山口勝弘 時空を回遊する想像的行為


「ラス・メニーナス No.1」 (1974)東京都美術館での展示風景 

ART iT 今回のART iTではテクノロジー特集を組んでいます。山口さんの文章や著作の中のテーマのひとつはアートとテクノロジーだと思いますが、テクノロジーというものが機械からデジタル化されていく現在から見たときの当時のアートとテクノロジーの関係に対しての考え方は変化しているのでしょうか。

山口勝弘(以下KY) 当初からふたつのことについて考えていました。デジタル化についてと、ロボットについてです。僕は実験工房が終わってからビデオひろばやアール・ジュニなどいろいろなグループでアートとテクノロジー、ビデオも含めて、ロボット研究もしていました。イマジナリウムについては、『山口勝弘 360°』(六耀社、1981年)を読んでもらうとよくわかると思います。

*別ページに『山口勝弘 360°』よりテキスト転載
山口勝弘 〈イマジナリウム〉の実験(1977)
山口勝弘 〈イマジナリウム〉(1981)

ART iT イマジナリウムについて、時とともにアートとテクノロジーに対する考えが変わってきているのでしょうか。

KY どんどん変わっていますね。僕はこの「イマジナリウム」という考え方、つまり映像によって作られる、鑑賞者との理想的なコミュニケーションの場を、当初から主張していましたので、例えば1990年、東京都写真美術館が開館する際に、写真だけではなく、「イマジナリウム」という名前で映像全般を扱う部門を作るように提言しました。映像の時代は絶対くると思っていましたので。 実際、それで映像部門が開設されたわけです。(注1)

ART iT イマジナリウムの話でいえば、美術手帖の1981年5月号での村上陽一郎氏との対談(注2)で「ものそのものを残す必要はあるか」と問うています。それはイマジナリウムがある種のコミュニケーションが可能な場所を作るという考え方に基づいておっしゃっていたと思いますが、結果として実験工房のオートスライドが残っていないように、ものは結局残っていません。こうした状況を最初から意図していたかどうかはわかりませんが、テクノロジーの発展により、使用しなくなったテクノロジーが出てきて、結果としてものが残らなかった作品もあると思います。これはイマジナリウムがある種達成されたと考えてもよろしいのでしょうか。

KY そうしたことは僕が実験工房の頃にはまだ考えていませんでした。
「実験工房」つまりエクスペリメンタル・ワークショップという瀧口修造さんが作った言葉があり、これはすなわちヴァーチャル工房なんですよ。実際に工房がないのに実験する工房があるかのごとく、名前が付いたのです。このことについては今度行われる実験工房の展覧会で自分の考え方を明らかにしようと思っています。おそらくそれは実験工房の一番大事な点を明らかにすることだと思っています。「エクスペリメンタル・ワークショップ」という瀧口さんの命名がよかったのでしょう。
その後、1960年代にニューヨークにジョン・ケージとかラウシェンバーグ、などアーティストだけでなく、トリシャ・ブラウンといったダンサーも関わって、Experiments in Art & Technology (E.A.T) ができ、アートとテクノロジー、そしてパフォーマンスも含んだ実験活動をしましたが、実験工房はE.A.Tを先取りしていたと思います。

『銀輪』(1955)35mmフィルムをDVDに転換 ©徳間書店

ART iT 逆に当時は映像で記録を撮る手段がなかったために、E.A.Tが、結果として残ってしまった。実験工房の時代にはテクノロジーが追いつかなかったので、記録が残らなかった。

KY 写真ぐらいは残っていて、映像は『銀輪』(1955)などがいくつか残っているだけです。
僕は今でもイマジナリウムを実現する新作を考えています。これは観客も巻き込む作品です。そのアイディアは1974年に構想した「焔と水の噴水計画」ですが、これまで実現するチャンスがありませんでした。従って今度こそ制作しようと考えています。さらに、ビデオカメラと上映装置が含まれた、水のパフォーマンスを行おうと思っているのですが、そこに観客も全部入ってきます。これをいっぺん行いたいと思っています。
実験工房については、2年後に美術館で展覧会が計画されています。当時はビデオのような映像記録を残す方法がなく、従ってオートスライドは残っていません。辛うじて『銀輪』と僕の作品はいくつか残っています。それ以外にもパフォーマンスやコンサートも記録しませんでした。楽譜があるので、後に再演した時の音源は残っていますが、映像は残っていません。当時は実験工房のメンバーに園田高弘というピアニストがいて、作曲と演奏の両方が出来る人でした。残念なことに多くのメンバーが亡くなってしまいました。今度の美術館の展覧会では実験工房についての決定版にしようと思っています。それは是非観ていただきたい。

