ジョウ・タオ インタビュー

観察を為すこと
インタビュー / アンドリュー・マークル


Still from Blue and Red (2014), single-channel HDV, 25 min 14 sec. All images: Unless otherwise noted, courtesy Zhou Tao and Vitamin Creative Space.

ART iT 恵比寿映像祭に出品した「青と赤」(2014)や「地熱収集(Collector)」(2012)以外にも、あなたの作品は木の中で動物の鳴きまねをする男たちを撮影したり、都市空間に介入したり、潮の満ち引きの中に身体を一日中浸したりと、さまざまなことに関係していると思いますが、各作品のテーマはどのように決めているのでしょうか。

ZT 自分にとっては割と自然なことなのですが、住む場所を変えたり、移動したりするたびに、身のまわりを観察しているので、その過程でいろんなことを発見します。地形、光、風土といったものに注意を払うようにしていて、そうすることで場所の特徴が掴みやすくなるのです。例えば、その場所の光がなにか違うなと感じたら、なぜそう思うのかを具体的に探っていくのです。広州に住んでいますが、ひとつの地域に数年住んでは別の地域に移るということをしていて、ときには家族と離れて生活することもあります。しかし、どこへ移ろうとも、その地域の住民として生活することを心がけています。何かを見つけるということだけでなく、対象を選んだり、対象の魅力に惹かれたり、偶然何かに巡り会うこともあったりします。
例えば、「Tide」(2008)の場合、私は大学院を修了してから、香港から海を挟んだ向かい側にある珠海で仕事をしていたのですが、浜辺に打ち捨てられたぼろぼろの小屋をたくさん見つけました。それらはかつて辺境警備のために使われていたもので、1997年の香港返還以降、必要性がなくなって置き去りにされていました。そこで、私はそのうちのひとつを修繕して、一日、パフォーマンスをしました。海水に浸りながら、私はその場所で起きただろうあらゆる過去の出来事に思いを巡らせました。


Above: Still from Tide (2008), single-channel video, 13 min 45 sec. Below: Still from South Stone (2010-11), single-channel HDV, 25 min 33 sec.

ART iT あなたの作品に繋がる要素として、ダンスあるいはコレオグラフィー、または儀式的な動きがあるのではないかと思ったのですが、そうしたものを意識的に取り入れようとしていますか。「1234」(2007-08)に出てくる集団で行動する姿や、「地熱収集」の四つん這いで動く人々、「After Reality」(2013)で歩きまわる人々の動き。こういった動きにダンス的あるいは儀式的なものを感じました。

ZT 身のまわりで起きていることを撮影しているので、私はただ無意識のうちに出来事に反応しているだけです。ある状況の中に自分の身体をメディウムとして置いているような。だから、ダンスを自分の作品の要素のひとつとして考えたことはありません。例えば、「地熱収集」の場合、男たちが動物の歩き方を練習していて、私は彼らを見かけたときに本当は誰かに撮影を任せて、自分もそこに加わりたかったのですが、自分一人しかいなかったので自分でカメラを回さなければなりませんでした。パリで撮影した「After Reality」には、多少演技しているものもありますね。もちろん映像の中の行為は、作品を読み解くための手掛かりになります。私が住んでいる広州は熱帯気候なので、人々は薄手の服や短パンといった服装で歩いていますが、私がパリに着いたとき、外は雪が降っていて、とても寒くて。そこでちょっとした悪戯心から、雪降るパリの街を寒さなんて気にしないふりをしながら歩こうと思ったんです。私たちの行為はある意味で天気に対する抵抗のかたちで、それによって映像には夏も冬もなくなった風土、季節というものが失われた時空間が生まれました。


Above: Still from Collector (2012), single-channel HDV, 20 min 3 sec. Below: Still from After Reality (2013), single-channel HDV, 13 min 37 sec.

ART iT とはいえ、私はダンスと場所、ダンスと環境との間に密接な関係があるのではないかと考えています。一般的な動きであれば、私たちが周囲の空間を意識する必要はありませんが、能楽を例にあげれば、ダンスには空間を計測するようなところがあります。

ZT 空間を計測するというのは私の場合も同じですね。以前はパフォーマンスや行為を通じて空間を測るというアイディアを発表していましたが、映像に対する考え方が深まっていくのとともに、最近ではそうした要素は減りつつあります。ビデオで場所や時間−空間の断片を直接切り取って、それらをありのままに見せるというように。しかし、時間を積み上げていくことで、いったいどんなものが空間的に生まれてくるのか、まったくわかりません。すべて集まったときにそれがどんなものになるのかわからないまま撮影を続けているのです。わかりやすい物語がある映画のようなものにはしたくありません。撮影のときに感じたものを大切にしていて、編集するときにもその感覚を忘れずに探り当てたいと思っているのです。撮り集めた映像の断片を再構成していく。音との関係もありますが、より抽象的なものになっていくでしょう。映画は好きなんですけど、私が厳密な意味での劇映画をつくることはありえないし、映画監督になることもありえません。
最近では、あらゆる実験を勧める「反電影(反映画)」のムーブメントがインターネットで生まれてきています。映画の場合、物語ははじめから終わりへと展開していきますが、「反電影」ではさまざまな分岐点があったり、すべてがごちゃまぜになったりします。そうすることで、撮影時の直接的な感情を蘇らせたり、どうやって可能性を押し拡げたり、多様な領域にわたるものを制作していくかということを考えています。

