ディン・Q・レ「忘れえぬものに」(2)


Installation view of Dinh Q Lê, “Memory for Tomorrow” at the Mori Art Museum, Tokyo, 2015. Photo Nagare Satoshi, courtesy the Mori Art Museum, Tokyo.

 

忘れえぬものに
インタビュー / アンドリュー・マークル
Ⅰ.

 

Ⅱ.

 

ART iT ここまで、私たちは物としてイメージを扱うこと、また、表現や象徴としてイメージを扱うことについて話してきました。しかし、あなたが近年発表したふたつの作品、共産党員の従軍画家を主題とした「光と信念:ベトナム戦争の日々のスケッチ」(2012)と、アーティストのトラン・トゥルン・ティン[1]を主題とした「闇の中の光景」(2015)はそれぞれ、アートそれ自体をどのように定義するか、また、それを交流のための共有の場としてどのように使用するかを問いかけています。日本でもまた西洋の概念であるアートとの悩ましい関係性を抱えているために、このような問いがしばしば話題に上がります。

DQL 日本人画家としてプロパガンダの「戦争記録画」を描き、戦後、激しく糾弾されて国を離れたレオナール・フジタ(藤田嗣治)[2]を知ったのは興味深いことでした。

ベトナムは現在も共産主義国家で検閲も支配的にあり、私たちは日々そうしたものと戦っています。「光と信念:ベトナム戦争の日々のスケッチ」と「闇の中の光景」のふたつの作品は、戦時下にアーティストが果たした役割を理解する手助けになるとともに、現在、私が担っている役割に対する視座を与えてくれました。文脈も異なりますし、当時ほど厳しいものではないとは思いますが。だから、制作の動機のひとつとして、私が現在のベトナム政府にどう対応すべきかを考えたり、自分がとるべき選択肢や当時自分が活動していたら何を選択していたかについて考えたりする手助けとして、彼らが体験したことを理解したいという欲望もありました。

 

ART iT 「光と信念:ベトナム戦争の日々のスケッチ」を通じて、あなたは従軍画家たちにふさわしい尊厳を与えているのだと思いました。

DQL そうです。はじめは彼らの誰ひとりとして知りませんでしたが、対話していくことで初めて彼らのことを理解していきました。そして、すべてのインタビューが終わったとき、私は彼らに対してまったく違うイメージを持つようになりました。もともと、トラン・トゥルン・ティンは最初の「光と信念:ベトナム戦争の日々のスケッチ」の中でカウンター・ナラティブとして登場させる予定でした。しかし、共産党員のアーティストへのインタビューを終えて、私は彼らに対してしぶしぶながらも尊敬の念が芽生えてきました。そのような尊敬の念により、プロジェクトはふたつの独立した映像作品に分けることにして、どちらかを否定するようなやり方ではなく、むしろ、それぞれに完結した議論を与えることにしました。

ふたつの章になっていると言えばいいでしょうか。それぞれ成立していますが、両方の作品を見ることで、先に見たものに対して疑問を抱かせてくれるのではないかと願っています。まるで私が自分自身の人生と制作活動の中で絶えず気づかされるように、一方の登場人物を好意的に感じても、もう片方の作品を見てその好意への疑いが芽生えてくる。非常に複雑なものになるでしょう。これが制作をはじめて20年経っても、私がベトナム戦争に関する作品をつくり続ける理由です。そこに正しい答えなどありません。常にとても複雑なままなのです。

 

ART iT これをさらに推し進めることで、トラン・トゥルン・ティンを古典的な「反体制」アーティストとして浮かび上がらせることもできるでしょう。西洋の観客はそうしたアーティストを評価しやすいですよね。

DQL おそらくそうでしょう。しかし彼は当初、共産主義の理念の信奉者として活動をはじめ、それから考え方を変えました。私はときどき次のように自問します。同じような状況において、私はトラン・トゥルン・ティンと共産党員のアーティストのどちらだっただろうか、と。誰しもを圧倒させるある種のナショナリズムの精神というものがあり、それにはなかなか抗えないから、自分は共産党員のアーティストになっていたのではないだろうかという結論に到ることが何度もあります。

しかし、どんな社会にもこのようなイデオロギーの捻れがあります。美術史家のモイラ・ロス[3]は抽象表現主義のアーティストに関する「無関心の美学(The Aesthetic of Indifference)」という美しい論文を書いていますが、その中で彼女は、抽象表現主義のアーティストは当時の赤狩りを恐れて、政治的問題を忌避し、現実を扱うよりも個人主義へと撤退していったのだと述べています。彼女は彼らを西洋のアートの牙城を打ち破る英雄としてではなく、臆病者として提示しています。

 


Light and Belief: Sketches of Life from the Vietnam War (2012), installation of 100 drawings in pencil, watercolor, ink, and oil on paper / single-channel color video with sound, dimensions variable; video 35 min. Collection Carnegie Museum of Art, Pittsburgh, The Henry L. Hillman Fund, 2013.37.1-102. Installation view at Mori Art Museum, Tokyo, 2015, photo Nagare Satoshi, courtesy Mori Art Museum, Tokyo.

