リアム・ギリック インタビュー(2)

とある時空の、とある日に
インタビュー / アンドリュー・マークル
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Exhibition view, “A short text on the possibility of creating an economy of equivalence,” Palais de Tokyo, Paris, 2005. Photo © Daniel Moulinet, courtesy Air de Paris, Paris.

II.

ART iT 今年(2013年)は、ニューヨークのコロンビア大学で「柔らかな革命の時代の創造的破壊」と題するバンプトン・レクチャー*1を務めていますね。一連の講義は「1820年 エラスムスと動乱」、「1948年 バラス・スキナーと反革命」、「1963年 ハーマン・カーンと投企」、「1974年 ボルボとミザンセーヌ[Mise-en-scène]」という4つの西暦とテーマの組み合わせに着目したものでしたが、それらはあなたの思考の軌跡を要約したものだと考えられますか。

LG そうですね。あの講義は非常に唯物論的なもので、物質の歴史、生産の歴史、事物の歴史と、この20年間の私の活動全体に密接に関係する内容となりました。講義をまとめたものがコロンビア大学から刊行される予定ですが、目下のところ、原稿は講義時の倍の長さになっています。展開しすぎてあまりにも広い範囲に及んでしまいました。編集しなければいけませんが、見直しすらできず、まったく気分が乗りません。原稿に向き合い、直しを入れなければ。原稿は今もホテルにありますが、部屋にいる間はただただうろうろして、床の写真を撮っているだけです。東京で編集しようと考えていたのですが、もちろんまったく手をつけていません。さしあたり、問題となっているのは人称です。何人称を使うべきか。そうしたことを調整しなければなりません。

ART iT 過去に「時間」というものを制作のための実在する素材だと考えたことはありますか。それとも、先述した講義や小説『Erasmus is Late』のように歴史的時間として思弁的に扱うことに関心があるのでしょうか。

LG 数年前ならシンプルな答えを返せたでしょう。ただ、ここ数年で抽象的な作品とテキストとのズレが広がり、説明がつかないほどの大きさとなっています。これが注意散漫な状態で制作する慎重な判断に結びついているのかもしれませんが。ともかく、このままで制作を続けていくことに決めて、ズレも広がるままにしています。2005年に『Construcción de Uno[Construction of One]』という書籍の執筆を諦めています。これは題名通り、個の創出、また、生産にまつわる問いについて書かれたものになるはずでした。この経験が私の制作方法に変化を及ぼし、抽象性とテキストのズレは広がるままに、主題があるときもあれば、主題がないときもあり、時系列も意識せず、一貫した手法を持たずに展覧会が変化しています。基本的にはこんなところでしょうか。質問に対する答えになっていませんよね。
私が取り組んでいるのは、事物と時間との関係性。また、その関係性を眼差す視座に対する自分の考えを確認することです。もちろんそれは、ある意味で、事物指向の哲学や思弁的なリアリズム、また、アニミズムに対する新しい考え方に悩む人々が現れてきたことへの反応を試みているわけです。
アニミズムについて語り合う一群。事物、そして、あらゆるものへのその影響や事物の視線によってなにかを見る方法について考える一群。私はこういう文脈で制作活動をして、これらすべてに関係する立ち位置を見出そうとしているのです。
現代美術はさまざまな物語や方向性を持つ巨大なマトリクスだと思われていることは知っていますが、アーティストになるという決断もある種の哲学的立ち位置ではないでしょうか。あれやこれやといったものの中で、どこに立つのかを決断しなければならないときがあります。友人には明確な立ち位置をとっている人もいて、ピエール・ユイグは彼の関心事により立ち位置を決め、フィリップ・パレーノもそれとは別の立ち位置をとっています。「抽象」や事物としてのアート作品といった私を惹きつけてやまない問題を抱えているので、すぐに映画や風景へと逃れられるかわかりません。彼らには愚かだと言われるかもしれませんが、私はまだギャラリーでなにかを行なうことの可能性を信じています。ギャラリーの持つある種の雰囲気には、私もどこか馬鹿げているという印象を持っていますが、時間やそのほかの概念との関係における抽象という遺産に取り組みたいといまだに考えているのです。現象としてのアーティスト、アーティストという系譜、そして、アーティストという「視点」の問題。ある意味、TARO NASUでの個展『Vertical Disintegration[垂直非統合]』*2というタイトルはまさにこのことを示しています。垂直非統合とは、例えば航空機の生産であれば、あらゆる部品の製造をそれぞれ自立した会社に委託し、それらを組み立てて一体の航空機にするという経営概念です。今回の展示は断片の集積ではなく、ひとつの空間に結集する異なる種類の不可分の要素により成り立っています。まさに展覧会にまつわる展覧会。こんなことをすべきではないかもしれませんが、これはときに必要なことでもあるのです。


Top: Extended Regression (2013), powder-coated aluminum, 30 elements, 250 x 480 x 10 cm. Courtesy Liam Gillick and Taro Nasu, Tokyo. Bottom: Liam Gillick & Louise Lawler Exhibition view, “November 1-December 21” at Casey Kaplan, New York, with Gillick’s Övningskörning (Driving Practice Parts 1 – 30) (2004) in foreground. Photo Jean Vong, courtesy Liam Gillick and Casey Kaplan, New York.

