モニカ・ボンヴィチーニ インタビュー (1)

抗う彫刻、抗う言語
インタビュー/アンドリュー・マークル

I.


Built for Crime (2006). Broken safety glass, light bulbs, 5 dimmer packs, LanBox, airplane cables, Approx. 120x1235cm, height from the floor approx. 150 cm. Courtesy of the Artist and Galerie Max Hetzler, Berlin

ART iT 政治的表現という考えや、如何に異なる政治的立場を理解し合えるかということに対して興味があるのですが、あなたの作品は多くの場合、フェミニストの視点を提唱するものや、近代主義的男性支配に対する批評として解釈されていますね。しかし同様に、ミニマリズムの彫刻や建築に対する正統な主張も提示しています。自分自身の作品を政治的声明であると考えていますか。

MB この質問から始めるというのは面白いですね。なぜなら、ここベルリンではアートと政治に関する全く新しい議論が引き起こされているのです。これはある部分では、もうすぐ行われる第7回ベルリン・ビエンナーレがきっかけです(そこでは、ディレクターを務めるアルトゥール・ジミェフスキが、キュレーションの前提として、アーティストの政治的立場に焦点を合わせている)。そこでまず、わたしが質問に答える前に、あなたの立ち位置から、アート作品はいつ政治的なものとなるのかについて教えてもらえますか。わたしの作品はフェミニストであるということが引き合いに出されることが多いとおっしゃいましたが、どうやら、あなたにとって、フェミニストであるということは既に政治的声明であるということですね。

ART iT 広義的な解釈ではあるけれども、わたしにとって政治的表現にはメッセージや批評を含む何かがあります。それと同時に、既存の社会構造に抵抗するものと、モダニズムのような芸術の様式への批評には違いがあると考えています。しかし、例えば、カール・アンドレの彫刻の形とベッドを組み合わせた「BEDTIMESQUARE」(1999)のように、あなたの作品ではその両方がなされていると感じるのです。このような文脈において、あなたが自身の実践をどのように捉えているのかに興味があります。

MB わたしは1970年代の左翼運動の影響が色濃く残る、非常に政治的な風潮のイタリアで育ちました。80年代はそこまで過激ではなかったのですが、高校生のとき、たくさんのデモやストライキ、討論などに参加していました。文化に関わる何かをするのであれば、政治的なのは当然だと考えて過ごしてきましたね。ベルリンに移って、同僚やさまざまな人と出会って初めて、わたしにとっての単なる左翼が、彼らにとって実は完全に極左だったということに気がつきました。
また、アーティスト、文化に関わる人が社会や公共に対して責任を持つことも当然だと考えてきました。わたしにとって、アートをそのように考えるのはごく自然なことなのです。最初の数年間、絵画を学んでいたのですが、その後、止めてしまいました。そこまで意図的に決断したというわけではなかったのですが、絵画があまりにも孤独な作業に感じられ、絵画を通してではわたしの求めていた衝撃を得ることが出来なかったのです。それ以来、わたしの作品は常に人と関わるものになりました。その後、カリフォルニアのカルアーツで学んだ一年も影響がありましたね。そこでは、アートが極端に政治的ではなくても、充分に政治的で批評的なものとして考えられていました。


BEDTIMESQUARE (1999). Wood, white ceramic tiles, gravel tiles, drywall panels, air mattress, 60x400x360cm. Courtesy of the Artist and Galerie Max Hetzler, Berlin

ART iT 日本では1950年代から70年代にかけて非常に大きな学生運動がありましたが、今では当時のような幅広いアクティビズムはほとんど消えてしまいました。おそらく80年代のバブル経済とそれに続く不況が関係しているのではないかと思います。あなたが経験したイタリアでの学生運動の終わり頃について興味があるのですが、その頃の雰囲気やその時代から受けた影響についてもう少し教えてもらえますか。

MB 当時も学生運動は依然として強い影響力がありました。わたしは、自主的に組織された読書や討論を行うグループに参加し、終わることない政治に関する議論を交わしていました。たぶん、イタリアはご存知の通りカトリックの国なので、共産主義に対する少し変わった解釈を持っていて、例えば、共産主義の避けられない表象としての東ドイツを抱えていた西ドイツで育った人に比べて、そうした考え方を自然に受け入れるのでしょう。
高校時代、わたしが教わっていた経済学の先生はまさに革新左翼の人で、トレントで赤い旅団という極左組織の創設者ともいわれるレナト・クルチョとともに社会学を学んでいました。ベルボトムをはいて、まるで70年代のような格好をして校内を歩いては、みんなにからかわれていましたが、わたしは彼女のことを尊敬していました。彼女が極端なマルクス主義的解釈で金融制度を教えてくれたために、それ以来、すべての銀行は制度化された泥棒だとわかっています。また、ドイツ語の教師は毎日、赤い旅団の解放のための署名を街で集めていました。
グループでは『資本論』を読んだり、レーニン、ときにはトロツキーを読むグループにもしばらくいましたね。それらはちょっと非現実的でしたけど……。わたしには英雄などいなかったし、英雄を信じるということもなかったけれど、わたしが期待を寄せていた人たちは、より良い世界のために戦ったりして、全員が投獄されてしまいました。
「われわれは現実よりもラディカルであらねばいけない」というレーニンの言葉が好きで、制作時にもよく考えています。この問いは、それが何を意味するのかを自答させ、自分にとって現実とは何かを問い直させるところが気に入っています。もちろん、わたしが現在生きている現実は、10年前のわたしの現実とは完全に違います。そして、一般的な現実はあまりにも速いスピードで変化しています。それでもなお現実よりラディカルでいることは可能でしょうか。それが意味するものとは。また、人々はそれを理解するのでしょうか。そして、わたしは彼らが理解することを望んでいるのでしょうか。
90年代、すべての展示に長椅子やビデオが配された休憩所が設けられましたが、それこそまさにわたしが自分のアートに望んでいないものでした。もちろん、ときにアートは人をくつろがせるでしょう、しかし、アートはわたしを眠らせるものではないのです。

ART iT 新作を作る際、作品が観者に対する批評やアジェンダとして機能することを意図していますか。

MB それはありませんね。しかし、同じ作品でも異なる美術施設や街で展示すると、受け取られ方が異なることがよくあります。そして、人によって作品がある方向に解釈され、また別の方向へと解釈されます。人は作品だけに反応するわけではなく、美術館、もしくはそのプログラムを企画したキュレーターに対しても反応します。そうしたことはときどき制限にもなるのですが、同様にそうした状況へと踏み込むリスクをとることで、もっと自由を手にすることもできるのです。

ART iT 若い時期のイタリアでのラディカルな政治経験が、アート制作へと向かわせる信念を与えたと言えるのでしょうか。ただ、作品においてその経験を歴史化しようとしているわけではありませんね。

MB たしかにあの経験は私の教育体験の一部です。90年代にジェンダー理論に基づいた作品をいくつか制作しましたが、当時、ジェンダー理論は完全に流行となっていました。そこから、フェティシズムに関する作品の制作へと移行していきました。性やフェティシズムの領域について調べていくと、マルクス主義的、フェミニスト的、リベラルな解釈を身につけますよね。しかし、わたしは現実の政治に関する作品を制作していないように、現在もマルクスやチェ・ゲバラなどに関する作品も制作していません。わたしはいま現在新聞に載っていることではなく、かつて新聞に載っていたことを分析している本に書かれていることに興味があるのです。常に距離を保つこと、それが重要なのだと思います。

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