そのときに僕も出来る限り記録を残そうと思っています。例えば、1951年に日比谷公会堂で行われた第1回目の実験工房の発表会ではピカソの「生きる悦び」という絵をもとに創作バレエとして発表しました。武満徹と鈴木博義が共同で作曲し、衣装は福島秀子さん、舞台装置は僕と北代省三さん、照明は今井直次さんでした。それを僕は神戸芸術工科大学にいたときに(1992-1999)復元しました。監修は僕と北代省三さんで監修して残しました。それから福島秀子さんが作ってくれた衣装も残っているのですが、それもなんとか復元したいです。そうして復元したものを、今度の展覧会にも発表するつもりです。



バレエ公演『生きる悦び』舞台模型(美術: 北代省三、山口勝弘、福島秀子)1951年11月16日、日比谷公会堂『実験工房 第1回発表会 ピカソ祭』より
 

ART iT 例えば、1970年の大阪万博のときに三井グループ館で行った「スペース・レビュー」などもイマジナリウムのひとつの実現として考えることができると思いますが、このときには既にイマジナリウムのような考え方は頭の中にあったのでしょうか。

KY そうですね。観客を巻き込むという考え方は随分最初からしていました。

ART iT 現在、メディアアートと呼ばれるもののうちには、とても高度なテクノロジーを駆使して制作するという美術作品もありますが、それらはどちらかと言えば、観客を巻き込むというよりは、高度な技術のデモンストレーションです。そういったアートとテクノロジーの関係についてどう思っていますか。

KY 例えば、アルス・エレクトロニカに出ている作品はみなテクノロジーのデモストレーションです。あれには僕は反対で、ああいうアートに反対する作品を現在は作っているんです。「イカロス」というDVDの作品です。

ART iT 山口さんの考えを知るにつれて、アルス・エレクトロニカのようなものと対極にあるもの、技術のデモンストレーションといった観点からではなく、常に社会と美術との関係を考えていたということがわかります。いつからアートにおけるテクノロジーはひとり歩きをはじめたのでしょうか。

KY それは僕がテクノロジーとアートについて、そういう教育をしていた結果かもしれません。だから、僕は最終的に責任をとらなければいけないと思っています。そういう作品を最近作っています。絶えず問題を投げかけるのが好きなんです。

ART iT 初期の実験工房の頃からテクノロジーが常に身体的で、身体との関係性や交換を実践していていました。

KY 私は1970年代からパフォーマンスについていろいろ考えていて、いろいろな方々と対談等をし、『パフォーマンス原論』(朝日出版社、1985年)をはじめとして、パフォーマンスについても書いています。テクノロジーは身体機能を拡張するものですから、パフォーマンスと密接な関係がある、そういう問題意識は持っていました。
メディア・アートや、パフォーマンス・アートなどということが出てきて、ネーミングが一人歩きをしてしまいました。でも僕も生きていて、こうしたアートに対する考え方は絶えず変わっています。

ART iT テクノロジーを使いながら、テクノロジーを壊していくという姿勢に感銘を受けます。今は自分のしたことを「壊す」という考えを持って制作を続けているアーティストはあまり多くありません。

KY 常に批判精神を持ち続け、問題に対してクリティカルなものを出していかなければいけません。僕は日本大学で法社会学と法哲学を学んでいたので、哲学と社会学が好きなのです。実験工房が出来る前に僕は法律科で、それからバートランド・ラッセルの『西洋哲学史』(1945年)という本が好きでずいぶん読んでいました。それともうひとつ、現象学に興味があったんです。子供の頃フッサールを読んでいたので、現象学的な考え方がいつの間にか身に付いて行きました。僕の場合、現象学、哲学、社会学の3つの中で芸術がうごめいているんです。僕が生きている限り、芸術は動いているんです。

ART iT 子供の頃、どのようにしてフッサールの本に出会ったのでしょうか。

KY たまたまです。僕の父親は法律家なのですが、なんでこんな本を読んでいるんだとびっくりしていました。僕は本屋さんが好きで古い本も新しい本も探して、ずいぶん本を読みました。