ART iT 垂直非統合の実践、これを下請け構造とすると、戦後日本経済の主要な一部と捉えることができます。展覧会との関係において、こうしたことは意識していましたか。

LG それは考えていませんでした。ある人々にとって日本式の生産構造は謎めいていて、常に「異文化」に対する単純な誤解に繋がってしまう。私がずっと関心を持っていたのはスカンジナビアモデルと呼ばれるもので、日本の産業の仕組みにはほとんど興味がなかったけれど、日本製の構成部品や新製品のことはかなり考えてきました。

ART iT 日本の文脈を考えるとき、家族経営の工場が路地裏の倉庫で主要産業のコングロマリットのための小型部品を生産しているということは興味深く、その生産の規模がまさに非対称的だと言えます。

LG それは実に面白いですね。私の作品もそのような環境から生まれています。つまり、家族経営組織のようなもの。制作には都市やあらゆる建造物が建てられた後に残った材料を利用しています。
ほとんどの作品はドイツで制作していて、まったく同じとは言えませんが、日本の製品と同等の質です。中規模レベルのビジネスで、生産の序列の上の方に位置しており、小規模ではない。とはいえ、比較的容易に高品質のものを少数つくることが可能です。
実はCCA北九州のレジデンスが終わった2001年から、このような制作方法を始めました。それまでは常にギャラリー空間で作業していました。すべての素材を注文し、カットして、その場で組み立てる。つまり、ギャラリーが私の生産の場所となっていました。北九州から展覧会のために直接チューリッヒへと向かい、それまで通りのやり方で制作したのですが、その展示が終わったとき、「もうこのようなやり方で制作はしない。制作の仕方を変えなければ」と思ったのです。なぜそう思ったのかわかりませんが。ドイツで共同作業できる人を見つけて、それ以来、先程話したような制作方法を続けています。日本に滞在し、ギャラリー内で作品を組み立てているときに、なんだかばかばかしく、無意味だと感じました。あなたがおっしゃったようなことを見たのが原因だったのかもしれません。ひとつの地域で異なる生産の規模を目にするというのは、東京よりも北九州に顕著でした。あそこでは人形の中に人形が、その中にまた人形が入っているというマトリョーシカのように異なる産業が入れ子状になっているので。
とにかく2001年の日本滞在以降、ベルリンでの生産の潜在的な力を利用することに決めました。それはあの街全体の再建とも関係していて、ベルリンの大規模な再建過程から出てくる小さな残骸や部品を使って、やろうとしていたことを実現することができました。

ART iT 素材は文字通り建設現場から調達したものですか。

LG いいえ。ドイツのさまざまな配送所から。全部、新品のようなもので余剰品。TARO NASUの展示で壁に設置した「Extended Regression」(2013)の素材となった特殊な黒いアルミ製の直方体は、ベルリンの巨大な建物のファサード用に作られたものでしたが、最終的に使用されなかったものを私がすべて購入し、それらを制作に使用しました。ドイツの異なる規模、異なる次元のビジネスに関連しているので、それ故にさまざまな場所で素材を見つけることができます。素材が無くなることはありませんね。それらは大きなところからもう少し小さなところへと運ばれ、それを私が手にして、さらに小さなところへと持ち込んでいくわけです。


All: Liam Gillick & Lawrence Weiner “A Syntax of Dependency” at M HKA, Antwerp, 2011. Photo Bram Goots.

ART iT アントワープ現代美術館[M HKA]での展覧会『A Syntax of Dependency』(2011)*3のローレンス・ウェイナーと恊働したインスタレーションを記録した映像を見ましたが、そこには作品に使用したリノリウムのマットを製造、設置したフローリング会社のスタッフのインタビューも収録されていましたね。これもあなたの言うドイツの状況を連想させました。経済規模における可能な立ち位置という問いを提起しているのでしょうか。