ART iT それでは、あなた自身とカメラの関係について教えてもらえますか。

ZT 30年前は私のような方法で制作することはできなかったと思います。昔はカメラも大きくて、専門的な知識がなければ扱うこともできず、撮影という行為もどこか儀式めいていました。誰が撮影しているのかも一目瞭然でしたし。ジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』なんて映画もありますね。しかし、今では誰もが自分の携帯のカメラで撮影できるようになり、人々は知らぬ間に被写体にされています。このように意識がまったく変わってしまいました。カメラはまるで身体の一部、手の延長になり、身体から切り離せません。カメラは身体の一部で、身体もカメラという装置の一部なのです。
このような技術面の変化は、確実に映画や映像に強い影響をもたらしています。出来事が起こったとき、かつてであればほとんどの人はただその出来事を目撃することしかできませんでした。しかし、今では「目撃する」だけでなく「撮影する」こともできる。カメラが身体の一部になるという変化は、ほとんど無意識のうちに起こりました。そして、それは撮影に限ったことではありません。何かを撮影したらすぐにネットにあげて、その映像が拡散していく。ユビキタス。いまや、誰もがいつでもどこでもネットワークにアクセスできるのです。このようにあらゆる情報が溢れている時代には、切り取られた映像の一部、そして、断片的な映像でさえ、それ自体のリアリティを持ちます。私はそうした小さな部分を集めていき、劇映画とは異なる方法で何かがつくれるのではないかと考えているのです。


Above: Still from Blue and Red (2014). Below: Installation view of Blue and Red at the 8th Yebisu International Festival for Art & Alternative Visions. Photo Kenichiro Oshima, courtesy the Tokyo Photographic Art Museum.

ART iT 『青と赤』を観ているとき、中国哲学の「無為を為す」という概念との関係について考えていました。特にバンコクの抗議運動の映像、そこで人々が寝転がったり、眠っていたりするのを観て、抵抗としての「無為」、つまり、無抵抗が行為よりも有効かもしれないと考えたのです。

ZT 興味深い話ですね。「無為」は言葉にしてしまった瞬間に、もはや「無為」ではなくなってしまいますから。ある場所を占拠する抵抗のかたちは、ウォール街占拠運動のような動きとともに広く知られるようになってきました。ですが、私にはそこが「無為」と関係しているのかわかりません。あなたがおっしゃったバンコクの例は面白いですね。なぜなら、何万人もの人々が何もせずただ寝転がっていたわけですから。寝転んでいた人たちはとても動物的で、それぞれがそれぞれのやり方で動いていて、彼らに光が当たったとき、私には彼らの要求が彼らの身体から立ち上るのを目にしました。もちろん、彼らは起き上がって、シュプレヒコールをあげたりしていましたが、彼らの眠りから生じていた要求そのものが抵抗の表現なのではないかと思いました。この意識と無意識のズレがとても面白いと感じました。
あなたの質問から思い付いたことですが、アジアの思想にはとても興味深いところがあります。例えば昔の中国の政治的なものの見方として、危機が発生したとき、士大夫たちは山に入ったり、隠棲したりして世間から離れるという態度で抵抗を表現しました。バンコクの抗議運動の映像の中の眠る人々のイメージにそのような態度を見ることができるのではないでしょうか。眠りの無意識の中で、隠居や隠遁といった文人の抵抗表現が見出されたかのようでした。ここから、「眠り」の方が「占拠」よりも興味深く、核心を突いた政治行動の形式なのではないかと感じたのです。実際、広場で何万人もの人々が眠っていたらちょっと不気味ですよね。これは現実世界の中で完全に無意識になることや、古い肉体から離脱する代わりに現代の運命により適している隠居や隠遁といった形式として意識というものから逃避することに似ています。今や個人識別システムの普及やインターネットを通じて、他人とつながり、管理されることが気軽になってしまったので、世界から自分自身を切り離す唯一の方法は眠ることなのです。そうすることでようやく、本来の姿を見せることができるのではないでしょうか。

(協力:恵比寿映像祭)

ジョウ・タオ[周滔]|Zhou Tao
1976年中国・湖南省長沙生まれ。現在は広州を拠点に活動している。2006年に広州美術学院で修士号を取得。ドローイングやテキスト、写真など多岐にわたる表現方法の中でも、自分自身のささやかなパフォーマンスや、日常生活を構成する行為や要素を繊細かつユーモラスにとらえた映像作品で広く知られる。2015年に第61回オーバーハウゼン国際短編映画祭で州知事賞、2013年にはハン・ネフケンス財団BACCアジア・現代美術賞を受賞するなど国際的にも高い評価を受ける。近年はバンコク芸術文化センター[BACC](2014)で個展、第10回上海ビエンナーレ(2014)、ニューヨーク近代美術館の『New Directors / New Films 2015』などで作品を発表。昨年は第11回光州ビエンナーレに参加。第8回恵比寿映像祭では、展示部門で「青と赤」(2014)、と上映部門の80年代生まれの中国のアーティストの映像作品で組まれたプログラム「花園、林、城市:現代中国からのヴィデオアート」で「Collector」(2012)を発表。また、ニューヨークのグッゲンハイム美術館の企画展『Tales of Our Time』にも出品している。

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