ディン・Q・レ「忘れえぬものに」


Everything Is a Re-Enactment (2015), single-channel color video with sound, military uniforms, 26 min. Commissioned by the Mori Art Museum, Tokyo, 2015.

 

忘れえぬものに
インタビュー / アンドリュー・マークル

 

I.

 

ART iT 森美術館の展覧会を拝見して、あなたは作品を通じてイメージの扱い方について考察しているのではないかという印象を抱きました。例えば、表現としてのイメージ、共同幻想としてのイメージ、商品としてのイメージ、物としてのイメージ。まずはこのような側面について聞かせてください。

ディン・Q・レ(以下、DQL) ベトナム戦争が歴史上最もメディア化された戦争であるという事実をご存知だと思いますが、そのようなイメージのすべてが、今日に至るまで続く、ベトナムに関する非常に厄介なイメージを生み出してきました。そうしたイメージがどのようにベトナムを世界に伝えているのか、同時に、それが私自身のアイデンティティとどのように繋がっているのかに興味があります。また、どうすればそのようなイメージをコントロールする権利を取り戻せるのかに対する関心もあります。こうしたことが長年にわたる作品制作の原動力になってきました。

 

ART iT ドキュメンタリー映画やハリウッド映画などから取った映像と、ベトナムでご自身で撮影した映像の三面の巨大プロジェクションの向かいにヘリコプターの実物を展示した「農民とヘリコプター」(2006)のインスタレーションをみて感動しました。まず、実物のヘリコプターに惹かれて、それが思っていたよりもかなり大きく、それをじっくり調べながら、ふとスクリーンに目をやると、そこにはちょうどベトナムのたんぼを飛び渡るアメリカ軍のヘリコプターの群れが映っていました。それは物とスクリーンとの間に起きた転換という強烈な瞬間でした。

DQL この実物のヘリコプターが、ほかのヘリコプターを物語る。だからこそ、物としてのヘリコプターに関心を持っています。それぞれがそれぞれの物語を持っている。物はある種の目撃者で、話に現実味を与えます。もうひとつ魅力的に感じたのは、実物がなくて映像だけにすると観客はヘリコプターは小さいものだと考えてしまいますが、実物を見ることで、映像に登場するふたりの男性の欲望や試みに対して、まったく違う印象や見解を持つことになるでしょう。

 




Above: The Farmers and the Helicopters (2006), three-channel color video with sound, 15 min, with handcrafted full-size helicopter, 250 x 1,070 x 350 cm. Collaborating artists: Tran Quoc Hai, Le Van Danh, Phu-Nam Thuc Ha, Tuan Andrew Nguyen. Commissioned by Queensland Gallery of Modern Art. Installation view at the Mori Art Museum, Tokyo, 2015, photo Nagare Satoshi, courtesy Mori Art Museum, Tokyo. Below: Untitled (Paramount) (2003), C-print and linen tape, 101.6 x 152.4 cm. Collection Ann and Mel Schaffer Family, New York. Photo courtesy Bellevue Arts Museum, Washington.

 

ART iT あなたの作品には物とイメージの関係性の域を越えて、触覚とイメージの関係性も繰り返し現れてきます。写真を裁断してタペストリー状に編んだ「フォト・ウィービング」シリーズの「無題(パラマウント)」(2003)には、青いカウガールの衣装に身を包んだゴーゴーガールと、子供を抱える男性の白黒写真が編み込まれています。このシリーズは、スクリーンやプロジェクションよりも物としてのイメージという考えを際立たせるものですね。

DQL このシリーズはいわゆるフラットなイメージとはまったく違う感覚をもたらします。そこにはある質感や「二番目のレイヤーはなんだろう」とか「最初のレイヤー上に何が隠されているのか」と考えさせる重なりがあります。表面上に見えるものを越えて、完全に掴みきれないような何枚ものレイヤーがその下に隠されているのではないかと理解が深まりました。ふたつのイメージがピクセルとストリップ(※ひも上に裁断された写真)からなる領域の支配権を競い合い、それはある意味で、ハリウッドによるイメージの支配権を打ち壊そうとする私の試みでした。

 

ART iT この作品の制作を始めた頃、既にピクセルというアイディアは頭の中にありましたか。

DQL ウィービングは最初のバイナリー構造ですので、常にこの作品をピクセルという側面から考えてきました。いや、正確に最初からではないかもしれませんが、このシリーズに長年取り組んできて、とりわけ80年代後半の最初の一連の作品以降は、ピクセルとの関係を意識してきました。

 

ART iT 実際のところ、この作品は非常に厚みがあるように感じますね。また、作品の縁が何か焼け焦げたかのようになっています。

DQL その焼け焦げたような効果は、すべてのストリップを繋ぎ止めるために始めましたが、きっちりとした縁では得られないような物質性を作品に付与しています。それはまるでこのイメージが出来事やプロセスといった何事かを通り抜けて、このような形で辿り着いたかのようです。焼けたり焦げたりしているので、なにか暴力的なプロセスを示唆します。プロパンガスバーナーを使っていて、カラー写真の紙のプラスチック部分が、火をつけるといっしょに溶けていきます。