 

ART iT アーティストとしての活動に加えて、あなたはホーチミンのサン・アート[4]というアートスペースの共同設立者のひとりでもあります。このスペースの目標は、ベトナムの主流なアカデミズムの体制に対するオルタナティブを提供することだと理解していますが、これまで、地元コミュニティが理解するものを尊重することと、国際的なアートの実践に対応することとの間の微妙なバランスが必要とされると感じたことはありませんか。

DQL 私たち(サン・アート)は、人口1100万人から1200万人の都市の極めて小さな組織で、これまでの8年間の活動で重点的な取り組みは変化してきました。あらゆる人に対応することなどできないので、当初、私たちは一般的な観客にほとんど注意を払っていませんでした。それよりも、現代的な実践、新しい形式、新しいメディウムについて考えているアーティストのコミュニティをつくることに関心を持っていました。対話や実験、失敗のための場所をつくることで、お互いを支え合うことが目的だったのです。

しかし、それは時間とともに変わっていきました。フランス絵画や社会主義リアリズムに基づく美学を抱える画家は、サン・アートを彼らの場所ではないと思っていますが、美術学校自体は徐々に私たちに対するある種の敬意を払うようになってきました。そこで教える教師には現代美術の知識がない。周りの世界が進化しつつあるなかで、彼らの学生は現代美術に興味を持つようになってきたにもかかわらず、教師に情報がないので教えることができないのです。彼らは若いアーティストに技術こそ教えていますが、若いアーティストは不足を補うべく、私たちのところにさらに学びにくるようになったのです。これは関係性の興味深い変化です。嫌々ながらも尊重する。私たちのコミュニティはお互いに折り合いをつけている。そこが鍵ですね。

しかし、ここ二年間にわたり、ディレクターを務めるゾーイ・バット[5]が新しいプログラムを考案し、サン・アートの役割を変えました。現在、ホーチミンにおける知的生活の欠乏に対して、サン・アートは外部から知識人を呼んでレクチャーやワークショップを開いています。私たちのコミュニティには、あらゆる知識の領域が繋がっていることに意識的なアーティストや人々がそれほどおらず、彼らはそれぞれの領域を隣接する領域と隔てて考え続けています。そういうこともあって、私たちはひとつの場所にさまざまな領域を持ち込みたいと考えました。数学者や考古学者、歴史学者、アーティストを招いて、ワークショップを開き、コミュニティのアーティストが異なる知識の領域の間に繋がりを見出だせるよう助けてもらっています。そうすることで、彼らは幅広い理解の手段とともに自分自身の制作にアプローチすることができるわけです。

 


Come Back to Saigon (from the series “Vietnam Destination for the New Millennium”) (2005) Digital print, 76.2 x 96.6 cm, Courtesy: Elizabeth Leach Gallery, Portland.

 

ART iT 現在、ベトナム系のディアスポラのたくさんのアーティストが国際的な成功を収めていますが、このディアスポラの本質はある意味では差異のコミュニティではないかと思っています。最近ちょうどインタビューをする機会があったのですが、例えば、アン・ミー・レー[6]は15歳のとき、家族とともにベトナム戦争の終わり頃にベトナムを離れ、アメリカへと渡りました。一方、ヤン・ヴォー[7]はデンマークで育ちました。そして、あなたにもあなた自身の体験があります。共有する歴史を持ちながら、誰もがまったく固有の文脈や視座を持っているわけです。

DQL 上手く言葉にしましたね。戦後に生まれたものもいれば、戦前に生まれたものもいるけれど、どういうわけか私たちはみなゆっくりと作品を通して各自のやり方であの戦争を扱っています。それはいったいなぜなのか。おそらく、両親を通じてだったり、メディアを通じてだったり、好き嫌いにかかわらず、私たちはみなあの出来事を受け継いでいて、それがこの問題に向かうように仕向けているのではないでしょうか。

 

ART iT たぶんそれは「マスター・ナラティブ」という概念自体を揺さぶる可能性を拡げるのではないでしょうか。たとえ誰もが共有していたとしても、唯一のマスター・ナラティブなどない、と。私自身が育った80年代のアメリカには、ベトナムの視座から物事を考える可能性などまったく存在しなかったと実感しているので、ベトナムに関するマスター・ナラティブを書き換えようとするあなたの試みは素晴らしいと思いました。