ART iT 1969年に銀座のソニー・ビルで行われた『エレクトロマジカ』展のときはソニーの協力があったと思いますが、実際に芸術活動をしている人と技術現場の人の反応はどのようなものでしたか。芸術家が持っているアイディアをおもしろがっていましたか。

KY 逆の場合もありました。技術によって芸術のアイディアが変わる場合もありました。例えば、オートスライドという技術はソニーが作り、その技術を使ってわれわれはアートを作りました。ですから、アートとテクノロジーはいつもインタラクティブな関係にあります。それはEATもそうです。

ART iT オートスライドはどういう経緯でソニーから提供してもらったのでしょうか。

KY 実験工房という名前を付けたことによって、それに興味を持ったジャーナリストが、オートスライドのようなものがあると探してきて、ソニーを紹介してくれました。

ART iT ソニー側に自分たちの技術をアーティストに積極的に提供するという意識はあったのでしょうか。

KY なかったと思います。ただし、こういう方法でやれば、技術が社会に知れ渡るということはわかったと思います。それで実験工房の後、「エレクトロマジカ」でもそうでした。

ART iT そうしたことは、既に著書でも指摘されていますが、その後の万博が商業的にならないように考えた主催側が、芸術家に多くのプロジェクトを任せたということと、企業も芸術家とともに参加することで認知してもらえるという考えが広がったということですか。

KY 僕が関係した三井グループ以外にも言えることだと思います。例えば、泉真也さんが行った東芝IHI館や中谷芙二子さんがE.A.T.とやったペプシ館での仕事もそうだと思います。



(上)大阪万博三井グループ館模型(1970)
(下)大阪万博三井グループ館内部(1970)

ART iT 万博はあまりにも大量の観客が来たことによって、批判もおこったと著書『ロボット・アヴァンギャルド』(パルコ出版、1985年)に記されています。

KY かなり、当時のジャーナリストが、大きな動員がされたことについて、太陽の塔も含めて、各パビリオンの競争になってしまったという批判的な記事が書かれました。それぞれのパビリオンの技術や芸術性についてではなく、社会現象として捉えられてしまいました。

ART iT 大阪万博でもそうですが、常にその時代の最も新しい技術を用いて作品を作ってきたと思いますが、現在も新しい作品を考える際に新しい技術を使おうと考えていますか。

KY 実際の技術の新しさは関係ありません。自分の脳の中で作り出している技術が常に新しいのです。それが大事なんです。
今作っているDVD作品「イカロス」は現在のヴァーチャルアートを批判するためのもので、絵を描いたものを使っています。
僕はいつもクリティカルなものを、自分自身に対してもクリティカルでありたいと思っています。

ART iT インターネット上の動画投稿サイト、例えばユーチューブやニコニコ動画といったものは、どこか「イマジナリウム」のコンセプトに関係あり、そういう意味では「イマジナリウム」は成功したと考えることもできるのではないでしょうか。

KY 関係ありますね。「イマジナリウム」を考えている頃にそうしたことはあり得る可能性として想定していました。だから困ってますね。でも、現在でも「イマジナリウム」は僕の中ではまだ成功してません。まださらに新しいことを考えています。

ART iT 芸術は社会を常に写し取る。そのためのメディアは常に変わっていくと書かれていましたが、テクノロジーの進化に対して、山口さんはメディアを少しずつ変えて社会を写し取っていると思います。そうした、常に変化する社会において、常に考え方が新しくなっている山口さんが、「イマジナリウム」を実現する場合、環境装置である作品は、時間の経過と共に違う文脈の中で読み取られるということになります。それについてはどのように考えていますか。




(上)「山口勝弘 ドローイング展」 青画廊(6月3日-14日)での制作風景 (1977) 
(下)「コピーグラフィー」(1977)

KY 問題はその読み取る力を持っている人が大事です。その人がどういうふうにクリティカルに批判的に見ているかどうか、問題はそこなんです。インターネット、テレビ電話、すべてそうなんです。どれだけクリティカルに捉えているかどうかが問題です。

ART iT そのクリティカル精神というのは鍛えていくのは難しいのではないでしょうか。鑑賞者を巻き込むというときに、鑑賞者もそのクリティカルポイントをシェアできるような環境を作り出すことは非常に難しいのではないでしょうか。

