ガブリエル・オロスコ インタビュー(2)

不可避の様式
インタビュー / アンドリュー・マークル
Ⅰ.


Yielding Stone (1992), Plasticine, 35.6 x 43.2 x 43.2 cm. Courtesy Gabriel Orozco and Marian Goodman Gallery.

Ⅱ.

ART iT ここまで、写真作品や、生活における身体の痕跡がどのように複数のコノテーション(潜在的意味)を持ちうるかということについて話してきました。これに関連しますが、あなたの作品は形跡がいかに私たちを騙すかについても明らかにしています。「My Hands are My Heart」(1991)の粘土の塊は、ある行為の客観的な痕跡であることと解釈的表現であることの間で揺れ動いています。見方によって、その塊は心臓の形ばかりでなく、拳の形や古代の化石を連想しますが、それにより、観客の意識をもともとの行為から遠ざける仕掛けがあります。こうしたことは、この作品だけでなく、近年の「押す」という行為を通じて有機的な形をつくりだしたセラミックの作品でも意識的に取り組んでますよね。

GO 身体は私にとって昔から重要なものでした。身体は行為の中心として、現代と風景のどちらにおいても、さまざまな物体の接続と相互作用のプロセスを始動させるものです。痕跡や記憶やヴィジョン、手やそれ以外の身体部位の物性を通じて、また、時空間に関する知的ゲームを通じて、身体はなんらかの形で常に存在しています。ゲームの可能性と行為や身ぶりの関連性が風景の姿を変え、そして、都市、宇宙、あなた自身の姿をも変えていきます。制度の全体像や都市、都会のインフラ、歴史的記憶との関係、また、神話や抽象的な思考との関係の中で、絶えず続く変形が人間やその肉体に現れてくるのです。このように展開する有機性は、私たちの行為に絶えず現れていますが、私たちはそれを考えたり、それに気づいたりする必要があります。だからこそ、私の作品には身体が存在するのです。たとえ、私が一般的にパフォーマンス・アートが嫌いで、自分を作品内に役者や被写体として登場させたくないと考えていたとしても。ただし、こうして活動し、思考する身体というものは、誰もが持ちうるわけで、私に限った問題でも逸話のようなものでもありません。メキシコ人だとか、男性だとか、若者だとか、そういったものにも限られません。こういうことについて活動し、思考できるあらゆる人にあてはまる問題なのです。

ART iT 批評家のベンジャミン・ブクローは、あなたの作品を長年にわたって言及する中で、何度かそのアプローチを変えているのではないかと思うのですが、最近のテキストの中に、メキシコ性(Mexicanismo)という概念をモダニズムに対置し、両者の間にあなたを位置づけたものがあります。国民国家主義を批評的な方法で扱うのは重要なことですが、彼の構成は「純粋な」欧米の文脈でしか充分に表せないような一枚岩のモダニズムを巧妙に補強しているような気がしました。このような「メキシコ性」という解釈についてどう思われますか。

GO もはや「メキシコ性」については何も感じません。というのも、それは作家としての私の経歴から完全に消去されたものですので。それがヨーロッパやアメリカ合衆国の人々に受け入れられる方法であろうとなかろうと、私はメキシコ美術やメキシコ文化のステレオタイプな要素や、民俗学的な一地方としてのメキシコの内在化したエキゾチシズムに近寄らないようにしてきました。私は訪れた場所や興味深い考え方にまつわるものを通じて異なる文化に関与することで制作を試みてきました。例えば、日本の禅、インドの細密画や彫刻、マリの陶器、フランス文化やドイツ文化のように。そうでなければ、マニ教的な世界の見方や、ナショナル/インターナショナル、左翼/右翼といった冷戦下の思考に陥ってしまうでしょう。私はこうした言葉で考えたりしないので、これらに関する葛藤もありません。
もちろん自分自身の文化の中で興味深いものもあります。おそらくそれは作品から見てとれるのではないでしょうか。とはいえ、それは日本の人やインドの人が私の作品の中に、それぞれ自分の国と関連づけられる作品があるのとなんら違いはありません。


Left: My Hands are My Heart (Mis manos son mi corazon) (1991), Cibachrome print, two parts, 66.7 x 54.5 cm. Right: My Hands are My Heart (Mis manos son mi corazon) (1991), terracotta, 15.2 x 10.2 x 15.2 cm, installation view in “Gabriel Orozco-Inner Cycles” at the Museum of Contemporary Art Tokyo, 2015. Photo Eiji Ina, courtesy the Museum of Contemporary Art Tokyo.

