式のひとつとして、今回の展示、とりわけこのような日本の小紋柄を考えています。

ART iT あなたは通常、映像という時間ベースのメディウムを扱っていますが、時間という要素はここで挙げた集約的なプロセスベースの作品にも適用可能だと思いますか。

MM 両者に大きな違いは感じてませんね。フィルムを使った映像製作では長い準備期間があって、撮影では必要なことに対する限られた時間しかない。私の場合、セットを借りたり、人を雇う予算的な限界から、撮影期間は通常3、4日。信じられないくらい密度の濃い数日があり、その時間内で作品を完成させなければなりません。実際、今回も染師との時間は4日間しかなく、突然の事態に対応できるようにかなり準備しました。現場で下さねばならないすべての決断。後戻りはできない。そうして3日目が終わり、作品が出来上がる。とはいえ、密度の濃さはどちらもそこまで変わらないでしょう。もちろんフィルム作品の場合、20分の作品であれば、観客が作品を観るその時間内にあらゆる関係性を描かなければいけませんが、一方で、展覧会形式であれば、観客はそれぞれ自由に時間を使うことができる。ある瞬間にぱっと理解することもある。そういうところも好きですよ。


Installation view of “MAM Project 021: Melvin Moti” at the Mori Art Museum, 2014. Photo Sugiyama Gosuke, courtesy Mori Art Museum, Tokyo.

ART iT 完成された作品のその後の在り方についてはどう考えていますか。

MM 興味深いと同時に難しい質問もありますね。まず、フィルムはアーカイブ素材として、通常は美術館などの棚に収まるでしょうが、その後の在り方というのは非常に難しいですね。一度収蔵されてしまえば、再度見せる時期に対する決定権はありませんし、その緊急性だとか妥当性なんかもコントロールすることはできません。なるようにしかなりませんね。
とはいえ、全般的に私の作品にはそこまで差し迫ったものはなくて、作品が巡回したり、あるべき文脈を見つけるにはまだしばらく時間がかかるでしょう。もうすぐはじまるヨコハマトリエンナーレ2014には「No Show」を出すつもりですが、今回の参加は完成してから10年ほど経つこの作品を再構成する機会になりました。この間、16ミリフィルムで撮影した「No Show」はごくまれにしか見せてこなかったので、私自身も新鮮に感じました。いくつかの場所でこの作品を見せてきましたが、映画というメディア自体がゆるやかに変わってきていることもあって、フィルムで製作した作品が上映されるには時間がかかるんですよね。いったん上映されると、しばらくはそのまま上映されるのですが、最終的にまた保管庫へと向かう。できる限りうまくやりくりしたいとは思いますが、正しい答えなんてありませんよね。

メルヴィン・モティ|Melvin Moti
1977年ロッテルダム生まれ。神経学、科学、歴史と視覚文化との関係に関する綿密なリサーチを重ね、忘却されたり、隠蔽されている曖昧なままの事象を、映像や彫刻、インスタレーション、書籍などのさまざまな形式で視覚化する。第55回ヴェネツィア・ビエンナーレ企画展(2013)や第5回ベルリン・ビエンナーレ(2008)といった国際展への参加のほか、クンストハレ・リスボン、マサチューセッツ工科大学リスト・ヴィジュアル・アーツ・センター、アムステルダム市立美術館などで個展を開催している。2013年にはアーツイニシアティヴ トウキョウ[エイト/AIT]のアーティスト・イン・レジデンスで3ヶ月日本に滞在し、森美術館のMAMプロジェクト(2014)にて、江戸小紋のパターンから着想を得た、抽象的かつ規則的な江戸小紋の模様とランダムな点で構成される星図を重ね合わせた絹染めの新作「クラスター錯覚」シリーズ(2014)を発表。なお、ヨコハマトリエンナーレ2014への参加も決定している。

MAMプロジェクト021:メルヴィン・モティ
2014年5月31日(土)-8月31日(日)
森美術館
http://www.mori.art.museum/
開館時間:10:00-22:00(火曜は17:00まで)入場は閉館30分前まで
会期中無休

ヨコハマトリエンナーレ2014「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」
2014年8月1日(金)-11月3日(月・祝)
横浜美術館、新港ピア
http://www.yokohamatriennale.jp/2014/

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