KY 問題は時期と、それをどういうときにぶつけるか、それによって違ってきます。僕はやはりタイミングよく見ていること、作品を作る場合、発表する場合も世界的にそれがどういうふうに毒になるか、快楽になるか、どういうふうになるかタイミングが大事なんです。どちらにもなりうるから、それをよく考えるのが大事だと思います。それが今日の結論です。
僕の友だち、筑波の教え子で岩井俊雄さんというメディアアーティストがいます。彼はクラゲの毒にやられたことがあります。最初は原因がわからなかったんですけど、それはクラゲに刺されて、その毒でしたね。

「ヴィトリーヌ No.1 」(1952)ガラス・油絵具、20.8×17.8cm、画像提供:横田茂ギャラリー

ART iT 現在興味を持っていることはどのようなことでしょうか。

KY 僕はあるときから突然、太古に興味を持ち始めました。新しいものではなく、太古を知りたくて、エジプト、ギリシア、この2つの当時の文明を現在でも調べています。その研究のため、今度ギリシアに行こうと思っています。
もうひとつ興味があるのは平面的な表現と立体的な表現がいつから出てきたのかを調べています。当時はイラストの代わりに壁に絵を描きましたよね。写真も存在しませんでした。従って、クレオパトラも全部レリーフで残っている。シーザーもそうです。だから、そういうものがいつから立体になったか、また、ラスコーの古い洞窟の中に動物が立体になっている。それに僕は興味があり、もう一度美術史を調べてみようと思っています。まだまだ僕の中では美術史が完結していません。美術史はいつも開かれています。また、カメラで日本の古い障壁画や屏風絵を撮影しようとも思っています。

ART iT それも2次元と3次元の調査の一環でしょうか。

KY はい。それが平面なのか、平面を立体にしてみようと思っています。屏風絵をやりたいと思っています。日本の美術史の中でやりたいことが2つあります。以前、瀧口修造さんは北斎を映画にしました。そのフィルムは行方不明になっているのですが、それも今度の美術館での展示に間に合うように探してもらっています。

ART iT 実験工房の展覧会、非常に楽しみです

KY そこでは最後のヴァージョンを作りたいと思っています。現在、作曲家の湯浅譲二さんと照明デザイナーの今井直次さんと僕の3人がまだ生きています。駒井哲郎さんのオートスライドの作品も出てきましたので、復元しました。筑波大学にいたときに北代省三さんと福島さんと僕自身のオートスライド作品も復元して、同時に映像化しました。その作品で僕はナレーションを自分で作ったのですが、割とハードボイルド風にいれました。まず、文章にして記録的な語りにしました。そういうふうに遊んでみました。それが『試験飛行家W.S.氏の眼の冒険』(1953)です。



(2点共)「試験飛行家W.S.氏の眼の冒険」(1953)よりスチル写真 画像提供:タカ・イシイギャラリー

ART iT その作品は先日東京都現代美術館のコレクション展や、『光州ビエンナーレ2010』にも出品されていました。それを見ると、当時の日本の前衛映画、実験映像との関係性があるように思いましたが、影響は受けたのでしょうか。

KY 影響は受けていません。僕はヘミングウェイが好きで、彼を翻訳して本に載せたのは僕が最初です。彼の翻訳本が出る前に短編をすべて翻訳したことがあるんです。それくらい本が好きなので、フィルムではなく、すべて本から影響を受けました。ガートルード・スタインという詩人も好きでした。それはシュルレアリスムで瀧口修造さんに関係があります。とにかくなんでも僕は本から知識を得て、瀧口さんが読む本を僕の方が先に読んでいることもありました。瀧口修造の先生は西脇順三郎ですが、その西脇先生に学ぶ前に僕は自分で西脇先生の本を日本大学の図書館で見つけて、すごくおもしろかった。なぜおもしろかったかと言うと、詩人でありながら非常におもしろい文章を書く人なんです。『古代文学序説』(1958, 好学社)という立派な本を読んで、こんな本を書く人が日本にいるのかと思いました。

ART iT そういうお話を聞くと、情報の流れ方は本当に変わったと思います。

KY 本からではなく映像からきてしまいますよね。それは怖いですよね。

ART iT 実験工房を設立した際、山口さんが22歳だったように若いメンバーも多かったですよね。そういう意味で、若さは実験的なことを試みる重要な要素でしたか。戦争経験も上の世代に比べると少なかったと思います。