DQL 今日でさえ、私の実践をベトナム系アメリカ人が目にしたら、面倒なことになるでしょう。しかし、時間と距離は変化をもたらします。まったく新しい世代のベトナム系アメリカ人が生まれてきて、彼らは差異に対する準備ができているように思います。彼らの多くはベトナムに戻ってきて、この国や文化について学んでいます。あの戦争が終わってから既に40年が経ち、関わった人々はアメリカ人であれベトナム人であれ、今ではみんな引退して、以前とは異なる心情を抱いています。あらゆる怒りがおさまったら、私たちは交流の場を見つけられるのではないでしょうか。

(協力:森美術館)

 


 

[1]トラン・トゥルン・ティン(1933-2008):フランスからの独立運動に参加し、共産党員となるが、やがて党に対する信奉を失い、独学で絵画をはじめる。ベトナム戦争時、69年から75年にかけて、ハノイを拠点に新聞紙や自作のキャンバスに表現主義的な絵画を描き続けた。ベトナム戦争後も制作活動を続け、2013年にはハノイ美術博物館で初の回顧展が開催された。

[2]レオナール・フジタ(藤田嗣治)(1886-1968):東京美術学校(現・東京藝術大学)を経て渡仏し、サロン・ドートンヌに出品するなどパリを拠点に制作活動を行なう。33年に帰国。日中戦争および太平洋戦争時は、陸海軍の委託で戦争画を制作、陸軍美術協会理事長を務める。敗戦後は戦争画の説明のため連合国総司令部嘱託に就任。戦争責任問題で強く非難され、49年に日本を離れると55年にフランス国籍を取得、生涯日本に帰ることはなかった。

[3]モイラ・ロス(1933-):フェミニズムやアジア系アメリカ人の美術史を専門とする美術史家。詩人、脚本家としても活動。ロンドンで移民の両親のもとに生まれ、50年代後半にアメリカに移住。85年よりサンフランシスコのミルズ・カレッジで教鞭を執る。『ディン・Q・レ展:明日への記憶』(森美術館)のカタログに「ベトナムとアメリカ:ディン・Q・レの人生、アート、記憶」を寄稿。

[4]サン・アート:ディン・Q・レがトゥアン・アンドリュー・グエン、ティファニー・チュン、プー・ナム・トック・ハとともにホーチミンに設立した非営利のインディペンデント・アートスペース兼リーディングルーム。

[5]ゾーイ・バット:キュレーター。サン・アートのエグゼクティブ・ディレクターを務める。クイーンズランド・アジア現代美術館のアシスタント・キュレーター、北京の国際的プログラム「ロング・マーチ・プロジェクト」のディレクターを経て現職。『ディン・Q・レ展:明日への記憶』(森美術館)のカタログに「ディン・Q・レを位置づける」を寄稿。

[6]アン・ミー・レー(1960-):世界各地のアメリカ軍基地での訓練や調査活動を撮影した写真シリーズ「陸上の出来事」などで知られるアーティスト。サイゴン生まれで、ベトナム戦争末期の75年に家族とともにアメリカ合衆国に移住。
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[7]ヤン・ヴォー(1975-):文化的アイデンティティ、政治、歴史に関連する切迫した関心事を、時間や空間を横断する詩的なアプローチで扱う作品で知られるアーティスト。ベトナム・バリア生まれで幼少期に両親とともにボートピープルとしてベトナムを脱出、デンマーク船に救助され、そのまま亡命。
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ディン・Q・レ|Dinh Q Lê

1968年ベトナム・ハーティエン生まれ。現在、ホーチミン在住。ポル・ポト派の侵攻を逃れるために78年に家族とともに渡米し、同地のカリフォルニア大学サンタバーバラ校やニューヨーク視覚芸術学校で写真とメディアアートを学ぶ。89年より、ベトナムの伝統的なゴザ編みから着想を得た、写真を裁断してタペストリー状に編む「フォト・ウィービング」シリーズの制作をはじめ、2003年には第50回ヴェネツィア・ビエンナーレ イタリア館に出品。その後も、ベトナム戦争の象徴ともいえるヘリコプターの独自開発に挑む男性に焦点を当て、ベトナム人と戦争との複雑な関係を巧みに描写した「農民とヘリコプター」(2006)や、かつての従軍画家たちの100点のドローイングと、彼らの戦時の青春を蘇らせるような映像作品からなる「光と信念:ベトナム戦争の日々のスケッチ」(2012)など、ベトナム戦争をさまざまな視点から描いた作品の発表を続けている。近年、シドニーのシャーマン現代美術基金(2011)、ニューヨーク近代美術館(2010)などで個展を開催。メディアシティ・ソウル2014、ドクメンタ13(2012)、シンガポール・ビエンナーレ(2008、2006)といった国際展に参加している。

2015年、日本国内で撮影した新作「人生は演じること」をはじめ、過去の代表作を集めた大規模個展『ディン・Q・レ展:明日への記憶』を森美術館で開催。

 

ディン・Q・レ展:明日への記憶
2015年7月25日(土)-10月12日(月、祝)
森美術館
http://www.mori.art.museum/

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