 




Above: Untitled (Double Woman) (2003), C-print and linen tape, 96.5 x 182.9 cm. Collection Keith Recker and James Mohn. Below: Erasure (2011), single-channel color video with sound, found photographs, stone, wooden boat fragments, wood walkway, computer, scanner, dedicated website (erasurearchive.net), dimensions variable, video 7 min. Commissioned by Sherman Contemporary Art Foundation, Sydney, 2011; supported by Nicholas and Angela Curtis. Installation view at Mori Art Museum, Tokyo, 2015, photo Nagare Satoshi, courtesy Mori Art Museum, Tokyo.

 

ART iT 「抹消」(2011)の展示では、写真に触れることでさまざまな時間が折り畳めるという仕組みになっています。腰を屈めて床面に散らばった写真の1枚に手を伸ばして拾う行為は、観客をその場とは異なる時間やリアリティへと運んでいきます。例えば、私が拾ったのは若い女性の肖像写真で、裏に「Saigon, August 1, 1960(サイゴン、1960年8月1日)」と日付が記してありました。すると突然、私にとって過去のその瞬間と現在が直接的に繋がったのです。

DQL この作品は3つの異なる時間を折り畳んでいます。現在の出来事、「ボートピープル」としての私の個人的な歴史、そして、オーストラリア入植者のヨーロッパからオーストラリアへの旅。
写真に触れることは、親密な繋がりを生み出します。この作品を最初に制作・発表したオーストラリアの文脈ではボート難民に関する議論がかなり問題になっていたので、こうした親密さをつくらなければならないと感じていました。彼らはこの問題を語るとき、ほとんど難民を人間として考えるのを拒んでいました。写真を拾い、それを見るという行為は、観客に難民を再び人間として考えることを強いるものです。少なくとも私はそういう効果を望んでいました。

 

ART iT 日本で撮影した新作「人生は演じること」(2015)は、ベトナムのイメージを扱う作品からの出発点のようです。しかし、ファンタジーとリアリティの境界を問うている点や、歴史とどのように関係するかという点ではそれ以前の作品との連続性もありますよね。

DQL あの映像作品に登場しているナカウラさんにとって、生活とファンタジーは混ざり合っているかのようで、そこに境界線はありません。そこが彼の興味深い点です。あの映像自体の中で、撮影者が彼に指示している場面を挿入するなどして、スクリーン上のファンタジーを絶えず混乱させることが重要だと感じていました。ハリウッドだろうがインターネットだろうが、現在、私たちはみな、ファンタジーの領域の中に生活のかなりの部分を負っています。こうして漂っているあらゆる情報にほとんど区別などありません。

 

ART iT 彼にはどこで出会いましたか。

DQL 私は以前から靖国神社とそれにまつわる論争に関心があり、遊就館にも訪れたことがあります。あそこは非常に大きな問題をはらんでいて、とりわけ8月15日頃の週末には、ナカウラさんのように制服を身にまとった人々が神社の周りをうろうろしているのを見たことがあります。森美術館が新作を依頼してきたとき、私はそうした人々をもっと理解してみたかったので、8月15日に靖国神社を再訪することに決めました。例えば、そこにはおそらく先の戦争に従事したり、当時、まだ子供だったと思しき年配の男性たちといった戦争となんらかの直接的な繋がりを持つ人々がいるのは当然といえば当然なのですが、40歳のナカウラさんのように、終戦の30年後に生まれた人々についてはなかなか理解できません。何が彼らをこうしてしまったのでしょうか。

そこで、私たちは現場を見に行きました。たくさんの人々がいましたが、すぐに常軌を逸しているとわかるような人には興味がなく、そういう人は相手にしていませんでした。しかし、ナカウラさんはとてもシャイで、コスプレをしていましたが、神殿の影に隠れるように立っていて、好奇心がそそられました。隠れるくらいなら、どうしてそこまで完璧にコスプレする必要があるのか。なにかを見せびらかすということを越えて、彼にはそこにいるべきなんらかの信念があるに違いないと思いました。そこで彼に話しかけ、彼がベトナム戦争のリエナクトメントのグループに参加していることを知りました。そう、すごく不思議なことですが、靖国神社への関心がベトナム戦争のリエナクトメントへと突然変化したのです。

最初に考えていたのは、そのリエナクトメントのグループの活動を撮影することでしたが、グループのリーダーは、ベトナムの人々がいい年の日本人男性たちが軍服を着て、ベトナム戦争の悲痛な体験を再演していることを不快に思うのではないかと心配し、私の提案を辞退、そこで、ナカウラさんひとりに焦点を合わせていくことになりました。

 