KY みんな20歳か、22歳くらいの人が中心でした。一番年上は北代省三さんでした。戦争の経験はあまりありませんね。僕はアメリカの最初の東京空襲で飛んできた飛行機を双眼鏡で見て、僕は飛行機を研究していたので、大本営の発表が間違っているということに気付いていました。

ART iT そのお話は山口さんが現象学を好きだったこととすごく近いと思いますが、どちらが先だったのでしょうか。

KY もしかしたら、僕は飛行機の設計をやっていたかもしれません。飛行機だけでなく軍艦も研究していました。当時の世界の飛行機の機種や軍艦の名前を全部頭の中に入れていました。今でも覚えていますよ。戦艦が一番中心になる船で、戦艦の次に日本が一番力を入れたのが巡洋艦、大砲がたくさん乗っていました。その次が軽巡洋艦。日本の船のネーミングがすごくおもしろかったです。例えば、山の名前がついた「愛宕(あたご)」とか、軽巡洋艦は川の名前がついていて「最上(もがみ)」。今でも自衛隊の船の名前はそういう歴史を引いて、けっこういい名前をつけています。金星探査機の「あかつき」とか、ああいう名前のつけ方はしゃれていますね。

ART iT 現象学とはずっとそのまま長い付き合いなんですね。

KY 今日はそんなところでしょうか。まだまだおもしろい話がありますよ。
僕は夢には二種類あると思っています。ひとつは希望、こうなりたいという希望の夢と、もうひとつは現実の夢とふたつの夢があると思います。よく睡眠している時は希望の夢は見ないんです。

ART iT それは先程おっしゃっていた毒との話に関係しますね。山口さんはどちらのタイプでしょうか。

KY フロイトの夢判断は僕にとっては間違っているんじゃないかって思いますね。睡眠をよくとる人と睡眠をとれない人の2種類の人がいますよ。
僕の場合は自分で決めるんです。今日はよく寝ようと決めて、希望の夢を排除してしまいます。昔はずいぶんたくさん希望の夢を見ました。飛行機が欲しくて、模型を作ったりして、僕の家の庭に実際の飛行機が飛んできて、墜落して、庭の木にひっかかって、僕のものになる、という夢を見ました。これは希望の夢です。ところが僕はもうひとつ悪い夢を見ました。子供の頃から病気の夢を見ます。その夢を見ると病気になる。病気になるからその夢を見るのかどちらかわからない。そんな経験があるんです。ですから、夢というのは複雑なものです。

ART iT 私は実際に夢日記を書いています。

KY 夢日記は瀧口さんも書いていました。今でも夢日記を書いている人がいるんですね。私には夢日記を書いているんじゃないかという人はだいたいわかります。
だんだん冗談みたいになってきたので今日はこの辺で終わりにしましょう。


(注1)1990年10月18日-10月23日まで東京都写真美術館で『映像工夫館シミュレーション イマジナリュウムI』が開催された。そのチラシには、「東京都写真美術館は総合開館のさいに「映像」一般について取り扱うスペース「映像工夫館」を併設します」、「イマジナリュウムとは造形作家山口勝弘による造語でイメージ(映像)の未来庭園、一種の理想郷を意味しています」と記載されている

(注2)「展覧会 山口勝弘展 フィルターエイジの文脈 対談山口勝弘、村上陽一郎」
美術手帖、1981年5月号、33巻481号P156-179

(注3)『銀輪』(1955)監督:松本俊夫、台本・演出・美術: 北代省三、山口勝弘、松本俊夫 音楽: 武満徹
制作: 新理研映画社、特殊撮影:円谷プロ 自転車産業振興協会による日本製自転車の海外輸出プロモーション映画として制作された。

今回のインタビューに際し、実験工房および山口勝弘氏の作品の研究者である、クリストフ・シャルル氏に大変お世話になりました。深謝いたします。

<リンク>

クリストフ・シャルル『現代日本の映像芸術 : ビデオ・アートを中心に』 (第6章 山口勝弘)

クリストフ・シャルル 「山口勝弘のパフォーマンス」 
(『戦後の日本における芸術とテクノロジー』 平成16-18年度化学研究費補助金(基盤研究(B))研究成果報告書, 課題番号 16320025 より) 2007年

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