ART iT その一方で、あなたはモダニズムの構造を解体しようと試みていますか。

GO そうは思いませんね。むしろ、私はモダニズムをその揺籃期まで戻そうとしています。自分がこの世界で子どものように遊んでいるのだと信じたいのです。おそらくそれは、私が幸せな幼少期を過ごし、学校や友人、自分が育ったメキシコに対して、いい思い出があるからでしょう。いずれにせよ、どんなときでも物事の始まりを意識しておくことは重要で、ある意味それは子どもの頃、つまり、新しいものに心を開き、物事に驚く状態でいるということです。初期モダニズムはそうした子どものような精神を持っていたと思うのです。それはユートピア的でしたが、根源的な必要に基づいたものでした。そこにはユートピアに対するほとんどうぶな、でも、誠実で真摯なものがありました。もちろん、モダニズムには理解できなかったり、認識できなかった人生の要素もたくさんあったし、そのようなユートピア的な考え方にともない、数多くの災難がもたらされましたが。
それでも、私はモダニティに魅力を感じています。それは壊すべきものではなく、幾何学的な思考法やこの地球全体を単一なものとして見る政治的な視点、それ自体が数えきれないほどの出来事である都市や言語を組織する方法として理解し、再利用すべきものだと思っています。たとえ、国民性のようなものであっても、それはふたつのものの組み合わせです。国民性に反対しているわけでもないし、自分がメキシコ人ではないと主張しているわけでもありません。私はメキシコ市民です。でも、地球市民でもあります。さまざまな文化を旅したり、制作したりしています。私はただ単純に自分の上の世代とは異なる生き方をしているだけです。

ART iT キャリアの早い段階にメキシコシティで、アブラハム・クルズヴィレガスやガブリエル・クリ、ダミアン・オルテガたちと「フライデー・ワークショップ」を開いていますね。これはメキシコとインターナショナルという両方の文脈において、アートへの新しいアプローチを意識していたのでしょうか。もしくは、それはただ、コミュニティの差し当たりの必要性に応じたものだったのでしょうか。

GO 両方ですね。私は先のことまで事前に計画するタイプの人間ではありませんが、一方で、アートの世界の中で育ち、アートのことも、その歴史や理論についても知っています。ですので、私にはアートの学術的な側面、哲学的な側面、政治的な側面といったあらゆる側面に対する十分な心構えがありました。私はほかのアーティストたちより5歳から7歳年上で、当時、私の作品はメキシコの動向やマーケットで流通していたものからかけ離れたものでした。だからこそ、彼らは私のところで異なる方法での考え方を学ぼうとしていたのだと思います。彼らにはただ私をまねるのではなく、自分自身で考えるように促しました。私たちはこのワークショップをひとつのアーティスト・グループだとは考えておらず、あれは学びのプロセスであって、結果として良き友人になったのでひとつのコミュニティとなったのです。
その後、私はニューヨークに移り、国際的なアーティストたちと活動することで考え方が変化していきました。メキシコやニューヨーク、ヨーロッパのアーティストとともに、あらゆるものが非常に面白い形でひとつに、さまざまなアプローチが混ざり合ったのです。私が理解しているのは、自分の作品がグローバルな環境における振る舞い、日常的な道具の扱い方に関するアイディアを他者に与える手助けになっていて、それは日本でもインドでもメキシコでもそれぞれのやり方で応用できるということです。自分の作品がそのように使われるのを知るのは、やりがいを感じますね。


Above: Clenched Fist (2005), terracotta with black carbon, 7 x 38.1 x 9cm. Below: Four and two fingers (2002), terracotta, installation view (foreground) at Galerie Chantal Crousel, Paris, 2002. Courtesy Gabriel Orozco and Galerie Chantal Crousel, Paris.