LG それはわかりません。それこそ私がこれまで考えてきたことなのですが、現在、本当に混乱しています。ここに来る間に考えていたのですが、おそらく私は規模の問題に取り組むべきではないかと。たぶんそれも問題の一端でしょう。この問題は現在語られているアートから抜け落ちています。
今日、森ビル近辺を歩いてきましたが、あそこには狭い路地や小さな公園があり、高層ビル群の狭間で規模に関する急激な変化が生み出されていました。よくわからないのですが、なにかを実感したのです。そういうわけで、時間よりも物理的な事物のことを考えていますね。規模や拡張や構築、そして、時間に反して事物を生産する無数の要素のことを。
ちょうどテキサスでコンテンポラリー・オースティンの展覧会*4のために映像作品の制作をしていました。辺鄙な場所にあるその彫刻庭園に約27.5 x 7.6メートルの「Raised Laguna Discussion Platform(Job #1073)」(2013)という作品を設置してから、映像作品「Margin Time 2: The Heavenly Lagoon」(2013)を撮影しました。その映像作品では基本的に時間や生産の問題を扱っています。
主に撮影しているのは花や草木で、その後、撮影素材を4つのセクションに分けて、それぞれに異なるサウンドトラックを付けています。最初のサウンドトラックはマイクロプロセッサが生産される音で、それはかなり弱くて自然な音で、カチッカチッとかブーンとか小さな音がいろいろと聞こえてきます。二番目はローレンス・ウェイナーが29歳のときのインタビュー。『態度がかたちになるとき』のために制作しているときのもので、インタビュアーは「なにかを生み出すとはどういうことでしょうか」とか「それは頭の中ではどういう状態なのでしょうか」とか「それをある場所から別の場所へと移動させたら、変化してしまうのでしょうか」といった質問を投げ掛けています。三番目はパイロットが飛行前のシステムチェックをしている音です。小さな話し声が聞こえますが、聴き取れるのは緊急音や「ウインドシア」とか「50フィート」といったフレーズのみ。それからエンジンが動き始めます。最後はジル・ドゥルーズが領土と脱領土化について話している声。しかし、彼の声が大きく反響するため、字幕がないと、その声はまるで支配者の声のように聞こえます。一般的に言って、平均的なアメリカの鑑賞者にどう聞こえるのかというと、フランス人男性が声の大きく反響する中でなにやらしゃべっている。その人物はタバコの吸い過ぎが原因でちゃんと息継ぎできていないような。それでも私は彼の声をそれそのものとして聞いてほしいと考えていました。その音は反響を残す美しい音であると。
これらのプロジェクトについて話すとき、重要なことですが、これらがプロジェクトとして成立するという感覚が確実にあります。これまで私がやってきたことが事物を分解したり分析したりすることに繋がっているのはあるレベルにおいて明確ですが、別のレベルでは自分のアプローチを変えるということにも繋がっています。ほかの人々との恊働やアーティストを題材として扱うこと、また、アントワープ現代美術館でのローレンス・ウェイナーやニューヨークのケイシー・カプランギャラリーでのルイーズ・ローラーのような年配のアーティストとのコラボレーション。それらは準備を経た上で、今やることができるということもありますし、一度しかできないということもわかっています。現在制作中のリチャード・ハミルトンの映像作品についても同じことです。これは自分が25歳だという若い頃の精神を取り戻そうとせずに複数の考え方を取り戻していくやり方を探る方法だと思うのです。



*1 The Bampton Lectures 2013 held at Columbia University Miller Theater. 2013/02/26-3/7
*2 Vertical Disintegration at TARO NASU. 2013/11/28-12/27
*3 Liam Gillick & Lawrence Weiner, A syntax of DependencyVertical Disintegration at M HKA, Antwerp. 2011/02/03-05/29
*4 Liam Gillick at The Contemporary Austin, Texas. 2013/09/21-2014/01/05

リアム・ギリック インタビュー(3)

リアム・ギリック|Liam Gillick
1964年バッキンガムシャー州エイルズベリー(イギリス)生まれ。ニューヨーク在住。経済や労働など現代社会への考察に基づく、日常的な環境を構築する素材を用いた彫刻インスタレーションをはじめ、多様な表現手段を用いた実践で知られる。その活動は建築やグラフィックデザイン、映画などにも及び、さらには、文筆家としても数多くの文章を継続的に発表している。
2009年には第53回ヴェネツィアビエンナーレにドイツ館代表として参加。ウィーンの建築家マルガレーテ・シュッテ=リホツキーが考案した「フランクフルト・キッチン」に着想を得た空間を構成した。そのほか、第50回ヴェネツィア・ビエンナーレ企画展(2003)やドクメンタ10(1997)など数多くの国際展に参加している。また、ホワイトチャペル・ギャラリー(2002)、パレ・ド・トーキョー(2005)での個展、欧米の4つの美術館を巡る回顧展(2008-10)などを開催。2002年にはターナー賞にノミネートされた。日本国内では横浜トリエンナーレやTARO NASUにて作品を発表している。

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