ART iT ということは、彼に出会ったときに、このプロジェクトの本質は変化したということでしょうか。
DQL その通りです。私は日本におけるあるひとつの徴候としてのナカウラさん、そして、第二次世界大戦における国家の行動に対する開かれた議論が日本において明らかに不足していることに興味を持ちました。ほとんどの人が起きたことを静かに受け入れ、先へと進み、出来事全体を無視しているけれど、わずかに理解しようとし続けている人もいるのです。私はナカウラさんの中に自分自身と共通する何かを見ています。私もまたベトナム戦争に少し取り憑かれていて、彼の戦争に対する妄想や戦争を学ぶことに対する真剣さについてもっと知りたいと思うようになりました。例えば、彼や参加グループは、各リエナクトメントに対して徹底的なリサーチをしていました。

しかし同時に、日本では第二次世界大戦に対するオープンな議論がほとんどないので、ナカウラさんはそれを自分自身で学ばなければならなくて、その過程が彼自身を非常に問題のある場所へといざない、問題のある人々と繋げてしまったのだと感じています。結果的に、彼の考えが倒錯した、現実離れしたものになってしまったのではないでしょうか。

 


Everything Is a Re-Enactment (2015).

 

ART iT ナカウラさんは本作品内でかなり共感的に撮影されていたと思いました。およそ感じのいい人物として映っています。おそらく、彼の考え方にもっと突っ込んでいくこともできたのではないでしょうか。

DQL 興味があったのは、彼の子供みたいなところです。作品冒頭部で、彼が子供みたいに自分のおもちゃを見せてくるのがはっきりとわかりますよね。このように子供っぽい人物として彼を見せることに批評性があるのだと思います。自分の作品の中で、直接的にけしかけることへの興味はなく、むしろ、このユニークな男性をそのまま提示したいわけです。こうした問題について適当な知識を持っている方にとって、彼の論拠は問題だらけかつ現実離れしたもので、私はこれ以上何も言う必要がないと感じました。誰も彼の言うことを信じないだろう、と。とはいえ、日本の人々は違う解釈をするかもしれませんね。

 

ART iT あなたはファウンド・フッテージを使用した作品を数多く制作していて、また、「農民とヘリコプター」ではファウンド・フッテージに正攻法のドキュメンタリーの映像を組み合わせています。そうした経験は今回の撮影クルーとの仕事に活かされましたか。

DQL 最初にナカウラさんに出会い、話をしてみて、彼がいかに現実離れしているのかがわかっていたので、自分がこれまでの作品とは異なる映像の美学を望んでいることを知っていました。どこか現実離れした物語をつくることを頭に入れながらも、いったん現場に入ったら、映像の構造は現場の成り行きで展開していきました。例えば、着替えのシーンは計画にはありませんでした。自宅を撮影してもいいかと尋ねてみたら、彼が承諾してくれて、現場についてはじめて制服など彼の宝の山を見つけました。そこですぐさまそれらを試着していくシーンを撮りたいと言うと、彼はその気になってくれました。彼は本当に嬉しそうに軍服などを見せてくれて、これが作品の冒頭シーンになりました。初期のアイディアのひとつとして、彼に軍服姿で職場のバーに勤めているホステスに話をしてもらおうと考えていましたが、バーのオーナーにダメだと断られました。そういうわけで、当初はもっとリアリティとファンタジーが混ざり合ったものになる予定だったのです。

(協力:森美術館)

 

ディン・Q・レ インタビュー(2)

 

 


 

ディン・Q・レ|Dinh Q Lê

1968年ベトナム・ハーティエン生まれ。現在、ホーチミン在住。ポル・ポト派の侵攻を逃れるために78年に家族とともに渡米し、同地のカリフォルニア大学サンタバーバラ校やニューヨーク視覚芸術学校で写真とメディアアートを学ぶ。89年より、ベトナムの伝統的なゴザ編みから着想を得た、写真を裁断してタペストリー状に編む「フォト・ウィービング」シリーズの制作をはじめ、2003年には第50回ヴェネツィア・ビエンナーレ イタリア館に出品。その後も、ベトナム戦争の象徴ともいえるヘリコプターの独自開発に挑む男性に焦点を当て、ベトナム人と戦争との複雑な関係を巧みに描写した「農民とヘリコプター」(2006)や、かつての従軍画家たちの100点のドローイングと、彼らの戦時の青春を蘇らせるような映像作品からなる「光と信念:ベトナム戦争の日々のスケッチ」(2012)など、ベトナム戦争をさまざまな視点から描いた作品の発表を続けている。近年、シドニーのシャーマン現代美術基金(2011)、ニューヨーク近代美術館(2010)などで個展を開催。メディアシティ・ソウル2014、ドクメンタ13(2012)、シンガポール・ビエンナーレ(2008、2006)といった国際展に参加している。

2015年、日本国内で撮影した新作「人生は演じること」をはじめ、過去の代表作を集めた大規模個展『ディン・Q・レ展:明日への記憶』を森美術館で開催。

 

ディン・Q・レ展:明日への記憶
2015年7月25日(土)-10月12日(月、祝)
森美術館
http://www.mori.art.museum/

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