ART iT ここで話を身体のコノテーションに戻しますが、「Yielding Stone」(1992)の場合、大きな粘土の球を路上で転がすことで、その表面にごみやらなにやらが付着して、まとまっていきます。このフレーズを使うのは月並みかもしれませんが、当時、あなたは「抑圧されたものの回帰」としてこの作品を捉えていましたか。つまり、触れてはならないものやタブー視されたものに対して、身体を本能的に接触させるというように。

GO 「抑圧されたものの回帰」とはどういう意味で使っていますか。なにか本格的なラカン理論の用語のように聞こえますが。

ART iT おっしゃる通りです。おそらく、次のように言えるのではないでしょうか。抑圧とはトイレの中ですべてを流してしまうので何も見る必要がないこと、「抑圧されたものの回帰」とはトイレが詰まり、すべてが逆流してきたことである、と。

GO 面白い喩えですね。でも、アートを解剖するような精神分析を一度も好きになったことがありません。私にとって、アートはもっと哲学的で、世界の絶え間ない変化とか私たちの身体や認識に関係しているものでした。彫刻はその歴史の大半において、永久不変で公共のモニュメントとして静止しているべきだという考え方を動機としていました。一方、粘土という素材は媒介以外の存在として想像しづらく、常に中間的なもの、そういうものとしてあって、最終的なオブジェにはなりえません。
私はこの考え方に着目し、そうした弱さ(vulnerability)を前提とすることに決めたのです。この前提は私の作品において重要なものです。弱さに身を置き、それを受け入れることで自分のまわりの世界をより良く理解できるようになることが重要なのです。そうすることで、あなたは身に起きたことを受け入れる者や容器となる。私はこのような肯定的な意味で弱さを受け入れたかったのです。
「Yielding Stone」という作品では、私の体重と同じ重さの粘土を路上やそこに落ちているものに晒しています。ですが、粘土の持つ弱さ、つまり、その柔軟性や鍛造性のおかげで、それは絶えず変化するのである意味では壊れにくいのです。当時、私はヘラクレイトスを読んでいて、そこには「同じ川に2度入ることはできない」とあり、時間や無限、物体の永久運動について思いを巡らせていました。また、「遊星」のことも考えていて、それをこの作品のタイトルに使おうとしていました。古代の天文学では、動かない星と動く遊星があると考えられていましたが、後にようやく、遊星は惑星として確認されました。この考えは私にとって大事なことです。一方、この作品は石でもある。というか、まがい物の石で、現実の石ではないけど石みたいに見えます。だから、時空間や永久運動という点では、現実の世界や現実という現象にも繋がっています。この意味で、私と同じ重さで私が転がしているという点を除けば、この作品には逸話的なものはありません。この作品は表象に関するものではなく、複数の要素に晒された物体の物質性に関するものですね。


Installation view of “Gabriel Orozco-Inner Cycles” at the Museum of Contemporary Art Tokyo, 2015, with stone carvings in foreground. Photo ART iT.

ART iT 仮にこの作品の形が立方体だとしても同じことですか。

GO 究極的には同じだといえるでしょう。私にとって、丸さや円形という形の方が、時間の中の持続的な動きをより表しているというだけです。絶え間なく続く動きを通じて、重力に抗する摩擦が生じたり、弱まったりしながら、あらゆるものが球体や円形になる傾向があります。東京都現代美術館で展示している5000年前の石を使った彫刻のコレクションは、何度も転がり、丸くなって、既に自然がそれをつくりだしているわけです。たとえもともとは四角い形でも、回転しはじめれば、なんでも丸みを帯びていきます。絶え間なく続く動きや摩擦、衝突によって、すべての惑星は丸くなったのかもしれません。だから、立方体は物質の一時的な状態にすぎません。

ガブリエル・オロスコ インタビュー(3)

ガブリエル・オロスコ|Gabriel Orozco
1962年ハラパ(メキシコ)生まれ。ありふれた物や何気ない風景の中にひそむ詩的な要素を現出させる実践で知られる1990年代以降の現代美術を代表するアーティストのひとり。都市空間を移動しながら彫刻的空間を収めた写真作品や、立体、インスタレーション、絵画など思惟を促す作品を制作している。1993年の第45回ヴェネツィア・ビエンナーレ・アペルトやニューヨーク近代美術館の「Projects」で作品を発表すると、その後もパリ市立近代美術館、サーペンタイン・ギャラリー、ニューヨーク近代美術館、バーゼル市立美術館、ポンピドゥー・センター、テート・モダンなどで個展を開催。ヴェネツィア・ビエンナーレやドクメンタなど数多くの国際展に参加している。日本国内では2001年に横浜トリエンナーレ2001に参加。
日本初個展『ガブリエル・オロスコ展 —内なる複数のサイクル』が東京都現代美術館で2015年5月10日まで開催されている。

ガブリエル・オロスコ展 —内なる複数のサイクル
2015年1月24日(土)-5月10日(日)
東京都現代美術館
http://www.mot-art-museum.jp/

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